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2013年 03月 03日
なぜ過剰に「空気を読む」のか
精華大学で、「日本語リテラシー」という、作文を教えている知人と話していた時のメモ。

統合的なイメージを持っていないことに対する疑問がない

例えば父親が嫌いだと書きながら、他では父親が好きだ、と書いている学生がいる。こうした矛盾した記述があることに疑問すら感じないという。一面は好きで、別の面が嫌いということは当たり前にあることだが、単に好きと言っておいて、また単に嫌いと言われたら、どうして?と思わないのは不自然だ。しかし、そういう感覚がないらしい。なぜか。

それはつまり、「どうして?」と聞かれる機会をほとんど持たずに生きてきたかららしい。友だちはたくさんいるかもしれない。しかし、断片的な部分を共有する人しかいない。だから、一方で父親は好きといい、一方で嫌いと言っても特に疑問を持たれない。中には、言ってることが違うと気がついても、それを指摘するような関係ではなかったのだろう。


自分を認識する対象を感情に置いている

同じ教室の学生たちのほぼ全員が、「空気を読み合う関係に疲れた」と書いているという。なんともシュールな光景だ。どうして、そういうことになってしまうのか。

断片的な人間関係しかないこととも関連するが、自分が社会の中でどんな位置にあるかという、客観的な物差しを持たず、自分自身の認識の根底を自分の感情に置いているからだろう、というのだ。

例えば、「花いちもんめ」という遊びでは、プレイヤーはストレートに客観的評価に晒される。このような、自分が社会の中でどんな位置にいるのか、ということを受け入れざるを得ない場があって、自分自身の認識をそこにあわせていく機会が、かつてはあった。

しかし、「心を傷つけてはいけない」ということが第一にされ、運動会で一等賞がなくなるような環境では、自分がどんな位置にいるかを知る機会がなくなった。外部との接点において自分自身を把握する軸を持つことが出来なくなった結果、把握する軸を自己の内面に求めるようになる。

手帳にはたくさんのプリクラが貼ってある。誰々ちゃん、誰々ちゃん、友だちがたくさんいて、楽しい自分。自分は楽しく暮らしている。予定はみっちり詰まっている。私は充実している。

自分自身の感情を、自己を規定し、認識するよりどころにしている。楽しい自分。
しかし、感情とは移り行くもので、不安定なものである。そして、その感情を自己認識のよりどころにしていることをお互いにわかっているが故に、負の感情を呼び起こすようなことは決してしない。このようにして「空気を読む」関係になっているのではないか、というのである。
※この辺りの分析は「友だち地獄」という本に詳しいらしい。

まだ知らない本当の自分がある

例えば、自分は歌手になりたいという学生がいる。しかし彼の歌声はひいき目に聞いても上手いと言えない。それで、ちょっと歌手になるのは無理じゃないかと指摘すると「どうしてできないと言えるのですか」と真顔で返される。

自分にはまだ自分もわかっていない本当の自分がいる。この感覚は、私自身も身に覚えがある。リアルな社会との接点から導きだすのではなく、ぽんと出てくる、発見するものだという感覚。

客観的な評価に晒される機会を持たず、個性が大事と言われ続ければある種必然の結果なのかもしれない。

その背景に「個性」が大事であり、「自己表現」が大事である、という価値観がある。大事なのは間違いないが、なぜか過剰に優先しようとする人が多い。
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by taiji_nakao | 2013-03-03 09:47 | 考え事
2012年 11月 04日
「無料なのに素晴らしい」は死語になる
金融日記の藤沢氏のブログ記事、「コンテンツの時代」を読んだ。相変わらずの身もふたもないカラーが発揮されている。

簡単にまとめると、インターネットの時代になってみなが発信できる時代になって、いままで以上にアマチュアにクリエーターとしての役割が期待された。だが、ふたを開けてみるとコンテンツを提供している人は一握りであり、そういう人はみな、ちゃんと金銭の見返りが得られるところに集まっている。

結局のところ、自由で無料のインターネットが、豊かなコンテンツを次々に生み出すことはなかったのだ。

というわけである。

藤沢氏は全般的に身もふたもない書き方をするけれど、確かにそれは一面の真実だ、という思うことが多い。この記事もそうなのだが、そうなのだが、コメントに残している人もいるように、腑に落ちないところがある。


こうして多くのコンテンツが、素人クリエイターにより制作され、人々はほぼ無料でコンテンツを楽しめるようになるというのが大方の予測だった。

そういう時代の空気は確かにあった。だが、その結果が、

無償のクリエイターにより作られる無料の面白いコンテンツなど、ほとんどないのである。

と言われるとう〜ん。そんなことないよ、あれもあるよ、これもあるよ、と言いたくなる。
「ほとんどない」と言っているのであって、「ない」とは言っていないので、ここでその例を出すのは議論としては野暮なのだが、腑に落ちなかった心境を説明するために、いくつか最近面白いと思った無料コンテンツを紹介する。

森のくまさんの謎
多くの人に親しまれた童謡「森のくまさん」なのだが、歌詞をよくみるとおかしなところがある。
だが、それには隠された謎があったのだ、ということを理詰めで説明している力作である。

完全に一致な画像集
にちゃんねるまとめサイトで、全然違うもの同士なんだけどよく似ている、という画像を集めたスレのまとめ。これを一人で作ろうとしたら、高いセンスと相当な時間が必要でほとんど不可能だと思われる。

twitterやらfacebook経由でこういったコンテンツに触れたことがある人なら、

無償のクリエイターにより作られる無料の面白いコンテンツなど、ほとんどないのである。

と言われたら、そんなことはないよ、と思うのが人間というものだ。
だから腑に落ちないのだが、しかし、最近ウェブ上でも有料コンテンツが増えてきていることははっきりと感じる。

私が触れるコンテンツも有料経由のものが少しずつ多くなってきている。
有料メルマガを購読したり、閲覧するには有料会員になる必要のあるブログというのもある。
さらに、最近オープンした、週150円の cakesの会員になるのも時間の問題な気がする。

* * *

この辺のもやもやを整理するために、状況を掘り下げて考えてみると、

「金のためではない」人々の創作意欲により良質なコンテンツが継続的に作られることはなく

という点がポイントだと思う。有料メルマガをやるなら、毎週一定以上のクオリティの文章を書き続けなければならない。これは、文才や知識に加えて、きちんと毎週書く習慣を維持できる資質と、その時間があるということが必要になってくる。

そして、これらの条件に合致する人というのは少なくて、その結果、アルファブロガーもアゴラの投稿者も有料メルマガを発行している人も、同じようなメンバーになってしまうのだろう。

別の視点からみると、そのような人をメディアが育てることができるのか、ということになる。
物書きという点では、新聞社や雑誌、そして出版社が育ててきた。
そのようなメディアが今後、ウェブ上で登場するだろう。となれば、彼らを食べさせる仕組みが必要で、その仕組みが今作られているところ、というわけなのだ。

