2005年 05月 05日
主観的、間主観的側面が疎かにされていることこそが大きな問題だ、と考えるようになった時の事を書こうと思います。
2年前に、日本の林業の問題の勉強会をしたとき、住宅の変化が大きな影響を与えていて、ここに触れないではいられない。ということに気づき、ちょっとかじりました。 ちょっと調べてみると、戦後は、合理化の歴史です。 いかに住宅が合理的に建てられるようになったかがわかります。 庶民が家を買うなんて事はまずできなかったのは、そう昔の話ではありません。短期間で格段に安くなりました。そして、建てる工期も格段に短くなりました。 耐火についても、江戸時代に火事が多かったのは事実であり、明治以降、多くの研究者が防火のための研究を重ねた成果が生かされています。耐震についてもそうです。 耐火・耐震については、伝統的な工法にもその性質はあるのですが、合理的にそれを高めたり、証明するという取り組みが足りなかった。 また、2000年にできた、住宅品質確保法は構造の主要部分の10年間保障を謳い、これによって、数値で性能を保証するということのなかった国産材は大打撃を受けることになります。 こうみていけば、まさに理にかなっているのです。 実際、勉強会もまず、こういう事実を並べました。 そしたら、ちょうど私の英語の外国人の先生も来てくれていたのですが、痺れを切らし、「so what?」と聞いてきました。まあ、焦らそうと最初から思ってたんですが、今思うとあんまりよく無かったですね。 ** 調べていくうちに、まったく合理的だ、と納得している自分がいます。 でも、自分の中には言いたいことがありました。 それは、まずそれまでに国内で山づくりに関わっている人たちをみて来て、その人たちの考え方や思いには共感していたということ。 それから、この場合、必ずしも国産材でなくてもいいのですが、腕のある大工と一緒に伝統的な建て方で、しっかりした小屋をたてるというワークショップに参加したときに、大工の腕に感激したこと。 また、例の2000年の法律ができてから、工務店は過剰にクレームを恐れるようになるのですが、本来、木って、伸びたり、曲がったり、(構造には影響のない程度に)割れたりするものなんで、それを調整できるものでもある。 木っていうのがそうであると知っていれば、なんとも思わない。 例えば、上からの重みが長年続き、襖の上の木材が少し沈んできて、襖が閉まらなくなったら、木の襖ならカンナで削れば問題なく使えるようになる。 日本人はそういう、木の性質をわかって付き合ってた。 それが、ちょっとでも割れたらだめ。だからしょうがなく絶対に割れない、板状にして、0%まで乾燥させてから、接着し、表面を合成塗料でコーティングした集成材が出回っていく・・ こうしたことは必ずしも合理的に説明できません。 例えば、シックハウスとか、環境とか言っても、そりゃあ、多くの企業は一生懸命がんばってるんですから。シックハウスにならない(といっても人それぞれですが)、少なくともどんどんなりにくい接着剤は日々研究されているはずです。外国から木材輸入=環境破壊 という時代も終わりつつあります。 私は、「美しいものの消失」と書きました。 (相変わらず、くさい言葉を、、) とっても合理的だけれども、美しいものを失っていないですか? と。 副題に~失われてゆく見えない幸せ~と銘打って。。 これを考えたときは、かなり自分の中ですっきりしまいした。 そうだ、と。 あとから考えると、これこそ、主観的、間主観的側面をもっと大切にしようよ、ということに他ならないです。 以後特に、何かを人に訴えるときは、「~は問題だ」ではなく、「~によって、~という美しいものが失われようとしている。それをもっと大切にしていきませんか?」というほうが有力だと思っていますが、同じですね。 ただ、今の私では、単なる、うぶな人間の独り言でしかないですね。 それを踏まえてどうするのか?ってとこですね。 結局、現実から入るしかないですよね。(そりゃそうです) 現実的な客観的なところでちゃんと結果を出しつつ、いかに「美しいもの」を大切にできるか。 最近、抽象論が多かったので、これからはもっと具体的にところに入ろうと思います。
by taiji_nakao
| 2005-05-05 17:48
| 山と木材のお話
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