カテゴリ:考え事( 67 )
2009年 11月 29日
FREE <無料>からお金を生み出す新戦略
商品を無料にする、というビジネスには胡散臭さがある。
そりゃそうで、だって、そのお金をどこで稼いでるんだ、とおもうから。

だが、無料=胡散臭いというわけではない。
なぜなら、特にデジタルでは商品を生産・配布するコストが劇的に低下したここと、それ以外で稼ぐ方法があるからだ、と本書は説明する。

本書を読んで思ったのは、フリーというビジネスが成立する背景にはいろいろな要素が絡んでいるということ。
以下、メモ。

別のところで稼ぐのは今でもあるモデル
お金が払われる、ということは今でも広く行われている。
喫茶店やバーでの飲み物代など。

配布コストが0に近づく
現物を配布するにはコストがかかるので、流通が大きなお金を動かしてきた現実があって、そこがいらなくなっていく、というのが大きい。

フリーミアム
フリーとミレニアムの合成語。
今までは、5%の無料版(ないしプレゼント)と95%の有料版(通常製品)で運営していたが、
95%の無料版利用者と5%の有料版利用者で運営する。

潤沢さ
今までは、商売は基本的に「希少さ」を前提に設計されてきたが、今は「潤沢さ」が前提になる。
という主張は、なるほど、と思わせる。
たとえば、グーグルのデータセンター。膨大なサーバ群を持つ巨大なデータセンターを運営するから、そのおかげでその費用が非常に安くなる。それが、多くのサービスを無料で展開できる力となる。

寡占
無料の世界では、一位が圧倒的になりやすい。
潤沢さの源泉はスケールメリットによるコスト削減にある。
フリーミアムを成立させるためには、分母が十分に大きく5%の層で十分稼げる必要がある。

95%のユーザの大部分は、それまでなら別の有料サービスの利用者だった、ともいえる。

プロシューマ
これは、アルビン・トフラーの「第三の波」で消費者=生産者という概念。
本書で言ってるわけではないし、トフラーの直接言及している内容と直接の方向は違うが、思ったこと。

本書のレコードアルバムでの無料配布の例をちょっと長いけれど、抜粋。

自慢のアルバムだったのに、レコード会社がマーケティングに金をかけられなかったのでさっぱり売れなかった。そこで、レコード会社を説得してアルバムを無料配信できるようにした。ただ、そこである仕掛けをしたんだ。アルバムをダウンロードするには氏名、電子メールアドレス、そして郵便番号を入力してもらうことにして、さらに、このアルバムに興味を持ちそうな5人の友人のメールアドレス(これは保存しない)も入力してもらった。そして、その友人たちにダウンロードをすすめるメールを出した。3ヶ月間で8万人以上に無料で提供した。それから郵便番号で電子メールの一覧をフィルタリングして、僕のファンがどこに住んでいるか調べ、ライブ情報を電子メールで送ったら、ライブハウスに来てもらえるようになった。今は、ライブチケットを売り、たくさんのグッズを打っているよ。そしてぼくは音楽で食べていけるようになったんだ。


この箇所を読んで、この人は無料版をダウンロードした人を「パートナー」として扱っている、と思った。
それは、ビジネスでの態度に近いと思う。
ビジネスに限らないけど、世の中は、ギブアンドテイクの世界。
それで、生産者が顧客に協力を仰ぎたいとき、まず何ができるだろうと考えると無料で配布という形は最もあり得る形と思われる。
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by taiji_nakao | 2009-11-29 16:13 | 考え事
2009年 09月 26日
お金持ちについて
お金っていうのは、基本的に使ってもらった方がよい。
そうしないと、経済が回らない。タンスに寝かしておくものじゃないよって。

だけど、「お金持ち」が「贅沢な」使い方をしているのを見ると、嫉妬するのだ。
あるいは、軽蔑する。

例えば、この間、京阪の深草から丸太町が最寄りに家が有るという人が、タクシーで帰っていた。
まあ、荷物も有ったし、腕を骨折していたというのもあるんだろうけど、
「丸太町までは電車に乗れよ」「お金持ちなんだな、」
とか思ってしまう自分がいる。

