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2006年 06月 22日
淡白
初めて自分が淡白な人間だと認識したのは、大学に入ってから。
弟が、「兄貴は自分のことばかりを考えていて、人(この場合弟)のことはあまり考えてない」
と、「兄弟間のコンプレックス」という文脈で使っていたと別の家族から聞いたときだ。

確かに、私はずっと、自分のことばかりを必死に考えて生きてきた、と思う。
中学も、高校も大学のときも。
それは、例えば経済的事情とか、そういう問題に遭遇しないで済んだ(少なくとも意識しないで済んだ)、幸運な人間だったからであり、その幸運とは私に関わる人によってもたらされたものだ。
しかし、そういうこととは別に、人がどう考えているかということに、私の関心は低かったのかもしれない。


人が淡白か否かというのは、人が評価するものであって、相対的なものだ。
私は、「淡白でいよう」などとはついぞ考えたことがないけれど、おそらく次のような思考回路は「淡白だね」と言われるものかもしれない。
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2回生の後期、私はサークルの運営に熱中した。
そのとき、その運営のコアメンバーは4人いたが、 熱中度は私一人が突出していた。考え方も違った。こういうとき、おそらく多かれ少なかれ、世の中に数あるサークルの中に存在する問題が顕在化する。

「モチベーションの差」

私は、全力投球していた。
事務のことについて、人に呼びかけ、カリカリやっていた。
そして、後の3人がすべきことも、だんだんしなければならなくなってきた。
一つに私の理想が高い、といことがあって、それを実現するには任せていられないというものだが、客観的に言って、他の3人がサボっていたという分も多々あった。

私は苦しくなったし、一度そんな話をしたりしたけど、まあ、そう変わるものでない。
そのうち、私は彼らを非難する話をあちこちでするようになる。
おしゃべりな私は、だれかれかまわずそれをした。
私の言っていることは、だいたい正論であったし、こうして特に3人とはなんだか遠慮する関係となった。

私がこの関係の修復を完全に終えるまでには、かなりの時間を要した。
びっくりするくらい、私はそのことにこだわっていた。「かわいそうな私を慰められたい」という欲望は、深くしみこんでいた。

けれど、一緒にカラオケいったり、あれこれするうちに、どうでもよくなってきた。
それは、私が運営に熱中している間、彼らは授業や遊びを選択していただけの話なのだ。
それは、例えば私が疎い音楽に造形があったり、無能学部と揶揄される農学部でぎりぎりの単位をやっととっているのとは別に、ちゃんと授業に出、レポートを書いていた、というだけの話である。これは、皮肉で書いているわけではない。本当にそう思う。
契約があるならば、それは果たす義務があるが、自由意志であるものに関しては、あくまでそれは本人が決めることなのだ。

こうした思考は、「意図的に淡白でないふるまいをすること」に強い拒否反応を示す。
(まあ、やっぱり無理してそんな振る舞いをするのはよくないと思う)

もう一つは、もっと単純な話で、自分ですでにたくさんのことにコミットメントしているので、新たなことにコミットする余力がないので、それを求める人からすれば淡白にみえるということだ。

こないだ泊めてもらった先輩が
「(その人や俺のような)趣味も仕事も一緒な人間は、結局のところ、生活全部がそのテーマに関わることになるんじゃないの」
と言ってたけど、ああ、やっぱりそうなのかもね。

でも、淡白、という言葉には、どうして、こんなに悲しい、複雑な気持ちが含まれるのだろう。
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by taiji_nakao | 2006-06-22 06:44 | 考え事
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