さて。
では、無料のコンテンツはどこへ行くのか。優れたコンテンツはすべて有料になってしまうのだろうか。そんなことはないと思う。

* * *

学生時代に、趣味で木製のからくりおもちゃを作っている方にお会いして、ご自宅の自作おもちゃを見せていただいたことがある。例えば、お茶運びじかけのおもちゃ。畳の上で向かい合ったところでねじを巻いて手を離すと、半円状にぐるっと回って移動してきて、私のまえに来たら、お辞儀をして、中にあるコップを持ち上げた。あるいは、球体に人形がくっついていて、坂を転がすと、その人形が器用に手足を動かしてバク転を繰り返すものもあった。何年も前の話なので細かい点はうろ覚えだが、次々と出てくる、動力源はねじ巻きのみ、ねじ巻き以外はすべて木製の魔法のようなおもちゃに圧倒されたことははっきり覚えている。

元々エンジニアで設計をする仕事をしていたらしく、おもちゃを作るときの図面は本格的だった。きれいな線で書かれた図面を見せながら、設計の時に体積を計算する必要があって、久しぶりに積分計算をしましたよ、と笑っていた。特に精度が要求される部品については、その部品を作るための道具まで自作しているという。

木製からくりおもちゃの世界のことは知らないが、これほどのものを作れる人はそうそうはいないと思う。知り合いには個展を開くようにといつも勧められていたそうだが、そういったことにはあまり興味がないようだった。お金を稼ごうなどとは、夢にも思っていないだろう。

そういうクリエーターはたくさんいる。
日本には、そんな隠れたクリエーターが特にたくさんいるような気がする。
そして、今までは見つけることが難しかった、そんなクリエーターたちとの出会いをインターネットが可能にしてくれるだろう。

* * *

ウェブの世界では無料であることを過度に礼賛する傾向がある。

しかし、単発のコンテンツを評価する場合、それが「無料か否か」を問うこと自体、意味があることなのだろうか。

その無料コンテンツは、趣味の時間にこつこつと、生涯を掛けて作った渾身の作品かもしれない。
その有料コンテンツは、バイトがルーティンワークでこなした結果かもしれない。

お金を払う理由は、必ずしもコンテンツの質に関連するのではない。
毎週同じテーマのコンテンツを欲しているからかもしれない。検索して探す手間を省くためかもしれない。あるいは、クリエーターへの応援の気持ちもあるかもしれない。

2012年現在、制服をちゃんと着ている真面目そうな学生が席を譲るより、金髪のお兄ちゃんが席を譲る方に目がいきがちだし、話題にされやすい。その心の中では、「金髪の若者は不良」というステレオタイプな前提がある。しかし、津田大介氏のような、金髪だけどまじめな著名人も出てきたわけだし、もういい加減、その前提は変えた方が良い考える人は増えてきている。

同じように、「無料なのに素晴らしい」という話題の前提にある、「無料で提供されているコンテンツは低質なはずだ」という前提を改める時期に来ているのだと思う。
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by taiji_nakao | 2012-11-04 10:37 | 考え事
2012年 07月 08日
キュレーションは人がすると精度が高いならその人を支援するのが良いのでは
Twitterで自分のフォローワに声をかけてオフ会をしたという話を聞いた。その話の中で、この会は出会い目的ではないですからね、と念を入れた、というエピソードから連想したのが、

やってみよう研究所のブログ、
学生街のニュービジネス
いきなり声をかけて異性のマッチングを商売にしているという人に会った体験談。

オフ会の企画もそうだけれど、その場が良いものになるかはひとえにオーガナイザーのセンスと力量に掛かっている。

それで、そこからまた思い出したのが、
人材業界 と零細ブロガー【採用マッチングパーティーの人集め】
人材マッチングのビジネスは現在非常に高額だが、ある程度の力のあるブロガーは一定層を集める事ができる。
そんなブロガーが力を発揮すれば人材業界では価格破壊が起こるだろう、ということ。

これはそうなりそうな気がします。

同じ理屈で、結婚紹介サービスも変わるかもしれない。

ちょっとここに書くのは恥ずかしいのだが、以前、某大手の結婚紹介サービスに登録した事がある。
どんなシステムになっているか興味があったのと、広告のバナーはいかにも少しの情報を登録するだけで完了するようであったからなのだが、実際は相当に詳細な情報の登録を要求され、ちょっとやめようと思いつつ登録した、と言い訳。

そうしたら、郵便で資料が送られてきたのだが、中にあなたにマッチするであろうというA子さんの情報があった。
もちろん、匿名なのだが、住んでいる市町村、職業、年齢、そして身長までが書いてあり、なるほど、こうやって妄想、もとい、想像をさせてイメージを鮮明にしていくのだなと思った。

そのまま放っておいたら、おばさんから電話があった。
いかがですか、という営業電話である。システムとしては、その後に実際にこのおばさんと面談して自分の状況や望みなどを話すのだろう。そして、実際に紹介してもらうためには確か5万とか払う必要があった。行きませんでしたけど。

各種サポートのしくみがあると予想されるにせよ、このシステムの要はおばさんであろう。
だから、このブログの文脈で行けば、おばさん、個人紹介サービスとなる。こう書くと、昔から自然にあったことのようにもおもえる。
でも、人材系なら情報を持っているアクティブな人の元に若者(=転職候補)は集まるのは自然だが、このようなおばちゃんの元に自然に若者が集まる事はちょっと想像しにくい。
いや、「私は400組を成立させました」というカリスマが出てくるかもしれない。ちょっと気持ち悪いけど。

少し考えてみると、飲み屋の店主なら、このキュレーターというかコーディネーターになりそうななので、最近流行の街コンと組み合わせて、街コンの参加者のエントリーを店経由として、対象を絞って小さめに開催するとマッチングだけを考えるなら効果的かもしれない。

それともう一つ。これは先日のワークショップで自分たちのチームで話していたこと。

最近、キュレーションサービスというのがある。
TwitterやFacebookのIDを登録し、興味のあるキーワードを入れるとそれに関連するニュース記事を抽出してくれるものだ。
VingowやGunosy、Flipboard、Ziteなんかがある。
最近、私は、英語の学習も兼ねてZiteをチェックするのと、日本語のニュースはFlipboadでいずれもiPadからみている。Gunosyは登録すると毎日メールを送ってくる。
そこではTwitterやFacebookで、私のフォローしている人や友人間で話題になったニュースが中心に紹介されている。

Vingowなんかをみても精度はとても高いと思うが、しかし集めだすと情報はそれでもたくさんになるので、これらのキュレーションサービスから情報を拾ってフォローワーに渡すという形は理にかなっている。

佐々木俊尚さんのように、情報を探して紹介する事をしている人はいるが、佐々木さんクラスに有名どころだと、日刊佐々木新聞なわけで、フォローしている人にマッチするかではなく、フォローする人が佐々木さんの情報を欲しいと思うか、という世界。