いいじゃないかと。
量に対する浪費は、例えば、とても食べきれないほど買って、ほとんど捨てるとかはまあ、反発しても自然かと思うのだけど。

利便性についていうなら、あるいは趣味とか、いいじゃないかと。
なんでそう思えないんだろう。

もっともっと使ってもらいたいのだ。
少しでも便利なもの、よいもの・サービスには惜しまずにお金を使って頂きたい。
使って、良いサービスならよいと、悪かったら、何これ?とか言って。
それで、いい仕事ができるようになる。

そう思えないのは、質素が美徳の精神なのかな。
それを、定着した階級にしてしまって、あの人たちとは違う、とかではなくて。

阿波踊りの会場で踊りをみるステージ内の席は有料で、なんで?
とか最初思ったけど、阿波踊りはそこに入らなくても十分堪能できて、
でも、ちゃんとしっかりと押さえておきたい人はお金を払って(まあ、これはけっこうたくさん入ってましたけど)観ればいいわけで。運営にしろなんにしろ必要なお金を、稼ぐことができる。

お金を使うってことについて、とてもネガティブになっていますね。
実際にお金がなくなっている状況下では仕方がないのだけれど、それ以上の「安さへの執着」があるし、それも仕方ないとしても、「安さへの執着を持たない人への嫉妬」はなくせないのかな。
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by taiji_nakao | 2009-09-26 13:02 | 考え事
2009年 08月 31日
(アカウンタビリティの)問題は公務員じゃなくて議会にあるのでは(追記)
昨日、東京から来た友人と話して気づいたことのメモ

公務員はムダが多いと批判されるけど、ほとんどの公務員の人は一生懸命働いているだけ。
問題なのは、予算を通した議会であって、本来はそっちが批判されてしかるべきだ。

なるほど。
会社でいえば、結果責任を経営者が負うのと同じでは。
たとえば、極端な話「ダムを100個つくる」という目標が設定されていたら、「70個」つくるより「90個」作る努力を現場はすべきだ。当然の話で、それをやって現場ばかり非難されるのは道理に合わない。

そういえば、四国で公務員で働いてる先輩に、一般論として「税金を使う根拠を100%合理的に説明することは無理」とかるくいったら、とても怒られた。
「ちょっとでもすぐ批判される。だから小さな工事一つでも、批判されたときにはちゃんと説明できるように準備している」それは切実に話していた。

本来は、そういう説明責任より、より効果的かつ効率的な運営に力を注ぐ方が健全なはずだ。

その根は、議会に政策立案能力がなく、行政が政策立案と執行の両方を兼ねているなんだけど、これはじゃあ、お金はどうするのって言う話。

一つの現実として、少なくとも地方議会は(なにもしていない)議員が多すぎると、ある若手議員は入っているのを聞いたことがある。
200人なんていらないから、4人にして、それぞれに優秀なスタッフを雇うお金を出すべきだ、と。

4人がいいかはわからないが、議員は多すぎるし、
なにより、「公務員批判」ばかりで、より本質的であるはずの「地方議員批判」がでてこないのはおかしな話だ。

(9月3日 追記)
あまりに雑な議論だったので。
話題を広げている割に、知識もないのに

この投稿で言いたかったのは、

アカウンタビリティ(説明責任)が強調される余り、行政の現場に理不尽な負担がかかっているのではないか
ということと、
予算を承認した議会にも説明責任があるはずなのに、そこは余り問われていない

ということです。

(9月4日 追記)
さらに、メディアは、何か起きるとその一面だけ取り上げてヒハンするのが大好きなのだけど、物事にはいろんな側面があって、すぱっと「こうすれば良い」など言うものはないのであって。

正解がないから、議論して、これでいきましょう、となるのであり、
そうやって議論して予算は決まったはずであって、その議論の過程こそが本来、説明責任を果たすべきなんじゃなかろうかと。

