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2012年 03月 14日
第1回 UX Kyotoに参加しました
UB(ユーザービリティ)、UX(ユーザーエクスペリエンス)はずっと最も関心のある分野だったのだけれど、勉強会はあまり開催されていなくて、ようやく先週の土曜日に初めて参加しました。

予想を超えて素晴らしかったです。

まず講師の浅野智先生が、実際にたくさんの事例をお持ちで、話も面白くわかりやすかったです。
初めてのUXの勉強会の講師が浅野先生だったのは幸運だったと思います。

参加者も意欲的な人が多く、とても有意義な会でした。

いろいろな気づきがあったので、そのメモです。
念のために注意書き。ほとんどが講義の内容ですが、一部の言葉の選択に私個人の意見も混じってます。

UB からUXへ
 ISOの規格も変わった。使いやすいということから、ユーザーにより良い体験をもたらすことが重要に。サービスには、「気持ちよく使えた、嬉しかった、面白かった」が求められる時代に

モバイルファースト
インターネットに初めて触れるのはモバイルで、使うのもモバイルのみという状況が、発展途上国やあるいは、若い世代にある。インターネットの利用の考え方がパソコン利用世代とは異なる。また、情報探索のリテラシーが低い。

パソコン時代のウェブサイト/ウェブサービスは、検索するなどしてそのページにやってくる、というものだったが、目的別のアプリを使う。知っているアプリで実現できないなら、あきらめてしまう。

ペルソナとシナリオ
ペルソナはユーザー像で、シナリオは実際にそのサービスを利用するシナリオ。
ペルソナを持っていますなんて話をよく聞くが重要なのはシナリオである。
サービスは、「特定のユーザーによって特定の利用状況で」利用されるものであり、これをはっきりさせなければ評価もしようがない。

シナリオは2種類ある
アクティビティシナリオとインタラクションシナリオ。
アクティビティシナリオは、ユーザーが必要としていること。目的。
例えば、町でばったり知り合いと会って、一緒にご飯を食べにいくためにお店を決める、というのがアクティビティシナリオで、インタラクションシナリオは、スマフォで食べログアプリを開いて検索する、というもの。
インタラクションシナリオは時代によって変化する。雑誌をみて調べたかもしれないし、明治なら新聞に載っていたお店にするかもしれない。
しかし、アクティビティシナリオは変わらない。

デバイスの変化が激しい近年はいっそう、アクティビティシナリオと、そのペルソナについての理解こそが重要になっている。

アクティビティシナリオはコンテクストが重要
テーマにウェブサイトを与えられて、そのサイトを利用したアクティビティシナリオとインタラクションシナリオを作り、他のグループから被験者を呼んで、アクティビティシナリオだけを見せて、どのように使うかを観察した。

私たちのグループは、京都市全体の図書館のサイトで、当初、アクティビティシナリオを「最近京都に引っ越してきた。知り合いから、司馬遼太郎の「新選組血風録」がいいと勧められたので借りようと調べて、最寄りの図書館へのアクセスを調べる」というものだったが、浅野先生からは、面白くない、それなら、「会社の同僚で気になっている女性が、歴史好き、歴女であり、どうも幕末、特に新撰組沖田総司が大好きらしい。彼女と話ができるように沖田総司とその周辺の知識をおさえられる本を図書館で借りたい」がいいんじゃないかとコメント。

このコメントから、アクティビティシナリオは意味付けであり、文脈であり、コンテクストということを理解しました。
ものだけでなくて、コトづくりが大事なんて聞きますが、いかに実際にユーザーが日々体験しているアクティビティシナリオを作れるかが重要。一方で、そのシナリオはそれなりに汎用性のあるものでないとマッチする人が少なくなってしまうから難しくもある。

アクティビティシナリオからインタラクションシナリオをつくるのがデザイン
実現したい目的(アクティビティシナリオ)から、インターフェースの構成要素(ボタンなど)を活用した解決手順(インタラクションシナリオ)を設計することこそがデザインである。

ローカライゼーションとはアクティビティシナリオを別々に準備すること

>>
アクティビティシナリオとインタラクションシナリオを分けて考えるなど、その言葉は知らないが実践していたことはあり、やっていることが間違っていなかったという思いと、洗練された方法論を学ぶことでもっともっとブラッシュアップできることをはっきりと認識できました。

個人で参加するだけでなく、UXの関西コミュニティが盛り上がるようなお手伝いもしたいと思っています。
# by taiji_nakao | 2012-03-14 07:16 | 参加したイベント | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 04日
自己実現という言葉の違和感と価値観について。大切なのはおおらかさ
「個性」、「クリエイティブ」、「ユメ」、「自己実現」、「本当の自分」、「自分らしさ」といった言葉は、就職活動における「自己分析」などという言葉とともに、喧伝されている。

私などは見事に、この時代の空気を吸ってきたように思います。今の自分の仕事の仕方は、そんなカテゴリがあるなら、たぶん「ユメに向かってがんばって(あくせく)働いている人」ということになるでしょう。

が、しかし、これらの言葉に対する違和感もあって、それって何かな、ということを考えていたら、価値観に対する考え方がポイントのように思えてきました。

というわけで、価値観というテーマで考えてみたことです。

1.人は人です、が基本

みんなが嫌うものが好きでも それでもいいのよ
みんなが好きなものが好きでも それでもいいのよ
 -星野源 「日常」の歌詞

 
最近、星野源がいいなと思うのだけれど、特にこの歌詞が好き。後半の部分に時代性を感じます。
要は、人は人ってことですね。

2.自分にとっての「ダメ、ゼッタイ」は何か

覚せい剤をやめようというポスターのコピーで、これは頭に残っています。
その通り、覚せい剤は問答無用で「ダメ、ゼッタイ」です。
売人が儲かるだけで、他の関係者はほぼ100%不幸せになるので。

でも、タバコは? お酒は? パチンコは?となると、みんながみんな「ダメ、ゼッタイ」ではないです。
やめることで関係者が本当に幸せになるかはケースバイケースでしょう。

最近、糸井重里さんが禁煙に成功した秘訣として「おっぱい理論」を語っているのを知りました。
これが、おっぱい理論だ!