ならば、フォローワーが関心を持つと思われる情報を収集し、キュレーターが自分のフォローワーがその中から自分のフォローワーが関心を持つ情報を抽出し、かつ関心のある人だけに情報を発信する、ということを支援できればなお精度の高い情報を取得できる。これは便利では。

ちょっとだらけましたが、

人材紹介、異性紹介、情報の配信
のどれも、人間(コーディネーター)が介した方が精度は高いので、
システムはそのコーディネーターを支援する方向に進化していくのもありなんじゃないかな、というお話。最後の結論は、以前少し手伝っていた、京都府内の地域SNSでの会議でも議論した内容なことを思い出した。
京結び
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by taiji_nakao | 2012-07-08 12:41 | 考え事
2012年 06月 07日
AKB総選挙を見て思うこと
よく行っている定食屋というか居酒屋に昨日行ったらテレビでAKB総選挙なるものがやっていた。私が見たのは初めてでした。

本当に選挙みたいな構成になっていて、アナウンサーが大真面目に解説している。
選ばれたアイドルは泣きながら、ファンの皆様に感謝したい、とか、もっと成長したい、とかスポーツ選手みたいなコメントをしている。

正直、正視に堪えられなかったです。これは、シュール系の現代アート作品です、と言われたら納得できたけど。

ただ、AKBのメンバーが与えられた舞台の中で一生懸命やっているのはおそらく事実だろうし、涙もうそじゃないんだろうと思います。

だいたい、「感動して泣く」というのは万人受けするフォーマットのひとつなのでしょう。
高校のときの古典の先生が、歌舞伎をよく観に行くそうなんですが、歌舞伎の心中ものなんかがいいらしい。もう、だいたい筋書きとかわかっているわけなんですが、それでも泣いてしまう。で、すっきりすると。そんな話を聞いたことがあります。

特にテレビで、「感動して泣く」ということについては、昔からいろいろ言われているところです。
夏の甲子園しかり、箱根駅伝しかり。投手が4日とか連投するとか選手生命に関わるかことなのに、それを真夏にやらせるとか、あるいは、極端な山道で長距離を走らせるとかいうことは、これは実際のところどうなんだ、というのはあります。夏の甲子園については、これだけ夏の気温が上がってきた昨今はそろそろ変えないと危険になっているようにも思います。

それらの賛否はともかくとして、つらい環境の中でも一生懸命やって、それで勝ったり、あるいは負けたりする人たちをみて感動するのは、自然なことと思います。

だから、がんばってやってきた人が感極まって泣く姿にスポットをあてること自体は、まあよくあることなのでしょう。

でも、そのプレーヤーのコンテンツっていうのが、アイドル、つまり性産業なわけで。
私がAKBのメンバーをみるのは、コンビニに並ぶ週刊誌のグラビアです。判別できないですけど。

というわけで、私は、あのやり方には違和感しかないのですが、それなら見なければいいという話ではあります。

NAVERまとめに、仕掛け人である秋元氏のコメントで、アイドルが好きな人たちは昔から、プロデュースする人たちの目はなってないという不満があり、そこに目をつけた、というのがありました。
なるほど。確かに、自分のひいきのあの子が人気がないなんておかしい、って考える気持ちはよくわかりますね。

だから、そういうニーズにうまく応えたのが、あの総選挙、ということなんでしょう。

酒・女・ギャンブル、といったコンテンツは低俗であり追放すべきといった主張を目にすることもありますが、この種のエンターテイメントがない世界というのはちょっと考えられず、もしなかったらそんな世界は逆に怖いと思います。

* * * * *

ここからが今回の投稿の肝になりますが、私が言いたいのは、テレビ局が使っている電波を自由化してよ!
ということです。

今、かなり強い気持ちでそれを思っています。

イーモバイルのUSBタイプの回線を長く使っています。
で、接続がちょっと悪くなってきていて、何度か差し込んだりすることはあれども、まあ、使えていました。
ところが、先日、東京出張のその日から使えなくなってしまい、電波難民となって大変に苦労しました。

無料のWifiスポットというものはほとんどなく、数少ないひとつであるwired cafeのwifiを借りました。
が、ここも10分のみの利用で、一度使うと3時間は接続できない、という制限があります。
ので、一度使って、一つ用事を済ませた後に時間が経つのを待ってからまたそこに行って使う、ということをしなければなりませんでした。

もし、テレビ局が抑えている電波が自由化されればもっともニーズの高いインターネットに割り当てられることは間違いないでしょうから、この環境はかなり改善されるはずです。

で、なぜ、数少ないテレビ局が電波を独占しているかという根拠は、「公共性」にあるはずです。

ここで、AKB選挙に戻ります。

もう、議論の余地もないようにも思えますが、一応書いてみます。

まず、コンテンツそのもののに公共性があるかについて疑問です。

それと、商売のやり方にも公共性という言葉はそぐわないでしょう。
たくさんお金を払えば、たくさん投票できるとか、握手できるとか。

これは、箱根駅伝でいえば、人気のスポットで応援するためには有料にするとか、お金を払えば選手と握手できるとか、ゴールした選手と写真を撮れるとか、そういうことをやるということでしょう。
今のところ、その種のことをやっていないのは、箱根駅伝というブランドを守るためというのもあるのでしょうけれど、それはダメでしょという公共性を意識しているからだと思います。

今度、電波の議論でテレビ局が公共性を持ち出したときは、ぜひAKB総選挙のことを、投票のために買われて大量に捨てられたCDや週刊誌のグラビア写真と一緒に論じて頂きたいと思います。
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by taiji_nakao | 2012-06-07 07:22 | 考え事
2012年 06月 02日
無理が通れば道理が引っ込む
そうならないためには、大飯が動こうがみんなが節電して電力使用量を激減させ、「原発はいらない」と言うしかない。「ないから使わない」のは、実は案外簡単だけど、「あるのに使わない」のは、かなりの精神力が要求されそう。だって、あるんだから。

というツイートを見てげんなりした。
私もどちらかというと、こういう発想をしがちな人間である。
人間って言うものは、「あるのに使わない」でいるのはかなり難しい。精神論だけでは多数の人は動かせない。もし、これが達成できるとしたら、精神論ではなく、毎日どのくらい節電できたとか、このペースで行くと原発なしで乗り切れそうだといった数字のフィードバックのある、ゲーム性があったときくらいだろう。

ちょうどゲーミフィケーションの記事があった。 日本人の得意領域・「ゲーミフィケーション」がやってきた!

