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2013年 03月 03日
なぜ過剰に「空気を読む」のか
精華大学で、「日本語リテラシー」という、作文を教えている知人と話していた時のメモ。

統合的なイメージを持っていないことに対する疑問がない

例えば父親が嫌いだと書きながら、他では父親が好きだ、と書いている学生がいる。こうした矛盾した記述があることに疑問すら感じないという。一面は好きで、別の面が嫌いということは当たり前にあることだが、単に好きと言っておいて、また単に嫌いと言われたら、どうして?と思わないのは不自然だ。しかし、そういう感覚がないらしい。なぜか。

それはつまり、「どうして?」と聞かれる機会をほとんど持たずに生きてきたかららしい。友だちはたくさんいるかもしれない。しかし、断片的な部分を共有する人しかいない。だから、一方で父親は好きといい、一方で嫌いと言っても特に疑問を持たれない。中には、言ってることが違うと気がついても、それを指摘するような関係ではなかったのだろう。


自分を認識する対象を感情に置いている

同じ教室の学生たちのほぼ全員が、「空気を読み合う関係に疲れた」と書いているという。なんともシュールな光景だ。どうして、そういうことになってしまうのか。

断片的な人間関係しかないこととも関連するが、自分が社会の中でどんな位置にあるかという、客観的な物差しを持たず、自分自身の認識の根底を自分の感情に置いているからだろう、というのだ。

例えば、「花いちもんめ」という遊びでは、プレイヤーはストレートに客観的評価に晒される。このような、自分が社会の中でどんな位置にいるのか、ということを受け入れざるを得ない場があって、自分自身の認識をそこにあわせていく機会が、かつてはあった。

しかし、「心を傷つけてはいけない」ということが第一にされ、運動会で一等賞がなくなるような環境では、自分がどんな位置にいるかを知る機会がなくなった。外部との接点において自分自身を把握する軸を持つことが出来なくなった結果、把握する軸を自己の内面に求めるようになる。

手帳にはたくさんのプリクラが貼ってある。誰々ちゃん、誰々ちゃん、友だちがたくさんいて、楽しい自分。自分は楽しく暮らしている。予定はみっちり詰まっている。私は充実している。

自分自身の感情を、自己を規定し、認識するよりどころにしている。楽しい自分。
しかし、感情とは移り行くもので、不安定なものである。そして、その感情を自己認識のよりどころにしていることをお互いにわかっているが故に、負の感情を呼び起こすようなことは決してしない。このようにして「空気を読む」関係になっているのではないか、というのである。
※この辺りの分析は「友だち地獄」という本に詳しいらしい。

まだ知らない本当の自分がある

例えば、自分は歌手になりたいという学生がいる。しかし彼の歌声はひいき目に聞いても上手いと言えない。それで、ちょっと歌手になるのは無理じゃないかと指摘すると「どうしてできないと言えるのですか」と真顔で返される。

自分にはまだ自分もわかっていない本当の自分がいる。この感覚は、私自身も身に覚えがある。リアルな社会との接点から導きだすのではなく、ぽんと出てくる、発見するものだという感覚。

客観的な評価に晒される機会を持たず、個性が大事と言われ続ければある種必然の結果なのかもしれない。

その背景に「個性」が大事であり、「自己表現」が大事である、という価値観がある。大事なのは間違いないが、なぜか過剰に優先しようとする人が多い。
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by taiji_nakao | 2013-03-03 09:47 | 考え事
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