かなり建前論のような気がしますけれど、
現場は決められてことをやってるのに、その結果だけを見て、おめらはダメだダメだと責める経営って最悪なんじゃないかと。
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by taiji_nakao | 2009-08-31 23:30 | 考え事
2009年 06月 27日
ブロガー規制について
ブロガー規制の記事を紹介した、
ブロガーの責任を読んで、コメントに書いて、もう一度コメントしようと思ったところで、長くなったので、以下そこに書こうと思った内容。ちょっと、話がわきに行ったりしてますが。

>>>>>>>
日本は特殊らしい。

SNSで匿名なのは信じられないみたいです、海の向こうでは。

でも、インターネットで実はルーティングのログが残ってるから、実は現実よりすべての言動に記録があるんだ、ってどこかで読んだ。

自己満足な氏ね的発言が大半な現状の打開策には、実名しかないのかな、という議論はよく聞く。
実名以外にもないのかな。とも思ったりも。

意図して騙そうとすることは、これは違う次元かと。一言でいえば、騙されるのが悪い。

それは、マクドナルドが少し前にサクラをやったとき、個人的にはどうでもよいと思ったのと、似てる。

オレオレ詐欺のような、明確な詐欺の場合、これはルールとかあってもなくてもやるので、ここの議論とは少し違うのでおいておいて。。

マクドナルドのサクラのようなうそについて、あるいは特定の団体の人が偏った情報のみを挙げるときなどちょっと、微妙なケースかと。

「騙された」と後から言う人は、結局、最後の判断を自分でしていないか、有力な根拠としてその人を認めてしまっている。

前者について。影響力のある人に、多くの人が頼ってくるのだけれど、人の判断をこちらでしてしまうのは、やってはいけないことだと思う。その人の人生の面倒を見れるなら別。家族ならありうるかもしれないくらいの話。そうでないなら、人が判断することをこちらで決めてはならない。それは「人の心を弄ぶ」という。

後者について。偏った情報しか流していない人を「有力な根拠」として妄信してしまうのは、結局そう考える本人が甘いということだ。

ホリエモンがブログを最近ブログを熱心に書いていて、ちょくちょく読んでいる。堀江氏は、裁判に至る批判に対して「徹底抗戦」している。本人の考え方に若干変更があったように思えるのだけれど、それはともかく、私はその姿勢に共感する。ただ、堀江氏が「事実と異なる」として批判したブログへ行くと、ホリエモンの書いた意見まんまをそのコメントに書いている人がたくさんいて、なんだか悲しくなる。

読む人にとって、コメントを書いた人がホリエモンのブログを読んだという以外何の価値もないコメントだ。だが、そこが問題ではないのだ。コメントを書いた人は、自分は「真実を知っている」と思って、その気分のまま一緒にヒハンして、それが気持ちいいのだ。コメントの大半がこうなってしまっていることが、日本のブログ・SNSでの最大の課題だと思う。

ただ、ここでの論点は「書き手が意図的な情報を流すことを規制すべきか」だ。
そして、私はそう思わない。

悲しくなってくるが、一部のソースを妄信してしまう人がたくさんいることは日本の側面なんだと思う。別に日本に限らないと思うけど。インターネットをよく観る人は、マスメディアに批判的になるだが、よくよく話を聞くと一部のソースをそのまま信じ込んでたりする、という話はよく聞くし、私もそういう人を何人か知っているので想像できる。

だが、そういう人を守るために、書き手を規制する、というのはちょっと違うと思う。それより、どうしたらもっと視野を広く持てるような機会を作れるか、という話だと思う。

話がずれてきていて、たぶん、今話題になっているのは、口コミマーケティングとかの話。
そして、「信頼ある口コミマーケティング」をしている組織が、そうでなくて無尽蔵に何でもあり的な現状を何とかしようということなんだろうと思う。

私が思うことは、その動機はあくまで、「信頼ある口コミマーケティング」をやってるところが「自分のところは信頼ある(つまり本音を書いてもらってます)」と証明したいということだ。それは自然な動機だし、もちろん共感できる。自分のサービスが、健全なサイト(SNS)であることを証明したいと思うのと同じ。