だけれど、このためには電力会社の協力が不可欠だが、彼らにはその動機がない。
そもそも、電力会社は電気をたくさん使ってもらったほうが儲かるのだから。このことを悪いとかいいとか言うものではない。そのような仕組みをつくるのは政治の仕事であり、電力会社はその枠組みの中でのプレーヤーである。少なくとも建前は。あるいは短期間で見れば。

私がげんなりしたのは、しかし、その提案の実現可能性の低さではない。
論点をずらす、というテクニックにまんまと乗っているように見える点である。

今、最も問われることは何か。

現在問題となっている大飯原発(福井県)などの再稼動は、端的にいえば、「福島原発事故が起こった三月十一日以前の法律で、三月十一日以前の組織(原子力安全・保安院)が、三月十一日以前の手続きとルールで再稼動をしようとしている

Voice5月号の田坂氏の「再稼動しても、原発は必ず止まる」(PDF)より


上記内容がもっとも問題だと思うのだけれど、この点を問う声は案外少ない。
そして、原発推進派にはほとんどいない。しかし、田坂氏が主張するように、本当に原発を推進するならば、まず一番にしなければならないのは信頼回復のはずである。

これは何も原発事故に限ったことではない。不祥事を起こした会社は、まずお詫びし、原因を徹底調査し、再発防止策を制定するのは、ビジネスの常識だ。そうしないと倒産する。

もちろん、がんばっても信頼が回復できなければ倒産する。

トヨタのリコールなどを見ても一度問題として認識され、いわば炎上してしまったら、道理を説くよりも先に自分に少しでも非があるなら、まずそこを認めて、改善することに着手しないと事態は悪化する。たとえ、その要求があまり論理的でないとしても。

だから、どうして原発推進派として日々意見を表明する人たちは、「政府よ、もっとちゃんとしてくれ」と注文をつけないのだろう、とずっと不思議に思っていた。

でも、先のようなツイートやら、さっこんの夏の電力逼迫についてばかりが論点になる状況を見ていると、そうだよなあ、これで通ってしまうなら、抜本的なシステムの変更なんて手をつけたくないよなあ、と思います。

抜本的なシステムの変更というのは、大変です。
圧力は、必ずしも脅迫を意味していない。癒着や利権や利益誘導や保身でもない。
 もちろん、そういうものが圧力を生むことはあるのだろう。
 が、多くの場合、圧力は、悪意の無いところから生じる。しかも、圧力の種は、圧力をかけている本人たちがまったく意識していない動作の中に宿っている。そういう空気の中でわれわれは暮らしているのだ。

 原発が建っている町には、当然のことながら、原発で働く人々がたくさん住んでいる。彼らには家族がいる。友達もいる。同じ学校のクラスに、原発や関連の施設で働く親を持つ子が何人かいれば、クラスの雰囲気は、おのずと、原発に対して容認的にならざるを得ない。
 「臆病」や「ものほしげな心」がそうさせるのではない。われわれが生まれつき備えている「思いやり」や、「心遣い」や「惻隠の情」が、時に、ありのままの感情を口外することをさまたげるのだ。それどころか、圧力は、特定の出来事に対して、特定の感情を抱くという精神の自然な動きを抑圧する。

小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句 卓袱台返して菅笠ひとり旅より



もう何年もこの国は原発の建設に邁進してきたので、もう日本中にいろいろな形で根を張っている。
そのかかわりの中で生計を立てている無数の人がある。それは、今原発を再稼動できないと電力代が上がって困るという人や、計画停電があると経営に支障がきたすという経営者もその一員なのだろう。そんな無数の人たちに、ゴメンナサイしなければならない。ちゃんと説明しなければならない。

その他にも整理しなければならないことは山ほどある。それは、たしかに大変でしょう。

わかりきっていたことなのだけど、「電力が逼迫するから、ハイ、再稼動」で全てが済むなら、それで済ませたくもなりますでしょう。

短期的に、今年はやむをえないから今までの枠組みで再稼動を容認させてください。
というロジックは、今となってはありなのかもしれません。そもそも、原発が稼動していなくてもこの国には大量の放射性物質があり、危険にさらされているには違いないのですから。

でも、それは短期的にやむをえないという話。
まず、その前に、福島で悲劇を起こしてしまった、防げなかった枠組みを抜本的に変える、という前提がなかったら、それはつまり、「あの事故はなかったことにしよう」ということであって、それは通らないでしょう。
通してはいけないでしょう。
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by taiji_nakao | 2012-06-02 00:40 | 考え事
2012年 02月 04日
自己実現という言葉の違和感と価値観について。大切なのはおおらかさ
「個性」、「クリエイティブ」、「ユメ」、「自己実現」、「本当の自分」、「自分らしさ」といった言葉は、就職活動における「自己分析」などという言葉とともに、喧伝されている。

私などは見事に、この時代の空気を吸ってきたように思います。今の自分の仕事の仕方は、そんなカテゴリがあるなら、たぶん「ユメに向かってがんばって(あくせく)働いている人」ということになるでしょう。

が、しかし、これらの言葉に対する違和感もあって、それって何かな、ということを考えていたら、価値観に対する考え方がポイントのように思えてきました。

というわけで、価値観というテーマで考えてみたことです。

1.人は人です、が基本

みんなが嫌うものが好きでも それでもいいのよ
みんなが好きなものが好きでも それでもいいのよ
 -星野源 「日常」の歌詞

 
最近、星野源がいいなと思うのだけれど、特にこの歌詞が好き。後半の部分に時代性を感じます。
要は、人は人ってことですね。

2.自分にとっての「ダメ、ゼッタイ」は何か

覚せい剤をやめようというポスターのコピーで、これは頭に残っています。
その通り、覚せい剤は問答無用で「ダメ、ゼッタイ」です。
売人が儲かるだけで、他の関係者はほぼ100%不幸せになるので。

でも、タバコは? お酒は? パチンコは?となると、みんながみんな「ダメ、ゼッタイ」ではないです。
やめることで関係者が本当に幸せになるかはケースバイケースでしょう。

最近、糸井重里さんが禁煙に成功した秘訣として「おっぱい理論」を語っているのを知りました。
これが、おっぱい理論だ!

かいつまんで言えば、

目の前にスレンダーな女性がいたら、男だったら、「××してみたい」と思うわけです。思うわけですが、見ず知らずの彼女のおっぱいを触わることはない。「一度だけ」とかありえない。そんなことをすれば社会的信頼が地に落ちるから。禁煙も、「一回だけなら」とか思ったダメで、同じように一度でも手を出したらダメ、そう思ったらやめられたんだ。

というようなお話。さすがに、糸井さんの話はうまい。なるほどだ。

この話を読んで思ったことが2つ。

1)何にこの理論を応用するか

世の中にあふれている自己啓発本の多くは、あるいは安易に「みんな成功できるんだ」とか主張するセンセイは、いってみれば、この「おっぱい理論」をすべての事柄に当てはめれば、みんな成功者になれるんだ、と言っているようなものだ。

もちろん、そんなことはできない。正直に告白すれば、同じようなことをやろうとしたことがある。
やるべき目標のリストをつくる。10個とかもっとでてくるわけです。
睡眠時間を削って、いつもてきぱきして、英語の勉強をして、いろんなところに顔を出して・・・・(昨日までできなかったことだけど)今日からやろう。

って、できません! 人間、そんなある日突然変わりません。
そもそも、人間のキャパシティーには限界があるので、なんでも「これをするとは、チカンをするようなものだ」なんて思っていたところで、守れっこない。

