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2005年 06月 06日
人と森との関わり(日本)
「昔は、日本人は自然と調和して暮らしてきた。森林もそうやって管理してきた。でも、西欧化が進み、そうでなくなってしまった。・・」

 という話は、注意して木聞かないとけません。

 これは何にでも言えることだと思うのですが、「昔から」「伝統的に」、という言葉を使ったとたん、「いまここ」と、歴史が分断してしまうことがあります。「昔」という時代はないし、「伝統的」といっても、江戸時代からなのか、明治なのか、もしかしたら昭和からでも、「伝統的」なんていってることはあります。

 いつでも、「いまここ」を生きている人たちが、(もちろん、先代から受け継いだ業を前提にしながらも)、その時代のニーズにあうものを追求し続けたものこそが、「伝統」であるはずなのですが、どうも、こう、固定してずっとあるものが、「伝統」で、それ自体が正しいとする向きがあると思います。

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 森林管理についてもそうです。

 例えば、里山という言葉は最近よく出てきますが、一般的には、

 集落のそばにあり、クヌギやコナラを中心とした雑木林であり、主に薪炭を得るためにここを10~20年サイクルで伐ることによって、萌芽更新(切り株から芽が出て、それが木になる)が進み、半永久的に利用してきた森。そこには、光が入り込み、生物多様性が高い森になっている・・・

 というイメージです。
実際に自分もそう思っていました。

 しかし、例えば、中世の京都の周りの山は、薪炭や肥料利用のために過度な負担をかけた結果ほぼ禿山化し、かろうじてやせた土地でも生えられる松があった程度だったらしく、これは、中部地方でも多くみられた現象のようです。

 これは、人口圧に山の回復力が耐え切れなかった例で、現在多くの発展途上国で見られる禿山と問題の構造が似ています。

(実は、日本は明治時代に多くの禿山の植林に成功しており、その技術は世界で活かされるべきものだ、と。緑地保全学の先生のお話。)

 また、農民にとって、肥料は死活問題で、肥料のため、茅が多く生えた野原の茅場も多くあったようですし、馬を飼っているところも多く、牧野もかなりの面積を占めていたようです。

 つまり、とにかく江戸・明治以降、農業技術(特に肥料の問題)が発展するまで、山と関わる人のほとんどは農民であり、こうした人々には、まず、肥料が必要であることと、そして、(これは当時の人全てに当てはまることですが、、)燃料としての木が必要であることが前提にあって、それを山に求めていたのです。

 その結果、最初に紹介したイメージのような豊かな森林もあったでしょうし、そうでない、禿山もあったのです。

 里山以外の山では、一部は、例えば、石見の銀山と同じようなとらえ方で、局所的な産地、天竜などなら商品としての木材を求めていましたし、冬に炭焼きを生業とする人々の原木供給地であったかも、東北地方のマタギと呼ばれる人たちの狩の場であったかも、木地師がたまにやってくるところだったかもしれません。

 いずれにしても、江戸時代くらいまでは、ほとんどが農民として森とかかわり、一部に違った形で森と関わっていた人がいて、その人たちは、その人たちの目的を持って、森と関わっていた、ということです。

 当たり前のことですね。

 しかし、明治に入ると、政府が富国強兵の一環で国内資源増強のために植林を進めていくのですが、この辺からおかしなことになってきます。

 前に読んだ本によれば、植栽から、下刈り等の保育全てを含む林業が産業として存在しうる、つまり、そうした保育にかかるコストの対価に見合う価格で売れるのは日露戦争後だといいます。

 ですから、それ以前には、木材を得る、という目的を持った人はほとんどいないわけです。その中で、半ば無理やり明治政府は、森林組合を作り、(これは強制参加でした)植林を進めたのです。

 明治では仕方ない事かもしれませんが。

 その後は、木材需要が伸びるに従い、人工林も増えていきます。

 でもそこには、例えば、硫安の普及で茅場が不要になって、一方都市化が進んで、炭の消費が伸びて、そうしたところが多く薪炭林になったなどの細かい動きにも注目する必要があります。

