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2011年 02月 15日
いじめの話
なんだか、疲れてしまって、それでブログを書く。で、テーマがこれなのだけれど。

こないだ、こんな記事を読んだ。

小さい頃、いじめられたのだが、大人になってそのいじめた当人が共通の知人を通じて会って
謝りにきたのだが、途中で許せなくなって、それで怒りが込み上げてきて、
その場はそれで終わって、それ以後、向こうからは会いたいと連絡が来るが許せなくて
会っていないという話。
そして、本人がその話を友人にしたら、相手も悪いけど、あなたも悪い、と言ったらしい。
許すって何ですか、というテーマ。
http://anond.hatelabo.jp/20110203223019

とても難しくて、どうしたらいいのか、わからない。
それで、気になってしまってあれこれ考えた。

まず、思うのは、かなりひどいイジメだったのだろう。
何年もたっているのに、当人が怒りだすほどに。
いじめた本人も、その年月を経ても謝らずにいられないほどに。

でも一番気になるのは、どうしたって、この本人の友人氏は「あなたも悪い」などと言えるのだろうか。

この状況下の最もシンプルで最上のシナリオは、いじめられた本人が心から相手を許せたときだ。
その笑顔を見たとき、いじめた本人は良心の呵責から解放される。
その仲介をした友人も気が楽になる。その話を聞いた友人氏もいい話を聞いたと思える。

でもだ、悲惨な苛めを受けたの当人だ。
本人が本当に辛くて、今でも許せないほどの経験をした。
苛めの悲惨さは客観的なものでなく、本人の認識の問題であり、
その、本当のところは本人しかわからぬ。

許す、ということは、成長、ないし心の余裕を必要とする。
苛めの経験が当人にとって堪え難いほど、それを許すには、心の成長を要求する。
大変なことを許せないということ、もっと大きくなれないでいることを、当人でもないのに、
あるいはその成長に責任を負っている立場にあるわけでもないのに、
「そこまで大人になれないあんたが悪い」なんてどうして言えるのだろう?

私は、こんな発言が出てくるのは、予定調和の、空気を読ませる、ご都合主義の教育のせいだと思う。

自分の人生経験が乏しいのに、教えなければならない立場におかれていることに無自覚な教師は、
平気で予定調和な結論を暗黙に、しかし、強力な権威を駆使して強要する。

「許せないあなたが悪い」??
ここでいう「悪い」とは、周囲、つまりその友人、仲介した友人、虐めた本人、その関係者にとって、解決してくれないから「悪い」のだ。
てんで、おかしな話だ。辛い思いをした本人に想像がいっていない。
「早く面倒を解決しておくれ!」と言っているのだ。

本人に想いを寄せてみて。
辛かったんだ。
辛かったからこそ、今になって、本当は許すべき事態がやってきてもそれを素直に受け入れられない。
その虐められたいた日々の最良の結末、虐めた当人が心から悪いと思って、本当に二度としなくなる、という結末がやってきても受け入れられないという本人に。

その当人が隣にいるのに、どうしたって、
「もっと大きな心を持てないあなたが悪い」
なんていえるんだ。

そんなの、虐められた本人にとっての師匠、
ルークにとってのヨーダのような存在でない限り、
そんなことをいう立場にあるもんか。

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想像でしかないが、ブログで読む限り、この逸話のキーは、
今になって謝ろうとしている虐めた本人(と仲介役)が、
虐めた本人が自分自身の良心の呵責から逃れたくて謝ろうとしている、という構図に無自覚なところにあるように思われる。

そのことに自覚的であれば、面会の内容も変わっていた可能性が高いし、
失敗した場合、執拗に面会を求めたりしないだろう。

でも、どうしたらいいんだろう?

わからない。

いえることは、
時間が解決するだろうっていうことと、
虐めた彼は、かなり悩んでいるようだから、時間が必要なことを考慮にいれ、
良心の矛先を別のところに向けてみたらいいかもしれないということぐらい。

必要なら、「当時の状況がそういう向きにさせてしまったのだ」
という「麻薬」に多少手を出してもいいと思う。
良心の呵責に苦しむことは必ずしも幸せな状況を作り出さないのだから。
ただし、あくまでも「麻薬」、中毒になったらおしまいです。

もっと建設的な方がもちろん、望ましい。
夜回り先生にはなれないだろうから、せめて苛めの解決をはかる機関に寄付をしてみるとか。
できるなら、ボランティアもしてみる。
自己満足でないかって?
許すことができない本人に会おうとするより、ずっと生産的な自己満足だと思う。
虐められた当人も、何やってんだか、と思うだろうけど、悪い思いはしまい。
大切なことは、他人を軸にしないことだ。
「なんとしても彼に許してもらう」のは、「許してくれない彼」を受け入れていない。
人を変えることなんて、できないんだから。

虐めた側の友人なら、こんなことを言うしかないな。

虐められた側の友人なら、

「えらそうに、ヨーダを気取って言うなら、
虐めた人を許せた時、それは人として大きく成長できたってことだろうよ。
いつか、そんな日も来ると思う。」

というようなことが、精一杯の言えることだと思う。
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by taiji_nakao | 2011-02-15 00:43
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