だから、何に当てはめるのかが大事で、伝家の宝刀のようなものだろう。逆に言うと、喫煙者にとっての禁煙とは、それほどまでの一大事ということなのかもしれない。

自分にとって問答無用で「ダメ、ゼッタイ」とは何か、と考えることが自分が大切にしたいこと、価値観を知ることになると思う。

2)でも、破ってしまう人もいる

そんな人は、現実にいますね。「やろうと思えば」簡単ですね。電車にも女性はたくさんいますよね。
ふと魔が差す、なんていうみたいですね。怖いですね。
でも、人間ってそういうもんなんでしょう。

だから、ずっとまっとうに生きるって、それだけで偉いことだと思います。

破ってしまったときの潜在的な精神への影響を考えると、「おっぱい理論」は取り扱い注意なのかもしれないです。

3.対極の価値観を持つ人がいることをちゃんと理解して

テレビはほとんど見ないわけですが、いつだか、秋葉原で殺傷事件が起きた頃、こんな番組を見た。

事件現場に供えてあったお菓子を路上生活者の人が取って食べていた。レポーターは「何しているんですか!」と迫る、あわてて逃げ出すおじさん、揺れるカメラ。その画面に厳しい表情をしたタレント、評論家の顔が映る・・・


職が無く路上で生活する人が、道端に食べられるものを見つけたときにそれを食べるのは、冬になったら寒いのと同じくらい自明なことだと思うのだけれど、番組では糾弾していた。

そして、同じ場面を別の角度から報じる番組について、ちょっと意地悪な想像をした。

長年、一生懸命働いてきたが、不況のため、解雇された。家は売り払い、家族は出て行ってしまった。途方にくれて路上で数日間過ごしていた。なけなしのお金は、取られてしまい、ろくなものも食べることができなくなっていた。そうして歩いていたら、お供え物がおいしそうに置いてあった。

申し訳ないと思いながら、それを口にする。(画面では、涙目になったグラビアアイドルが映っている)久しぶりの食べ物に感動していたら、いきなり叫ぶ人がやってきた。「何しているんですか!」カメラも一緒だ。テレビらしい。必死で逃げた。
(その様子を糾弾する番組が報じられていることを知らせるナレーション。そして、「私たちは、経済発展とともに、大事なものを失ってしまったのかもしれません」)


中立などありえないわけです。
基本的には、「人は人」です。見ず知らずの路上で暮らす人、暮らさざるを得ない人に対して、私が言えることなどほとんど無い。

が、自分とかかわりが深く、自分の価値観にそぐわないシーンに出くわすことがある。
そんなときは自分の価値観を表明して、相手にアクション(改善など)を求めたいと思う。

でも、それはかなり重いことだと思った方がいい。

上の番組の例で言えば、どっちがどうとか、言えないでしょう。
後半は私の創作なので、本当は単なる酔っ払いの仕業かもしれませんが、それでも、それぞれの人生なんですから。見ず知らずの他人を(顔を隠しているとはいえ)何百万人の面前で糾弾する権利など無い。

一方だけの視点に立てば楽です。

当事者であるならば、ある程度それは仕方が無い。
当事者なのだから。でも、そうじゃない人は、安易にとやかく言えることではない。

どうしても言わなければならないなら、その反対側の痛み受け止めた上で、言うべきだ。

「あなたがいくらお腹が減っていたとしても、そのお供え物は食べてはならない」
それが、そう主張する人の「ダメ、ゼッタイ」であるなら、むしろ、そう言える環境であるほうが良い。

そして、私にとっては、そう主張する人もまた第三者であり、その人がそのような価値観を持つことを尊重します。

ただし、法規制をどうするか、とか言う話はまた別の話ですが。

4.大切なのはおおらかさ さめた視線を冷静に受け止める

【就活風刺】面白すぎるTwitterの”意識の高い”動物たち

というのが良くできていて、面白かった。
私が学生の頃にもよく遭遇した「意識の高い」学生の特徴を捉えている。
今回のテーマである、「自己実現」系の言葉を追いかけるタイプの学生で、
その特徴を見ていけば、私自身もそのカテゴリに入っていたのだろうとは思います。

この種の風刺がいいのは、ストレートにはいえないことも表現できるところです。
本人にもその方が伝わることもある。

注意すべきなのは、どんなことでも、こうやって風刺できてしまうことです。
これは、風刺に限ったことではなくて、人間のすることなど、なんとでも表現できるということだと思います。
「ものは言いよう」です。

例えば、スポーツのバスケットボールを「玉いれ」とか言って揶揄することもあるようです。実際には、リアルで聞いたことは無く、漫画スラムダンクの知識ですが・・・

確かに、ゴールにボールを入れて得点することを目指すわけなので、「玉いれ」には違いない。
フリースローのシーンしか見たことが無い人なら、「玉いれ」って言われて別に違和感を覚えないかもしれない。

ものすごく多様な社会になっていて、スポーツも文字通りごまんとある。存在すらほとんど知られていないスポーツも山ほどあるでしょう。

スポーツ間の競争も、それだけ激しい。だから例えばバスケが大好きで、もっと普及させたいと思っているなら、「玉いれ」とか何と言おうとも、そうやって関心を持ってもらえただけでもありがたいと思うべきなのだ。

それは自分の生き方や価値観にしても同じだと思う。
異なる視点から言われたら、まずはつまらないと感じるのが人間だと思う。揶揄されたと思うかもしれない。

でも、人の価値観について、他の人が興味が無いのは自然なこと。
だから、平然として、「そうだなあ。玉いれだよなあ。でも、玉いれって、めちゃくちゃ面白いんだぜ。」って言っていたい。

現代は「当たり前」がなくなってしまった。宗教にしても、家族制度などにしても。
だから、今まであったものを「やっぱりいいよね」「いや、違うと思う」といちいち考えないといけない。
あるいは、考えないといけないシーンに出くわす。

社会学では、再帰的、という言葉を使うらしい。
再帰的に評価する、などと。

これは、贅沢な悩みではある。何しろ、先人たちを縛り付けてもいたものから自由になったのだから。
一方で、とても面倒である。

そんな時代に特に必要なのは、おおらかさだと思う。

ここまで書いてきて、

「個性」、「クリエイティブ」、「ユメ」、「自己実現」、「本当の自分」、「自分らしさ」
といった一連のフレーズに対する違和感は、こういう言葉を好き好む人が、往々にして、
結構たくさんいる、彼らの主張に当てはまらないと思われる人に対するまなざしに、おおらかさがないことに由来しているかもしれないと思った。
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by taiji_nakao | 2012-02-04 13:40 | 考え事
2011年 08月 06日
匿名と実名とネット
大きなテーマですが、いろいろと考えるところがあるのでまとめてみます。

■ネットは人間社会の一部

「ネットは便所の落書きであって、全く信頼できない」という考え方を持った人はまだいるようです。「便書の落書き」とまではいわなくても、「ネットは信頼できない」と考えている人は多いはずです。

確かに、ネット上には価値の無い「便所の落書き」のようなコメントにあふれています。特に、自分に対する単なる誹謗中傷のコメントを目の当たりにした人は、「ネットなんて信頼できない」と思うかもしれません。