だが、「人を騙すことを規制する」というなら話は別だ。
そもそも騙すという意味が曖昧だし、人格や倫理の話になってくる。基本的に倫理を規制によって正そうとすることは無理があるし、それでは幸せになれないと思う。

世の中には、機会があれば騙そうとする悪い人はいるし、簡単に人を信じてしまう人がいる。でも、そうやって回っている。もちろん、騙すレベルによっては法によって裁かれなければならないけど、世の中とはそういうものだというとこを出発点にしないとつらいよなあ。と思うわけです。

それを規制によって変えようとしても、無理だと思うから。

それに、すでに雑誌で起きてるとだよなあ、と思います。記事だと思ってたら広告だったとか。
でも、そういう雑誌って、読まれなくなる。だから、最終的には読んでもらいたいなら、ちゃんとした記事を書かなきゃならなくなるという話で。それを規制するとか、ちょっと考えにくい。ブログも同じだと思う。

まあ、雑誌の場合というか、この無料無料の社会で、ライターなどの職業クリエーターがどうやってお金もらうの、という話があるけど、それはまた別の話。
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by taiji_nakao | 2009-06-27 10:45 | 考え事
2009年 05月 19日
新型インフルエンザ
すごく騒がれているらしい

らしいというのは家にはテレビがないからよくわらない。
でも、今朝の電車のマスク率は昨日よりぐんと高まっていたのはまちがいない。
あれは、噂話とか個々人が気になって変わる変化ではない。

でもよくわからない。
主に情報源は日経新聞とヤフートップのニュースといくつかのブログと、ちょっと検索した程度だけど。
なぜ、今こんなに騒がれなければならないのか。

インフルエンザの変異の確率が今年になって増えるとは考えられない。
なぜ、去年とか一昨年はなんもなかったのに、今年なの?
いえ、SARSはありましたけど。
でも、こんなんではなかった。

日経新聞なんて、毎日「世界の患者数」が出ている。

長期的に考えれば、人間が増えすぎたことが原因の1つなのは間違いないと思う。
それは思想的な意味じゃなくて、草食動物が増えればそれを食べる肉食動物が増えるのと同じことで。
人間という似た「環境」が膨大になれば、その環境で特に強く増殖する生命(?)が大繁殖する可能性にさらされるのは自然の摂理だと思う。

でも、もちろん、人口増加はここ数年の話じゃあない。

もう1つは、ペニシリンなど強力な抗生物質に耐えうるウィルスが現れ始めているということだ。
こないだ読んだ「生物と無生物のあいだ」(これはよい本でした)にも書いてあったし、いろいろなところで聞きます。薬が効かないインフルエンザが流行したら、それは恐ろしい。

だが、今回のはどうも効くらしい。

とすると、専門家はこれから流行しそうなウィルスを予測できて、その予測されたウィルスが今までにないほど感染力のある、恐ろしいもの、ということなのだろうか。

こないだ、セキュリティの勉強会で、ウィルスはウィルスでもコンピュータウィルスの話で、今世界のウィルスのほとんどは-まだ世に出ていないのも含めて、巨大なセキュリティ会社(S社とか)が持っているらしい。
世に新しいウィルスがでてから、そのワクチンがでる速度があまりにも早いので、そうでないと説明できないという。

「リアル」のほうのウィルスでも、同じような話はアメリカ映画とかにありそうな話だ。
だから、いよいよ今度はやばいのが(実物?をすでに持っている??)来そうだ、とか予測しているのだろうか。

スペイン風邪以来の、とかウィルスが特定される前から騒いでいたことに根拠があるなら、そういうことでないと説明は付かない。

でも、鳥インフルエンザが警戒されていたところに、豚は意外だったとかいうところからすると、そうでもないらしい。

結局よくわからないけれど、あれこれ考えて、やはり、「今年だけが特別」ではない
というのは確かな気がする。

今回のウィルスが想定したウィルスと違っているなら、現在は今回の新型ウィルスが現れる前と同じ、すなわちいつ(今回とは別の)新型ウィルスが新たに現れ流行してもおかしくないという状況なはずだ。