かいつまんで言えば、

目の前にスレンダーな女性がいたら、男だったら、「××してみたい」と思うわけです。思うわけですが、見ず知らずの彼女のおっぱいを触わることはない。「一度だけ」とかありえない。そんなことをすれば社会的信頼が地に落ちるから。禁煙も、「一回だけなら」とか思ったダメで、同じように一度でも手を出したらダメ、そう思ったらやめられたんだ。

というようなお話。さすがに、糸井さんの話はうまい。なるほどだ。

この話を読んで思ったことが2つ。

1)何にこの理論を応用するか

世の中にあふれている自己啓発本の多くは、あるいは安易に「みんな成功できるんだ」とか主張するセンセイは、いってみれば、この「おっぱい理論」をすべての事柄に当てはめれば、みんな成功者になれるんだ、と言っているようなものだ。

もちろん、そんなことはできない。正直に告白すれば、同じようなことをやろうとしたことがある。
やるべき目標のリストをつくる。10個とかもっとでてくるわけです。
睡眠時間を削って、いつもてきぱきして、英語の勉強をして、いろんなところに顔を出して・・・・(昨日までできなかったことだけど)今日からやろう。

って、できません! 人間、そんなある日突然変わりません。
そもそも、人間のキャパシティーには限界があるので、なんでも「これをするとは、チカンをするようなものだ」なんて思っていたところで、守れっこない。

だから、何に当てはめるのかが大事で、伝家の宝刀のようなものだろう。逆に言うと、喫煙者にとっての禁煙とは、それほどまでの一大事ということなのかもしれない。

自分にとって問答無用で「ダメ、ゼッタイ」とは何か、と考えることが自分が大切にしたいこと、価値観を知ることになると思う。

2)でも、破ってしまう人もいる

そんな人は、現実にいますね。「やろうと思えば」簡単ですね。電車にも女性はたくさんいますよね。
ふと魔が差す、なんていうみたいですね。怖いですね。
でも、人間ってそういうもんなんでしょう。

だから、ずっとまっとうに生きるって、それだけで偉いことだと思います。

破ってしまったときの潜在的な精神への影響を考えると、「おっぱい理論」は取り扱い注意なのかもしれないです。

3.対極の価値観を持つ人がいることをちゃんと理解して

テレビはほとんど見ないわけですが、いつだか、秋葉原で殺傷事件が起きた頃、こんな番組を見た。

事件現場に供えてあったお菓子を路上生活者の人が取って食べていた。レポーターは「何しているんですか!」と迫る、あわてて逃げ出すおじさん、揺れるカメラ。その画面に厳しい表情をしたタレント、評論家の顔が映る・・・


職が無く路上で生活する人が、道端に食べられるものを見つけたときにそれを食べるのは、冬になったら寒いのと同じくらい自明なことだと思うのだけれど、番組では糾弾していた。

そして、同じ場面を別の角度から報じる番組について、ちょっと意地悪な想像をした。

長年、一生懸命働いてきたが、不況のため、解雇された。家は売り払い、家族は出て行ってしまった。途方にくれて路上で数日間過ごしていた。なけなしのお金は、取られてしまい、ろくなものも食べることができなくなっていた。そうして歩いていたら、お供え物がおいしそうに置いてあった。

申し訳ないと思いながら、それを口にする。(画面では、涙目になったグラビアアイドルが映っている)久しぶりの食べ物に感動していたら、いきなり叫ぶ人がやってきた。「何しているんですか!」カメラも一緒だ。テレビらしい。必死で逃げた。
(その様子を糾弾する番組が報じられていることを知らせるナレーション。そして、「私たちは、経済発展とともに、大事なものを失ってしまったのかもしれません」)


中立などありえないわけです。
基本的には、「人は人」です。見ず知らずの路上で暮らす人、暮らさざるを得ない人に対して、私が言えることなどほとんど無い。

が、自分とかかわりが深く、自分の価値観にそぐわないシーンに出くわすことがある。
そんなときは自分の価値観を表明して、相手にアクション(改善など)を求めたいと思う。

でも、それはかなり重いことだと思った方がいい。

上の番組の例で言えば、どっちがどうとか、言えないでしょう。
後半は私の創作なので、本当は単なる酔っ払いの仕業かもしれませんが、それでも、それぞれの人生なんですから。見ず知らずの他人を(顔を隠しているとはいえ)何百万人の面前で糾弾する権利など無い。

一方だけの視点に立てば楽です。

当事者であるならば、ある程度それは仕方が無い。
当事者なのだから。でも、そうじゃない人は、安易にとやかく言えることではない。

どうしても言わなければならないなら、その反対側の痛み受け止めた上で、言うべきだ。

「あなたがいくらお腹が減っていたとしても、そのお供え物は食べてはならない」
それが、そう主張する人の「ダメ、ゼッタイ」であるなら、むしろ、そう言える環境であるほうが良い。