しかし、私は、このような「便所の落書き」がたくさんあることは、自然なことだと思っています。相田みつをじゃないけれど、「人間だから」です。

例えば、世界中の「ノートに書かれたもの」を集めたら、どうなるでしょうか。
そのうちのかなり部分が、「落書き」で占められているのではないかと思います。だからといって、「ノートに書かれたものは価値がない」と主張するのは無理があるというものでしょう。

「信頼性の低い情報があふれているが、信頼できる情報もある。ネットにしかない情報も多い。」というのが実際のところだと思います。実名とか匿名とかを議論する前の前提として、「ネットは人間社会の一部」ということの確認です。

■実名と匿名

実名と匿名というのは、文字通り考えれば「本名とそれ以外」ということなのですが、本質は2つの観点があると思います。

一つ目は、「追跡可能性」です。全く匿名であれば、基本的には書き手が過去にどんなことをコメントして来たかわかりません。追跡できないわけです。常に本名を名乗れば、同姓同名をのぞけば発言をすべて追跡できます。もちろん、プロフィールだとかもわかるわけです。

二つ目は、「他者との利害関係の開示」です。本名を名乗った時点で、かなりの利害関係を開示することになります。会社名を明記すれば、会社名を知らせていない人もより多くの利害関係を知ることになります。このことで発言に責任がでてきます。だからこそ、発言が重みを持って受け取られます。一方で、会社にとって不利なことは書きにくくなります。

2軸なので、厳密にはマトリックスになるのですが、だいたい「公開レベル」というのは以下のようなになっていそうです。

1 アクセスログ(IPアドレスなど)

2  その場ごとのハンドルネーム

3  サービスごとのハンドルネーム

4  統一したハンドルネーム

5  氏名

6  所属組織名の公開
 (複数の場合、その一つ〜すべて)

■日本で実名は定着するか論

Facebookが日本でも勢いが出てきました。Facebookの勉強会に行ったりすると、その機能の多様さに圧倒されます。使用人口の多さからくるメリットと合わせて、今後も伸びることは間違いないと思われます。

そこで、「日本で実名は定着するか?」というテーマが話題になります。日本以外のことをあまり知らないので間違っているかもしれませんが、「日本で実名が定着するか?」という問いは少しズレている気がしています。

私は、インターネットの可能性を信じていて、ネットを通じて新しい、人的ネットワークが生まれ、面白いことがもっと起きてくるはずと期待しています。まだまだインターネットは実社会との結びつきが弱く、模索段階だと思っています。実社会とインターネットの結びつきを深めていく過程では、実名同士がつながっていく、ということがひとつのテーマになるはずです。

しかし、実名を開示することには負の側面もあります。そして、実際のところ、実名は必要ないというシーンが多いように思います。必要がないのにリスクを負うのは馬鹿げているし、不自然です。そのあたりの感覚が、「日本で実名が定着するか論」に不足している気がします。


■実名は、実社会での人と人、人とコミュニティーのネットワーク化を加速化させる。

1年以上たちますが、サークルの後輩が中心になって林業女子会なるものを立ち上げました。
林業女子会
ツイッター上で、「林業コミュニティ」が形成されていて、そこで農業の「ノギャル」の林業版みたいなのがあったらいいね、というつぶやきからじゃあやろうよ、という流れになって、とりあえずまずは集まって、という風にとんとん拍子で進んでいったそうです。

林業というカテゴリだけでも十分数が少ないです。その中で女性というさらに少なくなります。そんな人たちが短期間につながり、広告をとってフリーペッパーを出したり、イベントをしたりして、他地域にも広がったりしています。そういう様子を見ていると、新しいネットワークの可能性を感じずに入られません。

そして、ツイッターでやり取りしている人がみんな匿名だったら、このように進んでいないように思います。

■ヨハネスブルグのメリーゴーランド

少し前に、ブログ「レジデント初期研修用資料」の「砂場としての2ちゃんねる」の表現にはっとさせられました。
以下はそのときの紹介ツイートです。

匿名掲示板に比べれば優しげな、実名ベースのソーシャルサービスは、一見すると優しいけれど、転ぶと大怪我をすることになる。()ヨハネスブルグのメリーゴーランドと、豊島園のホラーハウスと、どちらが「子供向け」でどちらが「恐ろしい」のかhttp://feedly.com/k/ogaLDE

やや誇張気味な気もしますが、Facebookが「ヨハネスブルグのメリーゴーランド」というのはかなり的を得ているんじゃないかと思います。

一言で言うと、「全員に全部見せるのが幸せなわけは無い」ということだと思います。

■実生活でも匿名はよくあることだ

私は、一人で飲み屋に行って他のお客さんやお店の人と話すことが好きです。
名前を名乗るかどうかはケースバイケースですが、いきなり名前から入るのはあまりありません。それはそうでしょう。その場の話題に参加するか、聞くとしても「よく来られるんですか?」とかでしょう。

いきなり、氏名、さらには会社名、勢いで出身大学を名乗られたら正直引きますし、そんな人ばっかりだったらもうそのお店にはいかないと思います。

もちろん、交流会という場なら話は別です。そもそも名刺交換しますから。

その他にも、IT系の勉強会なら、ウェブ系なら特にハンドルネームでの自己紹介になります(本名も一緒に言うことが多いですが)。聞いた話では、PTAなら子供コミュニティなら、まずは××くんのお父さん|お母さんとされるし、犬の散歩コミュニティなら○○ちゃんの飼い主と認識されます。

だから、「ネットの情報は全く信頼できない」という誤解と同じように「匿名性はネット特有のもの」というのも誤解だと思います。そして、同じ人間社会の一部である以上、それが自然だと思うのです。

まだ論点の積み残しはありますが、今回はここまでで。
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by taiji_nakao | 2011-08-06 12:40 | 考え事
2011年 06月 19日
原発について考えたことのまとめ
今、日本に住んでいたら原発のことを考えずにいられないのは宿命かもしれません。
私なりの、今考えていることのまとめです。
ご意見、歓迎です。

1 日本で安全に原子力を管理するのは無理と考えるよりないでしょう

今回の事故で日本の原発の運営者である電力会社のずさんさが随所で露見し、安全を検査すべき立場である国の機関は全く機能せず、さらに、それらの現状を世間に知らせる立場にあるマスコミも偏った報道をしている。どれもが、住民の安全を守ることを優先していないし、優先しようとする動機を持ちにくい構図にある、ということがはっきりしてしまった。

その構図をこれからは一新します、というなら、例えば震災直後にメルトダウンが起きているのではと言っている人たちをキワモノ扱いしたメディアは、しっかりをお詫びをするべきだが、それが事実だと発表されてなんら反省している様子はない。

例をあげるのもきりがないけれど、日経新聞には放射線のデータが毎日載っているが、今週になって地上1mでの測定値が載るようになった。今までは、2m〜80mだけだった。80mって、鳥のことを心配しているのだろうか。しかも、未だ値の高い福島市では1mで測定されていない。