 「昔は、薪炭林だったんや」という山も、案外、この頃に薪炭林になったかもしれないのです。

 現在の日本の森林を決定付けることになったのは、戦後です。
簡単に言ってしまえば、

*紙・パルプ業界の急成長による木材チップ需要爆発
*空前の建築ラッシュによる、製材品需要の急増

 によって、木材価格は跳ね上ります。

 こうした情勢の中、日本の社会全体が木材の安定供給を求めます。

 その結果、

*国内森林の増伐
*人工林造成の推進
*外材輸入体制の整備・促進

を推し進めます。

 論点はたくさんありますが、ここで指摘したいのは、戦後、特に50年代後半から80年に至るまで民有林の人工林造成は進んでいくのですが、

 自分の山で、自分の手で木材を育て、売りたい

という必要性を感じていた人は、 実は少数派だったということです。

 61年は、林業界では、「外材元年」と呼んでいるようですが、
この年は、一年で木材価格が倍増した年であり、緊急の閣議決定で上に上げたような対策が進められた年です。

 最初、国内の補助金を出したとき、それを得て、造林を進めるという林家は少なかった。その後、強力な行政指導を進めることによって初めて、造林が進んでいったのです。

 対照的に、この時期、のどから手が出るほど原木の欲しかった、パルプ業界は、こうした補助金をほとんど利用せず、海外で調達していこうという方針を固めています。

 これは、結果論だからいえることもありますが、この当時から既に、
目的があって森作りをする、という、当然の筋が崩れ始めていくのです。

 残念ながら、戦後、時が進むにつれ、造林の目的は、なんらかの利用のためにというより、造林そのもの持つ、公共事業的側面を強めていきます。

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 建築用材は、その特殊性から、一定のシェアを守ってきましたが、押し寄せる外材に対して、対抗策を打たないまま、少しずつシェアを失っていきます。

 そして、95年阪神大震災、00年住宅品質確保法、などといった、性能表示保障などの時代の流れにのれず、いっそうシェアを失っています。 

(ちょっとずれるので、今回は需要側・流通側の問題は問わないことにします)

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 こうした中、戦後に大量に植えられた人工林の手入れ、特に間伐、がなされず、問題になっています。 

 それに関連した本を読めば、とにかく間伐しなければならない、とあります。

 しかし、よっぽどのケースでない限り、

 間伐しなければならない、

 つまり、間伐しなければ、しかなった本人(この定義が難しいが、林家その人、あるいは流域に住む人)に重大な支障が出るか

かと言われれば、そうとは言えないと思います。

 つまり、多くの人にとって、間伐しなくてもよくなっているのです。

 そんな今、多くの人が、一番最初に考えるべきは、
「いかに間伐を進めるか」ではなく、
「森林とどのように関わっていくか」ということだと思います。

言い換えれば、何を森に求め、それをどう実現するか・・

逆に森に携わる立場から見れば、どんなことを提供できるのか、
そのためにはどうして行けばいいのか・・

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 ながーい前置きになりましたが、ここで、前回のエントリーとつなげます。

 今、コンクリートのダムはできるだけなくしていきたい。

それで、もし、今以上に洪水防止機能を増大した森林に誘導していくことが可能なら、
放置した人工林でも、あるいは茅場でもなくて、そうした森林づくりをしていくことを
選択する、

というスタンスが大切だと思います。

 山側としても、その機能がどれだけあるのかを示すことも必要です。
それが、非常に困難なのですが。

 ここでは、

*本当に手を入れて、洪水防止機能を増大させられるのか
という問題と、
*それを証明すること
という問題があります。

前者に関しては、
このブログに載せている写真である、有名な速水氏の森林で、光の入った人工林の下には多くのシダが繁茂し、その枯れ草等が重なって深い土壌を作っているのを見て以来、一定の効果は必ず挙げられるだろうと思っています。

後者に関しては、非常に困難だということです。ですが、最近始まったばかりことなので、今後に期待です。 


 洪水が防げた上で、

*豊かな森林がつくられ、
*地域に雇用が生まれる

というような可能性は、一定以上のコストをかけて追求する価値は間違いなくあるでしょう。
by taiji_nakao | 2005-06-06 00:34 | 山と木材のお話
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