そして、私にとっては、そう主張する人もまた第三者であり、その人がそのような価値観を持つことを尊重します。

ただし、法規制をどうするか、とか言う話はまた別の話ですが。

4.大切なのはおおらかさ さめた視線を冷静に受け止める

【就活風刺】面白すぎるTwitterの”意識の高い”動物たち

というのが良くできていて、面白かった。
私が学生の頃にもよく遭遇した「意識の高い」学生の特徴を捉えている。
今回のテーマである、「自己実現」系の言葉を追いかけるタイプの学生で、
その特徴を見ていけば、私自身もそのカテゴリに入っていたのだろうとは思います。

この種の風刺がいいのは、ストレートにはいえないことも表現できるところです。
本人にもその方が伝わることもある。

注意すべきなのは、どんなことでも、こうやって風刺できてしまうことです。
これは、風刺に限ったことではなくて、人間のすることなど、なんとでも表現できるということだと思います。
「ものは言いよう」です。

例えば、スポーツのバスケットボールを「玉いれ」とか言って揶揄することもあるようです。実際には、リアルで聞いたことは無く、漫画スラムダンクの知識ですが・・・

確かに、ゴールにボールを入れて得点することを目指すわけなので、「玉いれ」には違いない。
フリースローのシーンしか見たことが無い人なら、「玉いれ」って言われて別に違和感を覚えないかもしれない。

ものすごく多様な社会になっていて、スポーツも文字通りごまんとある。存在すらほとんど知られていないスポーツも山ほどあるでしょう。

スポーツ間の競争も、それだけ激しい。だから例えばバスケが大好きで、もっと普及させたいと思っているなら、「玉いれ」とか何と言おうとも、そうやって関心を持ってもらえただけでもありがたいと思うべきなのだ。

それは自分の生き方や価値観にしても同じだと思う。
異なる視点から言われたら、まずはつまらないと感じるのが人間だと思う。揶揄されたと思うかもしれない。

でも、人の価値観について、他の人が興味が無いのは自然なこと。
だから、平然として、「そうだなあ。玉いれだよなあ。でも、玉いれって、めちゃくちゃ面白いんだぜ。」って言っていたい。

現代は「当たり前」がなくなってしまった。宗教にしても、家族制度などにしても。
だから、今まであったものを「やっぱりいいよね」「いや、違うと思う」といちいち考えないといけない。
あるいは、考えないといけないシーンに出くわす。

社会学では、再帰的、という言葉を使うらしい。
再帰的に評価する、などと。

これは、贅沢な悩みではある。何しろ、先人たちを縛り付けてもいたものから自由になったのだから。
一方で、とても面倒である。

そんな時代に特に必要なのは、おおらかさだと思う。

ここまで書いてきて、

「個性」、「クリエイティブ」、「ユメ」、「自己実現」、「本当の自分」、「自分らしさ」
といった一連のフレーズに対する違和感は、こういう言葉を好き好む人が、往々にして、
結構たくさんいる、彼らの主張に当てはまらないと思われる人に対するまなざしに、おおらかさがないことに由来しているかもしれないと思った。
# by taiji_nakao | 2012-02-04 13:40 | 考え事 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 14日
人口の流動性が高い時代のコミュニティ(1)
先週、京都シェアハウスサミットというイベントに参加しました。

コンセプトを先に決めて、その後に住む人、住む物件を決めるという流れをサポートするサービス、コリッシュの代表小原氏と、京都の6つのシェアコミュニティ(共有オフィスも含む)の人たちが参加するイベントでした。

コリッシュのサービスは非常に刺激的でした。
たとえば、トキワ荘プロジェクトでは、漫画家志望の人だけが一緒に住むスペースが提供されています。
本気の人限定で、すでに最低ひとつの漫画を書き上げていることが入居条件の一つということです。

この他にも、農園つきの家で毎週、農家の方を呼びつつとれた野菜でパーティーをするシェアハウスなど非常に興味深い事例が盛りだくさんでした。

また、シェアハウスの住人、管理人の人たちと話していて、非常に面白かったです。

イベントについては、以下のページが詳しい報告があります。
1/8 京都シェアコミュニティサミット、開催しました

私自身は、大阪の一般的なマンションに一人暮らしですが、京都のシェアハウス「お結び庵」には月に一度くらいは泊めてもらっていて、とてもお世話になっています。

このイベントを契機に考えたことを、まとめてみます。

近所づきあいが変わったことの根底にあるもの

 モラルの低下という話なのか

 私は住んでいるマンションの人たちとは全くといっていいほど交流がありません。引っ越したとき、結局挨拶のしなかったですし、ごくまれにすれ違うときも、軽く会釈するか、しないか程度です。

 大きな声で挨拶する、引っ越したら何かとお世話になるんだから、挨拶する、というのはマナーのひとつと言われてきました。なので、私はマナーがなっていない、と言われてもしょうがないとは思っています。

 でも、以前は当たり前だとされていること、あるいは、田舎では当然とされている、挨拶だとかを含めた近所づきあいがなくなってきているのは、「モラルが低下したから」なくなってきていると言えるのかは疑問に思います。

 鶏と卵のような話ですが、私が今まで読んだり聞いたりした中で一番納得したのは、人口流動性が高くなったことが原因、という説明です。

  うるさい飲み会を静めるモチベーション
 
 Aさんがすんでいる家に、Aさんのお兄さんが友達数人を連れて遊びに来て、飲み会をはじめたという状況を想定してみます。AさんもAさんのお兄さんの友人たちと面識があり、一緒飲んでいる、というような想定です。

 さて、深夜にもかかわらず、若いAさん兄弟と友達で盛り上がってしまったとします。Aさん、ちょっとタイミングを見計らいつつも、「もういい時間なんで、ちょっと静かにお願いします。」みたいなことを言うでしょう。
しかし、よくあることですが、10分もするとまた騒がしくなってくる。