客観的にいって、この状況で信頼しろというのに無理がある。

経産省が安全性を確認した、と発表しているけれど、信頼できない機関が安全を宣言したって何にもなりません。


2 脱原発と自然エネルギーは別の話では

2008年のデータですが、火力66.1%、原子力24.0%、水力7.1%、その他2.8%
ということです。
現時点で火力発電が最も、発電能力があるのでしょう。
 今年原発を止めたら代替エネルギーとして最も有効なのは火力発電のはずです。でも、不自然なくらいそのことが話題にならない。

東電が計画停電をせざるを得なくなったときも、地震の影響で火力発電でも動かせないところがあったようで、それも停電の大きな要因だったはずです。でも、全くと言っていいほどそのことに触れない。

そして、逆に2.8%しかない自然エネルギーで今年とか来年とかのエネルギーをまかなえるとは思えません。やろうとしたら、相当無理をしなければならないでしょう。

少なくとも数年の単位では火力に頼らざるをないでしょう。
その後、別のエネルギー源を開発し、代替していくことになるのでしょう。

でも大事なのは、ドイツやイタリアのように方針を先に決め、短期的、中長期的な方針を決めていくことです。

なんだか今の議論の多くは、
「自然エネルギーと原発」の二元論になっていて、時間スケールが考慮されていなくて、特に短期的な火力発電についての言及がないものが多いのがとても不自然です。


3 世界にとって原発が最も有力な発電方法であったとしても反対する

例えば、原発は数ある発電方法の中で最も死者の数が少ない、という主張があります。
私は最近までこの事実を知りませんでした。考えさせられる視点です。
また、ドイツとイタリアで脱原発が国民投票で決まったが、原子力の割合が大きいフランスから輸入している、ということをどう考えるのか、ということにも同じようなジレンマがあります。
 
ただ、そうした批判の一つの、皮肉で書いた記事
「全国の原発を即時停止せよ」
http://agora-web.jp/archives/1333634.html
を読んで、気づいたことがあります。

それは、人は、まず自分の暮らしのことを考える。次に、自分の大切な人たちの暮らしを考える。それが第一である、ということです。
その範囲をどんどん広げていこうということが、人類の大きなチャレンジなわけですが。

自分の外部のことはどうでもいい、などとは言ってはいけないと思います。しかし、自分や自分の大切な人の暮らしが脅かされている中で、その状況を生み出す元凶を無くして欲しいと主張する権利は誰しも持っていて、そしてそれは人間の根本的な権利ではないでしょうか。

上記のブログの、「いのち」というものは、無機質な数字に成り代わってしまっている気がします。

また、この種のロジックを展開する人は日本経済への影響を懸念しています。
その点は私にもわかります。

しかし、前述のロジックを適用すれば、経済が停滞すればもっと失業者が出て自殺者が増えるというけれど、経済活動は基本は競争ですから日本が強くなれば相対的に負ける国があるわけでしょう。その国の失業者が出るのはかまわないのですか。「日本経済が繁栄することが世界経済にとって有益か」というような反論も可能になるはずです。

日本の経済を憂う人がそんなことを言われたら、「そんなこと言ってる場合か」と考えるのではないでしょうか。

繰り返しますが、自分たちだけ良ければという姿勢が正しいわけではないです。
でも、生きていく上ではまず自分たちのことを考えなきゃならない。その上で、全体解を探っていくというのが手順でしょう。

 
4 原子力にイノベーションが起きても建設を検討すること自体に反対する

 仮に例えばビルゲイツが投資しているという新しい技術の開発がうまく言ったとして安全性のきわめて高い原子力発電所を建てることが可能になったとします。
 それでも、私は導入を検討すること自体に反対します。
 
 今回のような事故が起きる前からも原発の反対運動は一定の力を持って起きていましたが、今後はもっと勢いを増すに違いありません。その状況下で建設を強行するというのはどういうことになるのでしょうか。

 原発を建てると見舞金のようなものが毎年電力会社から億の単位で払われるそうです。
ですから、推進派の多くは経済的なメリットを受ける人、という構造になるでしょう。
もちろん、例外もあるでしょうが、「反対意見を持つ大勢の集団をお金を使って静かにする」という構図になるのは間違いないでしょう。そして、それが今まで以上に過激にならざるを得ない。

 しかし、そんなことになれば、その地域はぼろぼろになってしまうでしょう。目的がどうであれ、「紛糾するとわかっている提案を投げかけて、住民の支持の小さい勢力を支援する」というのは、スパイの破壊工作そのものだと思います。しかも、その資金は電気代であり税金であったりするのです。そんなことはやめてもらいたい。

6.19)一部改変
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by taiji_nakao | 2011-06-19 08:38 | 考え事
2010年 10月 02日
中国のことなど
船長を釈放後、なお中国政府が謝罪を要求しているという記事を見たとき、私の中でカチンときた。怒りが込み上げてきた。ふざけるな、と。

考えてみると、不思議なものだ。@tabbata氏のツイートにもあったが、私にとっても尖閣諸島との利害関係は非常に薄い。冷たい言い方になるが、尖閣諸島付近の漁業関係者につながりがあるわけでもないし、地下資源があったとして、私はどれだけその恩恵に預かれるのかは不鮮明だ。
税収がでてくるとか、あとは日本のエネルギー戦略上、安定さが増すというあたりだろうか。

そういう利害でなくて、日本のメンツに関して、怒りがこみ上げてきたのだ。

以前、ロボット研究者の石黒氏の講演を聞いた。ヒューマロイド、つまり人間の姿形をしたロボットの研究をしていて、実際に自分そっくりの外見をしたロボットをつくっている、という。そのロボットは、人間が遠隔操作できる。オペレーターはロボットの目線で見、話すことができる。興味深いのは、このロボットを操作していると、遠隔地のロボットそのものと同一化していく感覚が生まれる、ということである。実際に自分が触られている訳でもないが、ロボットが無闇に触られたりすると、自然に鬱陶しいと感じるという。話がそれるが、女性の方がロボットに同一化しやすいという。それは、普段からお化粧をしていることが影響しているだろう、という分析は興味深かった。

閑話休題。

多分、あの怒りの正体も同じようなものだったと思われる。
ロボットのカメラなどのセンサー:インターフェースにあたるのがメディア、というわけだ。

最初、テレビが家にない私は、YouTubeでニュースをみてみた。
どこかの教授であるコメンテーターが、中国の対応を「非常識」と声高に指摘していた。聞いている限り、コメンテーターの言っていること、日本は司法が独立していて政府は関与できないこと、一連の中国の処置は尖閣諸島とは無関係ことでなぜこのような対応をするのか理解できない、ということは筋が通っており、最もだと思った。
そして、中国としては日本で判決が出るという事実をなんとしても阻止したいんだろう、という指摘も妥当と思われた。
中国としても、領土と主張している以上当然だろう。

