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2006年 06月 14日
「それを信じている方がよい<うそ>」なの?>京都議定書
 前回の永井均の「<子ども>のための哲学」の中で、道徳を

** たとえうそであっても、まやかしであっても、みんなが信じているほうが世の中がよくなるような、そういう<うそ>というものがあるのだ! **

という記述を読んだとき、ふと思い浮かんだのが、「京都議定書」である。

日本は6%の削減義務を負っているが、その3.9%は「森林整備」によって実現できるという。不思議なものである。日本には、(先人の努力によって)ほとんど植林を必要としている土地などないので、「森林整備」とは「木のないところに木を植える」ことを指すのではない。
そうではなくて、すでに植えられた森林を「適切な管理」をすれば、それが吸収源として認められるらしい。
そして、どうやら「適切な管理」とは間伐実施を指すらしい。
しかし、温度・降水量・養分・光といった植物の成長を決める要因は、間伐をしたからといって、さほど変わらないのだから、どうかんがえてもこじつけとしか思えない。

森林関係に携わり、ちょっと考える人なら誰でもそう思うはずである。
しかし、今「温暖化防止」の名のもとに巨額が投じられており、森林関係の研究も潤っているのは間違いない。
だから、そこに関わる人の多くは上にあげた引用のようなことを考えているのではないか、とふと思った。

***

温暖化の問題は重大な課題であるが、現在の議定書で問題なのは、温暖化が他の問題を差し置いてダントツでトップになっていることである。

森林問題で一番重要なのは、よく言われるように「持続的可能な管理」である。
しかし、京都議定書の力は強大で「二酸化炭素をどれだけ吸収できるか」が森林に第一に求められるものになってしまっている。
巨額がここに投入されるからだが、これには問題が多い。

まず第一に、そもそも森林は本当に二酸化炭素を減らすものなのか?という問いである。
単純に考えて、それまでまったく木のなかったところに植林するなら、その木が育った分は二酸化炭素は減る。しかし、一度育てば、そのあとは循環する(=植物が固定した炭素はやがて分解される)のだから、基本的にその森林が二酸化炭素を吸収しているとは言いがたい。
そして、現在巨額を投じてどれだけ吸収するか、という研究が行われているが、それがどれほど意味があるものか疑問である。

第二に、森林の質は問われず、とにかく「植林」という言葉が賞賛されるべき、お金を集めるべきものとなってしまう。
現在、製紙会社は海外にたくさん植林している。そのほとんどはユーカリのプランテーションで、言ってみればとうもろこしなどと同じ畑である。その行為自体を批判するつもりはない。土地利用に関して合意形成があるならば、当然ながら製紙会社は持続的、効率的に原料を得る方法を開拓して当然だから。
しかし、どうしてそういう営利行為にODAが使われたり、まして「排出権取引」などといってお金が与えられたり、「温暖化防止に役立ってます」と美しいイメージを獲得できるのか。
それより、本質的に環境活動に貢献している企業はたくさんあるのに・・
(製紙会社がそういう活動をしていない、といっているのではない。例えば廃液対策には巨額を投資してきている。)

***

森林問題に限らず、環境問題の次元として、「循環型社会の実現」が第一にくるべきであって、「温暖化防止(=CO2削減)」はその下にあるべき課題である。
つまり、「循環型社会の実現」という目標に「温暖化防止」は含まれる。
にも、関わらず「温暖化防止」が一番前にやってきているのが現状なのである。

これは様々な問題を引き起こすし、わかりにくい。
循環型社会の実現=化石燃料をできるだけ使わずに、最終処理までできる社会 
と考えれば、もっとシンプルでわかりやすくなるはずだ。

カーボンニュートラル(木材は、最終的には分解されてしまうが、また育つときに二酸化炭素を吸収する)などという、ややこしい概念を持ち出す必要はない。

まあ、「石油をできるだけ使わないように」とストレートにいえない政治事情があるのだろうけれども・・
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by taiji_nakao | 2006-06-14 00:54 | 考え事
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