 ここでのAさんが注意するモチベーションを考えてみます。

その1として、Aさんが生まれ育った土地で、いわゆる実家だったとします。Aさんの祖父の世代からこの土地に住んでいて、両親も近くに住んでいる。Aさんもずっと住むつもりだし、その子供、孫もこの土地に住むであろうという場合。

その2は、Aさんは都会で暮らしている。1年前に引っ越したが、2年契約で更新時はもちろん、その前に他に引っ越すかもしれない場合。

1と2では、注意するモチベーションは、全く違ってくるのが人間というものでしょう。

その1のケースの場合、ずっと生活する自分はもちろんですが、自分の親や祖父、下手をすれば子供にまで悪影響が出る可能性があります。静かにさせるでしょう。

しかし、その2のケースでは、隣人たちとは数ヶ月後には別れる可能性が高く、そして、おそらく一生会うこともないのです。

あまりいい例でないかもしれませんが、しかし、これはあらゆる「近所づきあい」と呼ばれるものに共通します。例えば、旅行へ行った時のお土産を買うか、なども同じ構図にあるでしょう。何世代にもわたってお世話になる人と、数ヶ月後には二度と会うこともない人とでは、相手にコミットする動機が変わるのが人間というものです。
(つづく)
# by taiji_nakao | 2012-01-14 18:00 | コミュニティ | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 09日
コミュニティが広がっていくための条件
田舎にIターンして、強い思想を持って活動している方と飲んでいて、君の思想は中途半端だと、叱られることが今までは何度かあった。

その方々は、現代社会に強い問題意識を持ち、それだけでなく、例えば、飲み屋で語っているだけでなくて、あるいはイベントで理想を話しているだけでなくて、具体的に自分の生活を含め、実践していた。だから尊敬するし、基本的な問題意識も共感するものだ。

だけど、自分が第三者として関わるなら、別の視点も持つだろうし、そういう人は多いですよ。と、私は主張した。
あるいは、実践するのは、大変ですよね。とか。それは、一般的に「普通」と呼ばれる人が持っている、あるいは持っているであろう考え方だ。

しかし、マイノリティであること自体は、反対する理由にならないし、「大変」という言葉は、状態をさすものであって、理由そのものではない。何が大変なのか。そのことをちゃんと言わないと理由にならない。

だから、私が叱られたのはそういうところに問題があったのだと今は思っている。

しかし、多く人が持っている感覚をあり得ない、という前提に話すことには問題だ。

それまで普通だと思っている人に対して、いきなり全否定されてはいい気持ちはしない。そんな人しかいなかったら、居心地が悪い。その考え方が正しい(※)としても、段階というものがある。

普段はあまり問題意識を持っていなかった人がその場に来た時、居心地が悪いということは、その人はもう来ないだろうから、コミュニティにとっての損失となる。コミュニティが多様性を持つ機会を失ったとも言える。そういうことが続くと、コミュニティは活力を失っていく。

大切なことは、異なる考え方を持った人の立場に立って考える余裕であり、その人たちへのリスペクトだと思う。
これは心に余裕がないとできない。

場の雰囲気・習慣は、人数(割合)×  その人の影響力で決まると思う。10人の構成員がいて、9人がテキパキと片付けをする人であれば、だらけた性格の1人も大抵テキパキせざるを得ない。7人がテキパキ、3人がだらけていても、大抵は、
3人はテキパキすると思う。が、4人がだらける人だとあやしくなってくる。

ただ、人によっては影響力が強く、テキパキする人が1人、9人がだらける人であっても、テキパキした場にしてしまう。

魅力あるコミュニティは、核となる価値観を共有している必要がある。一方で、コミュニティが広がっていくためには、異なる価値観を持つ人のことを想像でき、かつリスペクト出来る雰囲気を持つことが重要だと思う。

※正しいとは、絶対的な正しさではなく、選択している本人が本当に望んでいることを達成しようとした時、最善な選択であるという意味で。
# by taiji_nakao | 2012-01-09 12:03 | コミュニティ | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 02日
自分の関心領域と今年の目標
書いているとあれこれ出てきてしまいましたが、自分の関心領域と今年の目標、2012年版

■仕事
DAノーマンの最近の著作を読んでいるけれど、面白い。

私はもともと農学部で、学生時代は全くと言っていいほど、プログラムを知らなかった。当時「西海岸」という町家コミュニティによく遊びに行っていたが、そこの主要メンバーである、NOTAなどの開発者である洛西さんが、「今のコンピュータは、インターフェイスが全く人間向きになっていない。」と力説していたのを何度か聞く機会があった。
それですっかり感化された。

アラン クーパー「コンピュータは難しすぎて使えない」、DAノーマンの「だれのためのデザイン」を読んで、私のプログラマとしての基本的な考え方が固まった。

真に人間のことを考え抜かれて作られたソフトウェアは少ない。人間が本来持っているアフォーダンスをうまく活用して、真に使いやすいソフトウェアを開発すべきである。

全くその通りだと思った私は、そういう目で身の回りの製品をみた。実際、酷いものが多いように思われた。そして、それは自分たちが開発するものにもむけられる。最初の会社では、同僚に呆れて「クレーマーだ」と言われたりもしたが、それを誇りと思っていた。

現在仕事で取り組んでいる業務用アプリの世界では特に、まだまだソフトウェアは人間に優しくないことが多い。本当にユーザーにとって使いやすい、そんなソフトウェアを世に出していきたい。