その後、いくつかの記事をネットで検索してみた。関連記事/情報が少なかった記憶がある。

で、中国は、日本の司法が判決を出すという前例は許せないよ、というメッセージを必死に送っているのだろう、と理解することにした。ここで、結論を出す気なのか、と。日本政府にそこまでの覚悟はないようだし、弱腰だとか言われても、ここは釈放するしかないのかなあ、と考えていた。そんな風にして日本はここまで来た。
いろいろ批判されているけれど、戦争をしていない結果として、日本を恨んでいる人が少ない、という事実は一人の人間として、大事だと思う。戦争をすれば、人を殺す。大切な人が殺されれば、恨む。どんな正義があっても、この事実は揺らぎようがない。

で、釈放したら、「謝罪せよ!」と。それをみたとき、カチンときたのでした。

この怒りは、おそらく幾度となく歴史を動かす原動力になったんだろうな、と予測される。

そして、同じ種類の感情を中国人の多くが持っているのだろう。
(私の場合、自分の見立てが甘い人間なんだなーという思いも背景にはあったと思います。)

気になるのは、ここに来て急に自衛隊の増員、それも1万という単位の増員という話。
世界的な不況、通貨政策等で協調できない各国、隣国との摩擦、国の対応が弱腰という批判、軍事予算の増加。
「いつか来た道」を思い返される。ほんとにそれだけは勘弁してほしい、と思う。

ところで、http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/09/post-0f3e.htmlの記事などを読むと中国の現政府は、強硬化する軍などの勢力を沈めるため今回のような処置をとらざるを得なかったということだ。

それが正しいとすると、「いつか来た道」を辿る可能性が高いのは日本でなく中国ということになる。
なんとかして避けてほしいと願う。冷静な気持ちで。
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by taiji_nakao | 2010-10-02 16:03 | 考え事
2010年 01月 09日
ナレッジワーカーが活用するウェブアプリは、B2Cであっても、企業にとっても重要だからB2B的である
ウェブアプリと情報リテラシー

ここ3ヶ月くらいFirefoxのアドオンのfeedlyを使っているが、これがすばらしい。
基本は、RSSリーダーである。Googleリーダーに登録されたのを引っ張ってきている。
もちろん、feedlyの画面から登録できる。
そのGUI、使い勝手が半端じゃない。ほとんどの場合、登録元のサイトよりfeedlyで読んだ方がはるかに読みやすい。メールをチェックしている感覚に近く、使い始めてインターネットの体験が変わった。というのは言い過ぎでもない。

feedly twitterとも連動している。

Googleリーダーを使い始めたのは、1年半前くらいでしかない。
そういうものがあるのは知っていたが、「情報収集に熱心な人」が使っているものと認識していた。
だから、ブログは「お気に入り」に追加された20くらいのサイトを「人間クロール」していた。
蛇足だけれど、ブログの更新頻度を上げると訪問者数が増えていく最初の原因は、この「人間クローラー」の巡回頻度が上がるからだと思う。つまり、「この人は最近よく更新しているな」と思って、頻繁にチェックするようになるということ。
人間クロールしていて問題なのは、サイトにいってみて更新していないと無駄足になってしまうことである。

RSSリーダーだと、更新された情報しかみなくなるから、この点が効率化される。
そして、feedlyがよいのは、1ページにたくさんのサイトの情報を一度に載せることにあり、便利機能として1ページまるごと既読にするとかできる。
読んだ記事は当然既読になるし、個々の記事にも×ボタンがついていてすぐに既読にできるから、一度目にしたものは必ず既読にするようにすると、ページを開くたびに今まで目にしたことにない情報だけが表示されるようになる。同じ情報をみるという無駄がなくなるから、情報のチェックが格段に効率化する。
今、だいたい200くらいのブログを登録している。
20サイトくらいのお気に入りを人間クロールしていた時とは、比べ物にならない情報に接するようになった。

などというものの、私はせいぜいRSSリーダーくらいしか活用していない。
twitterもぜんぜん使ってないし。
RSSリーダーにしたって、登録サイト数が1000とか2000という人もいるようだ。

とにかく、リテラシーによって情報収集にものすごい差がついてしまう時代になっている。
以前からそうだったんだろうけど、インターネットがそれを加速している。
その技術の進歩のスピードが早いウェブアプリが、どんどん便利になっている。

アプリの進化もさることながら、発信元も進化している。
最近、すごいと思うブログが、publickey
情報の質と新しさがすばらしい。IT関係の最新の情報を発信しているが、ほぼ毎日更新で、一日に数回更新することもある。スピードという意味では、たとえばベンダーのイベントがあったら、その次の日にはその情報がアップされる。
田舎にいても、最新の技術動向を確認できる時代になったということの具体的事例。

ナレッジワーカーと企業

先日、野中郁次郎の「知識創造の方法論」を読んでいたらナレッジワーカーのわかりやすい説明があった。
以下、少し長いですが引用。

かつては工場(ハード、製品)が経済的価値を生んでおり、ホワイトカラーやサラリーマンは生産業務以外の「間接部門」でした。しかし、現在、価値を生み出しているのは必ずしも工場設備などのハードでなくなり、製品を媒介にした問題解決(ソリューション)、サービス、情報提供、あるいはそれらを組み込んだ新たな生産プロセスに移行しています。これは業種・業態を問いません。つまり、人々や組織が作り出す知識、そしてそれらの知識資産が価値の源泉となっているのです。そこではもはや「間接部門」としてのホワイトカラーでなく、価値を生み出す「直接部門」としてのナレッジワーカーが主役となります。ナレッジワーカーは一人一人が個性的に働く。その彼らがネットワークで知を結集する。


知識は基本的にナレッジワーカー個々がつくりだす。だから、企業価値は個々人に強く依存していることになる。

ドラッガーは、このような価値の源泉たるナレッジワーカーを集める・引き止める魅力を持つことが企業にとってもっとも重要だ。とどこかの本で書いていた。

ウェブアプリのB2BとB2C

そういう文脈でみると、ナレッジワーカーが活用するウェブアプリは、B2Cであっても、企業にとっても重要だからB2B的である、といえるかもしれない。
あくまでも、使っているのは個人という視点ならB2C。
でも、それを活用して生み出される価値は企業にとっての価値の源泉という視点ならB2B的。

で、基本はB2Cとして今と同じように提供されるが、今後は、企業が社員の情報リテラシーの底上げとして、B2Cとして提供されているアプリを活用する、という方向に行くのではないだろうか。

そのあたりにシステムインテグレーションの需要があると思う。

たとえば、feedlyを活用する。
会社で使うPCにはあらかじめFirefoxをインストールし、Googleアカウントも取得し、feedlyをインストールする。
業界情報として有用な主要サイトはあらかじめ登録しておく。
さらに、favoriteにすると優先的にページ上部に表示されるようになるから、部門ごとに重要なサイトが違う場合は、部門ごとに別々のサイトのリストをfavoriteにしておくとよいかもしれない。
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by taiji_nakao | 2010-01-09 10:55 | 考え事