2006年 08月 02日
前回書いた、あるものにお金を支払うとき、そのものの機能以外の文脈(例えば生産過程)に共感して、お金を支払う「物語の消費」について。
おそらく今後、この傾向はどんどん強まる。 表面的な広告は、見透かされる。嘘の情報はバレる。 SNSのように、バーチャル形も含めて、あるコンセプト、理念を求める人たちはよりネットワークを結びやすくなる。 そこでは、そのコンセプトに本当に合っているものしか生き残れない。 そうして、買う人、売る人が一体となってコミュニティをつくり、その理念を実践していく。 そんな社会を実現していく。 そんな風になると思う。 ** だが、自分で興味のある、地域社会の自立、持続的な資源の利用といったことの実践はそう簡単でない。 そうことを実践している人に会うほど、そう思う。 国産材を使い、職人の技術を活かした家を建てていくというのは、容易なことではない。 それは一例で、いろいろな分野で、そのように、信念を曲げずに、それで生活している人たちがいる。 それは、酒を呑んで語るほど、ブログに書くほど、簡単なことではない。 そんな社会は、絶対来ると思うし、そういう実践の場にぜひ立ち会いたいと願うけど、いったい、自分に何ができるのだろう。 この、何もない自分に。 あれこれ、考えて、今も考え中だけど、結局のところ、日本に向かったマクロな取り組みにせよ、県レベルにせよ、会社レベルでも、ぜーんぶ、人のやることの総体である。 これから、こうなって、こうだから、こうあるべきで、こうすればよい。 なんて言える訳がない。 という当たり前の結論に行き着き、ほとんど何もないところから、さて、 どこに行きますか。
by taiji_nakao
| 2006-08-02 00:19
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