もちろん、ソフトウェアが優れていてもそれで使ってもらえるわけではない。そもそも使ってくださる方に価値を提供できなければお話にならない。そして、どうやって届けるのか。さらには、利益をあげる構造も必要だ。こうしたものがセットになって初めて普及する。今年は、その第一歩の年にしていきたい。

■暮らし
大学一回生の時、サークルの先輩の部屋入った瞬間のことを今でも覚えている。部屋に入ると、空気感が違った。シャンとした気を感じた。古いアパートで狭い部屋だったけど、綺麗に片付けられていて、物が少なく、家具も決して高級品というわけでもないが部屋に馴染んでいた。その雰囲気の生活感に憧れた。

物をできるだけ持たない、持つ物にはこだわる、できるだけ掃除をする(できるだけ・・)。一定以上まできれいにすると、あの「シャン」とした空気感を感じられるようになる。雑多でものに溢れた部屋とを比べると、それは心のあり様が変わってくると思う。

その先輩に、「近所に神社があるよね?」と言われた時、家の周りをほとんど知らなかった私は、「ありましたっけ?」と答えた。私は、一人でいるときは主にテレビを見ており、近所のことに関心を持っていなかった。「近所のことは知ってなきゃ」、と言われ、そうだよなあ、と思ったことをよく覚えている。

普段暮らしている身の回りを観察できるのは心の余裕だと思う。

テレビを持たないで生活して8年以上になる。テレビを持たなくなったことで、たとえば散歩に時間をかけられるようになった。テレビのことで学んだことは、文句を言うくらいなら相手にするな、ということ。8年以上前の話だけど、よくテレビに悪態をついていた。なんと馬鹿げたことをしていたんだろう。嫌いなことに自分の時間を費やすことはない。これは、マザーテレサのいう「愛情の反対は無関心」という言葉の裏返しだろう。

■エンターテイメント
SCRAPというフリーペーパーがある。

創刊の時から、ここの編集長(今は違うのかな?)の加藤隆生が好きで、5年以上ブログも読んでいる。http://keeponmusic.com/katotakao/
最近は東京で大規模な脱出ゲームを数々と仕掛ける売れっ子になっているようだ。この人が、どこかのインタビューで「大人のエンターテイメントは、カラオケ以来ずっと昔のまま進化していない。だから自分たちは、自分たち自身が楽しいと信じている脱出ゲームという新しいエンターテイメントを創っているのだ」というようなことを語っていた。この感覚に共感した。

学生時代から、山仕事サークルだとか薪く炭くKYOTOだとかいった団体、あるいはその他いわゆる環境問題に焦点をあてた活動に参加していた。こうした団体ではつねに「普段興味を持っていない人に感心を持ってもらうこと」が優先度の高いミッションになっていた。

大阪府吹田市で暮らす、会社員としてみるとこうした活動に参加するということは、数ある余暇の過ごす中から選択するということになる。それは言い方を変えると、エンターテイメントということになる。

だから私の今までの興味関心を総合すると、山で遊べるエンターテイメントの場を創ることなのだと思った。去年自分が体験したエンターテイメントで楽しかったのは、いろいろある。初めてのゴルフもなかなか面白かったが、お化け屋敷ワークショップは、本格的に仮装して面白かったし、知り合いの改装中の家の漆喰塗りもなかなか面白いし、水の飲めるくらい綺麗な鷹峯の小川での流しそーめんは最高だった。

今年は、それからいろんな人を巻き込んで、いろいろと遊びたい。コンテンツも豊富にあるので、愉快な仲間たちとあれこれ遊ぶ一年にしたいと思う。第一弾は、1月に鷹峯で、囲炉裏のある小屋での飲み会の予定です。

■食生活
昨年、いろいろな会に紹介していただいている方から予防医学の普及をされている方とお話するようになった。そうした中で、 こんな記事 「食改善で健康になれば、消費税増税は必要なし?」  を見つけた。
(2ページ目からは会員のみ) 実際、この活動をしている自治体では20億といった単位の支出削減効果がでているという。

記事の中で、「最近のコンビニなどをみると炭水化物と脂肪ばかりだ」、という記述がある。
今住んでいるマンションから会社まで、歩いて五分ほどだが、その間にコンビニとマクドナルドがある。どちらも24時間空いている。直ぐに、私は買って食べることができる。レジでほんの30秒待たされることに苛立ちを表明することが当たり前のものとして認識されている。

それで、もう一度みてみる。パン、お弁当、それからハンバーガーなど。見事なほど炭水化物と脂肪だらけ。後は、肉と、そして、食品添加物である。
こんなこと書きながら、週に何度もコンビニのお世話になっている。今年の目標は、脱コンビニです。(ビールを買うのもスーパーの方が安いし)

■身体性と精神の世界
禅には昔から関心があったけれど、特に何もしていなかったが、去年、呼吸法の教室に月に一度くらい行くようになった。それから、モコモコカフェの朝座禅。 http://mocomococafe.jugem.jp/?cid=8 和尚さんDJもしているというユニークな方でとてもいい感じ。二回ほど参加。京都の朝からですが、今年も参加したい。昨年参加した、ダンサーの方が講師の身体のワークショップ、よかった。自分の体のことももっと知りたいと、思う。


いろいろ書きましたが、今年、一番力を入れたいのは仕事。
今年は、広げます。

そして普段は、集中力を高めて、密度の高い仕事ができるように。


それでかつ、ここに書いてあることを実践したいと思います。欲張りですね

ここまで読んでくださった方とは、何かの機会でお話しできれば、なんて思います。


今年もよろしくお願いします。
# by taiji_nakao | 2012-01-02 17:10 | エッセイ | Trackback | Comments(0)
2011年 12月 10日
現代っぽいこと3首
近況報告を兼ねて、ちょっと気になったことを元に作ってみました。


秋の日の虫の音を聴いてポケットのスマホをさぐる現代人です

 ー アラーム音(コオロギ)を毎朝聴いて暮らしています。


くり返しくり返し見る待ち合わせ 場所と時間にスリル感なう

 ー 久しぶりに会う予定の友人が携帯が使えなくて、しかも直前に場所と時間の変更があって、そのやり取りをパソコンと携帯でメールのやり取りをしました。
そして、約束の時間になっても相手は現れないぞ、というときにツイートしました。という句。
携帯時代においてはレアな経験をさせていただきました。
結局20分遅れで相手が到着。どこまで待とうかなんて考えたのは、いつぶりかわかりません。

その時は11時22分頃まだ早い それいけ今だ! わっしょい!! バルス!!!

