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2011年 10月 22日
迷子になった子供が家族と会えましたというアナウンスが好印象だった理由を考えてみる
今日こんなツイートをしました。
阪急の館内放送で、迷子のお知らせの続報をアナウンスしていた。無事に家族に会えたらしい。こういう放送は初めて聞いたけど、いいなと思う。

私にとってはなかなかの反応で、数人にリツイートされました。

正確に言うと、西宮北口のガーデンズ内の放送で、夕方から待ち合わせをしていて、15時から17時半まで時間をつぶしていました。最初、16時くらいに迷子の放送があり、その一時間後くらいに、家族に会えました、というアナウンスがありました。

そもそも、デパートなどにそんなに来ないのですが、こうした放送を聞くのは初めてで、なんだか、いいなあと思ったわけです。

なんでそう思ったのだろうと、リツイートされたというお知らせを見ながら、待ち合わせに考えていました。

一つ目の理由は、解決されたことを聞けた、という事実があります。

現代社会というのは、未解決の問題が山積みです。

多数の未解決の問題はそれぞれが複雑に絡み合っています。そしてたちの悪いことに、私たちもそのシステムに組み込まれています。被害者でもあるが、加害者でもある状況になっています。NHKスペシャルの環境問題のレポートを見ると、決まって最後に、問題提起で終わります。現実問題、問題は複雑で安易な処方箋はないのですが、しかし、暗い気持ちになります。

各種の自己啓発の本によれば、心理学的知見から、人間は未処理の課題を残すことは精神衛生上よくないらしいですが、これは実感からわかります。だから、そのように無数で、未解決の問題が積み重なるといのは、大変に生きにくいです。
※もちろん、だからといって安易な解決策を提示せよと言いたいわけではありません。

ツイッターでは、原発に関する各種の問題から、最近発表されたアプリのセキュリティの問題、政治記者の問題など、どんどん流れていますが、「迷子のお知らせ」を聞いたときの感覚は、ツイッター上に流れるもろもろの問題と同じく、私の頭の中を流れていきました。

迷子のほとんどは無事に見つかっていることでしょうから、さほど心配することでもないでしょう。

それでも、素直によかったねと思ったし、やはり、すっきりしたのだと思います。

単純な事実として、××が問題です!というニュースの数に対して、○○が解決しました!というニュースの数は少ないということもあります。


もう一つ。アナウンスは、「みなさまのご協力ありがとうございました」と言いました。
実際は、この迷子の問題解決に関わった人は数えるほどしかいないはずです。私も全くタッチしていません。ただ、私は少し心配したことは事実です。それは、迷子のお知らせを聞いたとき、比較的静かな場所、ートイレ、にいたため、鮮明に記憶に残ったからですが。だから、そういう心配をしてくださってありがとう、というメッセージにも受け取れました。

私は、毎回の迷子のアナウンスをちゃんと聞いているわけではないです。そういう自分の経験の延長でいうと、少しでも心配した人さえも、全体からみれば半分くらいかもしれません。

でも重要なことは、運営側はある程度本気で、「お客様は協力してくださる方」と思っていることです。

これは、最近よく見る、トイレの「きれいにお使いいただきありがとうございます」という張り紙とは全く違います。この種の張り紙をつけた人は、そんなことを思っていないでしょう。

この張り紙をしたモチベーションは、明らかにきれいに使ってもらいたいからです。本当は、「きれいに使ってね」、もっといえば、「ただで使うんだから、せめてきれいに使えよ」とか思っているはずです。少なくとも、初めて張り紙をした人はそう思ったからわざわざ張り紙をしたのです。それが、ちょっと表現がストレートだから和らげようと思って表現を変えた結果なのでしょう。そして、最近ではそれすら考えず、「とりえあずトイレにはこれ」で決めているのがほとんどだと思われます。

なぜそう言えるかというと、張り紙になんと書こうと労力は同じだからです。
さらにいえば、昨今では「きれいにお使いいただきありがとうございます」は「トイレはきれいに使ってください」よりも意思がないといえます。
なぜなら、今になってストレートな表現の張り紙をするためには、ある程度の、顧客から、あるいは本部からのクレームを覚悟しなければならないからです。

でも、二度目のアナウンスはそうではありません。これをするためには、解決した後に放送室へ報告する手間をかけ、放送係はわざわざボタンを押して、放送しなければならない。そして、このことを始めたときの責任者は、「なぜそんなことをわざわざ放送するのか」という反論を説得し、もしかしたらあるかもしれないクレームに対応する覚悟を持ってこの話を通したはずなのです。

ちょっと大げさですが、そういうコストを払ってまで、「お客様は協力してくださる方である」という性善説に立って、そのような人として扱っています。これは気持ちいいものです。

今の世の中では、そうでない前提で扱われることが多いです。
たとえば、何ページにも及ぶ利用規約を読めとか、正当な理由があってコールセンターに電話しているのに、毎回「音声は録音されます」と聞かされるとか。つまり、私はクレーマー候補として扱われているわけです。
※企業がそうせざるを得ないのもわかりますけれども。
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by taiji_nakao | 2011-10-22 22:25 | エッセイ
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