ー 時間はどなたかのツイートのうろ覚えです・・ テレビを持っていない私は、もちろん観ていないのですが、後からツイッターのタイムラインを読んで知りした。昨夜は「ラピュタ」が放送されていたようです。そもそも、その時間帯は「ブロガー飲み会」の最中で、リアルにタイムラインを見ていたわけでもないですが、これはなかなか興味深いイベントだと思いました。 なので、これはたんなる想像です。

宮崎アニメのラピュタの有名なセリフを、そのシーンの時にみんなでツイートする、というもののようです。古くは、にちゃんねるからあったようで、こうした状況を「祭り」というのは、うまく言ったものだと思います。最大1秒間で1万ツイート以上だったということなので、直接参加(ツイート)しなかった観客(その時間にツイッター見た人)を合わせれば日本でも最大規模の「お祭り」だったといえそうです。

で思い出したのが、本物のお祭りのことで、小中学校時代住んでいた栃木県塩原町(現那須塩原市)では、毎年9月中旬にお祭りがあり、この2日は学校は午前中で終わり、各地区ごとに山車を引きます。一日ずっとある、かなり熱の入ったイベントなわけです。で、山車を引いてるときに、テンションを上げてかけ声を出したりします。

「まだまだまだまだ!」「それそれそれそれ!」「まだまだまだまだ!!」「それそれそれそれ!!」「わーしょっい!」「わっしょい!」「わっしょい!」

みたいな感じです。

昨日のタイムラインを読む限り、祭りで「わっしょい!」というのと、「バルス!」とツイートする心境はかなり近いように見えました。

さらに、中には「みんなバルスとか言ってるけど、私は興味ないよ」みたいなツイートもあって、これもまた、「みんな学園祭とか言ってるけど、俺興味ないもんね」というセリフを彷彿させたのでした。
# by taiji_nakao | 2011-12-10 20:24 | 短歌 | Trackback | Comments(0)
2011年 11月 13日
情報収集ツールの整理(メモ)
Firefoxの重さが日に日に増していき、すぐにパソコンが唸りだし、URLを開けない、ということが頻発するようになったため、Chromeに完全移行することにしました。Chromeはサブとして、ちょくちょくは使ってはいましたが、その軽快な動きは気持ち良いです。

Firefoxは、Firebugという開発ツールが秀逸なので、今後はデバッグツールとしてのみ、使っていくことになりそうです。

※あくまで私の環境・使い方でFirefoxが使えないレベルに到達してしまったという話です。
最近、急速にアップグレードを重ねているので、改善も進むと思います。


この機会に情報収集のやり方を整理したので、そのメモをブログに書いておくことにします。

*RSSリーダー
Google ReaderのデータをFeedlyというプラグイン(エクステンション)経由で確認しています。
最近、Google Readerもデザインが綺麗になりましたが、Feedlyのデザインはずっと素晴らしい。
非常に使いやすく、Feedlyを使うようになって、ウェブを見ているという雑誌を読んでいる感覚になりました。

大好きなアプリです。iPhoneアプリもあります。
TwitterやFacebookを始めとしたサービスとの連携も素晴らしいです。

RSSリーダーを見る時の自分ルールとして、一度みた記事はその場で必ず既読にする、ということにしています。時間が無い時は、いままではGoogle Readerのスターを使っていましたが、Feedlyと連携しているので、Instpaperを使うことにしました。

*後から読むサイトの保存
今読んでいる時間がないので、後でこのサイトを読みたい、というサイトのリストを作って置くと便利です。
今までは、Read It Laterというサービスを使っていましたが、Instpaperというサービスを使うと、FeedlyやiPhoneアプリのHootsuiteでも使えるので、こちらに乗り換えました。

Facebookは、FacebookのiPhoneアプリが便利なのですが、このアプリからは外部サービスとの連携がないので、NewsフィードのチェックはHootsuiteですることにしました。こうすれば、気になるページをすぐにInstpaperに保存できます。

今まで、Twitterのお気に入りにしたり、RSSリーダーでスターをつけたり、Read It Laterを使ったり、メールで送ったりとまちまちだったので、きれいに使えそうです。

*オンラインブックマーク
実は、これがあまり使いこなせていません。
数年前に、deliciousに登録して使おうとしたところ、ログインなどでなぜか上手く行かず、幾つか探してDiigoというサービスに落ち着きました。

ページ内にマーカーも引けるようで、これは便利そうなのですが。

が、このタグ付をいい加減にしたせいで、タグの数があっという間に膨れ上がって全く使えない状態になってしまいました。

今回、リセット。
何でもかんでも追加していくと、探すのに苦労するので、これからのやり方として、

 (1)大分類を作って、大分類のタグを全部に付ける。 
 (2)目的を持って調べるときは、そのテーマのページは、とりあえずは日付のタグにしておいて、後で適切な名前をつける。
 (3)diigoも「後で読む」ラベルを付けられるので、調べものの時は、diigoのあとで読むを使う。

でやってみる予定。
# by taiji_nakao | 2011-11-13 14:00 | Trackback | Comments(0)
2011年 10月 22日
迷子になった子供が家族と会えましたというアナウンスが好印象だった理由を考えてみる
今日こんなツイートをしました。
阪急の館内放送で、迷子のお知らせの続報をアナウンスしていた。無事に家族に会えたらしい。こういう放送は初めて聞いたけど、いいなと思う。

私にとってはなかなかの反応で、数人にリツイートされました。

正確に言うと、西宮北口のガーデンズ内の放送で、夕方から待ち合わせをしていて、15時から17時半まで時間をつぶしていました。最初、16時くらいに迷子の放送があり、その一時間後くらいに、家族に会えました、というアナウンスがありました。

そもそも、デパートなどにそんなに来ないのですが、こうした放送を聞くのは初めてで、なんだか、いいなあと思ったわけです。

なんでそう思ったのだろうと、リツイートされたというお知らせを見ながら、待ち合わせに考えていました。

一つ目の理由は、解決されたことを聞けた、という事実があります。

現代社会というのは、未解決の問題が山積みです。

多数の未解決の問題はそれぞれが複雑に絡み合っています。そしてたちの悪いことに、私たちもそのシステムに組み込まれています。被害者でもあるが、加害者でもある状況になっています。NHKスペシャルの環境問題のレポートを見ると、決まって最後に、問題提起で終わります。現実問題、問題は複雑で安易な処方箋はないのですが、しかし、暗い気持ちになります。

各種の自己啓発の本によれば、心理学的知見から、人間は未処理の課題を残すことは精神衛生上よくないらしいですが、これは実感からわかります。だから、そのように無数で、未解決の問題が積み重なるといのは、大変に生きにくいです。
※もちろん、だからといって安易な解決策を提示せよと言いたいわけではありません。

ツイッターでは、原発に関する各種の問題から、最近発表されたアプリのセキュリティの問題、政治記者の問題など、どんどん流れていますが、「迷子のお知らせ」を聞いたときの感覚は、ツイッター上に流れるもろもろの問題と同じく、私の頭の中を流れていきました。

迷子のほとんどは無事に見つかっていることでしょうから、さほど心配することでもないでしょう。

それでも、素直によかったねと思ったし、やはり、すっきりしたのだと思います。

単純な事実として、××が問題です!というニュースの数に対して、○○が解決しました!というニュースの数は少ないということもあります。


もう一つ。アナウンスは、「みなさまのご協力ありがとうございました」と言いました。
実際は、この迷子の問題解決に関わった人は数えるほどしかいないはずです。私も全くタッチしていません。ただ、私は少し心配したことは事実です。それは、迷子のお知らせを聞いたとき、比較的静かな場所、ートイレ、にいたため、鮮明に記憶に残ったからですが。だから、そういう心配をしてくださってありがとう、というメッセージにも受け取れました。

私は、毎回の迷子のアナウンスをちゃんと聞いているわけではないです。そういう自分の経験の延長でいうと、少しでも心配した人さえも、全体からみれば半分くらいかもしれません。

でも重要なことは、運営側はある程度本気で、「お客様は協力してくださる方」と思っていることです。

これは、最近よく見る、トイレの「きれいにお使いいただきありがとうございます」という張り紙とは全く違います。この種の張り紙をつけた人は、そんなことを思っていないでしょう。

この張り紙をしたモチベーションは、明らかにきれいに使ってもらいたいからです。本当は、「きれいに使ってね」、もっといえば、「ただで使うんだから、せめてきれいに使えよ」とか思っているはずです。少なくとも、初めて張り紙をした人はそう思ったからわざわざ張り紙をしたのです。それが、ちょっと表現がストレートだから和らげようと思って表現を変えた結果なのでしょう。そして、最近ではそれすら考えず、「とりえあずトイレにはこれ」で決めているのがほとんどだと思われます。

なぜそう言えるかというと、張り紙になんと書こうと労力は同じだからです。
さらにいえば、昨今では「きれいにお使いいただきありがとうございます」は「トイレはきれいに使ってください」よりも意思がないといえます。
なぜなら、今になってストレートな表現の張り紙をするためには、ある程度の、顧客から、あるいは本部からのクレームを覚悟しなければならないからです。

でも、二度目のアナウンスはそうではありません。これをするためには、解決した後に放送室へ報告する手間をかけ、放送係はわざわざボタンを押して、放送しなければならない。そして、このことを始めたときの責任者は、「なぜそんなことをわざわざ放送するのか」という反論を説得し、もしかしたらあるかもしれないクレームに対応する覚悟を持ってこの話を通したはずなのです。

ちょっと大げさですが、そういうコストを払ってまで、「お客様は協力してくださる方である」という性善説に立って、そのような人として扱っています。これは気持ちいいものです。

今の世の中では、そうでない前提で扱われることが多いです。
たとえば、何ページにも及ぶ利用規約を読めとか、正当な理由があってコールセンターに電話しているのに、毎回「音声は録音されます」と聞かされるとか。つまり、私はクレーマー候補として扱われているわけです。
※企業がそうせざるを得ないのもわかりますけれども。
# by taiji_nakao | 2011-10-22 22:25 | エッセイ | Trackback | Comments(0)
2011年 10月 07日
物語を生きる(6)
おおきな存在の物語

吉野は、平安時代は特殊な意味を持つ場所として認識されていらしく、当時の物語では、そのような場所として登場する。

中将はハンサムで行動力もあり、多くの女性と関係を持っている。かれはこの世界を自分の力で支配していると思っていたかもしれない。しかし、彼は一番大切なトポス、吉野のことを全く知らないのだ。この物語は、何がどうなっているかわからなくなって困り果てている中将の姿を描くことによって終わっている。実に素晴らしい終わり方だ。物語のなかで、縦横に活躍し、物語のプロモーターであるかのように見えた男の困惑しきった姿を最後に描くことによって、ものごとは、才気煥発な男の意思や欲望と、まったく異なる動員によって進んでいることを明らかにしている。この中将を近代自我の姿としてみれば、本当に良くわかる。

特定の意味を持つ場所、トポスという考えは、近代になって個人を中心とする考えが強くなるにつれて、急激に薄れていった。個人の在り方、性格が大切であり、それがあちこちと場所を移動しようとも、中心的性格は変わらない、と考える。

中将の活躍の物語より、吉野の持つ物語の方が「一番大切」というのだ。

ここで説明されていた吉野の物語の中身については、あまり理解できていないが、浦島太郎の竜宮城のような異世界がこの世界には存在していて、実生活に影響を及ぼしているという物語だと思う。中将と同じく、現代人には素直には受け入れがたく、ちょっと理解できない。

ただ、ここで重要なことは、一般化して言うと、世の中にある相対的なもののすべて、お金、権力、名声、測定可能な才能・・・より、存在、精神、命、神といった絶対的なもの、「おおきな存在の物語」の方が人間にとって重要である、ということだと思う。別の言い方をすると、人間はそういう物語を必要とする生き物だと思います。

しかし、吉野が特殊な意味を持つという物語や、あるいは唐の国つまり中国が特殊な意味を持つという物語は現代の日本では受け入れられない。

グーグルストリートビューでパソコンから道並みを確認できる時代では、昔のように離れた土地を異世界と認識されない。あるいは、宇宙ステーションになら、未知への憧れとともに、そこにいる自分は今ここの自分とは違うという物語は持てるかもしれないが。

では、現代人は、「おおきな存在の世界」をどのような物語として持つのだろうか。

近代になって、ゲニウス・ロキが死に絶えたので、人々はトポスではなく、人間のなかにゲニウスを探し出そうとつとめるようになった。異界をどこかの場所に求めるのではなくなると、人間としての異性ということが大きい位置を占めてくる。従って、西洋の近代においては、男女のロマンチック・ラブということが至上のこととなった。男も女も異性に魂の姿を見る。

この説明はなんとなくわかる気がする。現代でもこの残滓はあると思う。
確かに、たまに小説などで見られる極端な異性への憧れの傾向は、不自然につくられている感がある。異性間では、いろいろと違っていて、深いと思うけれど、同じ人間であり、根本的に違う異界として捉えるのは無理がある。

では、どんな物語を、ということになるのですが、それはまた別の機会に考えてみようと思います。

※「物語を生きる」シリーズはこれで最後です。
# by taiji_nakao | 2011-10-07 08:34 | 本を読んで考え事 | Trackback | Comments(0)
2011年 10月 06日
物語を生きる(5)
心性のタイプ

復讐についての引用。落窪物語を論じている。
復讐などしなくても、自然や神仏にまかせておけば、というのは貴族の考えではなかっただろうか。武士階級が台頭してくるにつれて、仇討ちという個人に意思による行為が称揚されるようになり、後世には多くの「仇討ち物語」が生まれてくる。しかし、これらは武士の道徳観を反映し、仇の方が強いのに対して、仇を討つ方が艱難辛苦して目標を達する話となる。

このような武士の仇討ちと、「落窪物語」の復讐はまったく味が異なる。後者の方が明るくて面白い。そこには強い「個人」に対する信頼があり、運命や神仏などの介入を許さない。おそらくこれは、貴族社会ー特にその情報ーにはなかった人生観であり、阿漕のクラス、これを庶民とは言いがたいが、家柄や身分よりも個々人の能力によって相当に頑張ることのできた層の人たちの考えだったのではなかろうか。

※引用が足りないので少し補足すると、河合隼雄によれば、阿漕(「落窪の君」に幼い頃から仕えている、機転のきく賢い侍女)たちによる、主人の落窪の君をさんざんいじめて来た継母への復讐とその後、一転して大切にする描写にはユーモアと余裕があり、武士の復讐とはずいぶん趣が異なるということです。

落窪物語より。貴族と武士と、阿漕のクラスの庶民の考え方の違いについての考察。これは興味深い。落窪物語を読んでみたくなった。

確かに現在においても、あるいは自分を省みても、「復讐などしなくても、自然や神仏にまかせておけば(解決する)」という心性はあるし、「仇の方が強いのに対して、仇を討つ方が艱難辛苦して目標を達する」話は大好きである。

一方の、落窪物語の「強い「個人」に対する信頼があり、運命や神仏などの介入を許さない」というのはどうだろうか。私の持っている印象では、現在においてまっとうに生きている人というのは、この心性を大切にしているように思う。なんだかんだ言っても、やるべき仕事をきちんとこなし、家庭のこともする。

これらの要素をうまく組み合わせた物語がよいのかもしれない。日々の生活では「強い「個人」に対する信頼があり、運命や神仏などの介入を許さない」一方、自分ではどうしようもない現象(死など)には「自然や神仏にまかせてお」き、人生の中でも重要な要所においては、「仇の方が強いのに対して、仇を討つ方が艱難辛苦して目標を達する」というような。
# by taiji_nakao | 2011-10-06 08:06 | 本を読んで考え事 | Trackback | Comments(0)
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