そうすると、次のどちらかの結論しかない気がする。

1.実は今年は特別でないし、今回のウィルスもそう騒ぐほどでもない
だといいですね。

2.今後、ウィルスが現れるごとに同じ状況に晒される
でないといいのですが。

で、どっちにしても、今の対応は合理的でない気がする。
初めてだから仕方ないのかもしれないけど、もう、「対策をしないでいて、何かあって責任取らされるのだけはごめん」がどんどん際限なく連鎖しているように思う。

2.だったら、どうするの?
医療現場はただでさえ疲弊していると聞く。
こんなことを繰り返されたら、現場はたまらないと思う。


でもやっぱりわからないこと。
新型インフルエンザが今まで騒がれず、今年になって騒がれている理由は何なのでしょうか??
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by taiji_nakao | 2009-05-19 21:30 | 考え事
2009年 05月 01日
新型インフルエンザ・リスクについて
新型インフルエンザがはやるかもしれないという。

警戒レベルが上がったらしい。
インフルエンザが大流行したら大変だ。

かつてスペインで流行ったみたいなことになると何万人も死ぬかもしれないんだと。
よくわからないけど、そういう確率が1割弱くらいあるかもしれない、というところなのでないのだろうか。数字はまったく適当だけど、言えることは、起きるかもしれないリスクは絶対防ごう、という、反応だ。
当然な話だ。そのような危機がありあえて、対策が考えられる以上、その立場にいる人たちは対策を打たねばと思う。

だが、こういうリスクの話をするときに良く出てくるのは、車で、インフルエンザより交通事故の方がよっぽど死に易い。また、素人考えだが、そのスペインで流行った時代より医学も政府の対応も衛生面も格段に良くなっているのだから、万という単位で死ぬ確率といのはより低くなるはず。

交通事故とは偶然によるものだから仕方がないとされている。
逆に、大変そうだといわれることに対しては、ナンとしても防ぎたい、と思う。
これは当たり前の話で、昔から村にいろいろなうわさ話がやってくるとみんな動揺して、お払いしたりなんだかんだしていたんだとおもう。その、コワイ話を聞くと「怖いねー」と話して、恐れるのは、それは今でもかわらない。

変わったのは、
まず、何が怖いかを発信する側は、かなり恣意的になりうるという点。
それから、お金さえあればたいていのことは出来てしまうという点。

たぶん、いろんなことがわかってしまうから、そしてお金さえあればなんでも出来てしまう現代においては、ほんとはリスクに対する費用対効果を考えなきゃならない。
もしかしたら、人間に害がある可能性が否定できない、というレベルのBSE対策とかみてると。

でもそれは、突き詰めると「助けることも出来たのに助けられなかった」否、助けなかったという現実に行き当たり、誰もその当事者になりたくないし、そして、うらまれたくない。あるいは訴えられるかも。

でも、その時は、しょうがないよな。
運が悪かった。

っていう余裕もひつようなんじゃなだろうか。

自分はできれば、そんな当事者にはなりたくないけど。
でも、そうやって、リスクを全部全部なくしていこうとしたら、かんじがらめになって何も出来なくなってしまうよ。

そう、「責任論」ですね。

「監督責任」

生活まで監督されるのはごめんですよ。
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by taiji_nakao | 2009-05-01 21:28 | 考え事
2009年 04月 29日
価値観・理念・ミッション・ビジョン
少し前に、自分の関わっている団体でパンフレットを作るとかで価値観とかミッションとかいう言葉についてずいぶん考えた。このテーマはずっと興味があって、それでこの機会に自分なりに整理してみる。
難しいテーマなので、少しずつ改良していきたいと思いつつ。


0.理念・ミッション・ビジョン
 今書きながらも、理念とかビジョンとかミッションってわかりにくいなと思う。

「理念」:このメモでは、理念という言葉は使わず、ビジョン・ミッションを考える上では、「理念型」という考え方が重要という使い方にとどめる。

「理念型」:理念型とは、社会学で生まれた言葉。「~であるべき」ということである。
この「~であるべき」という主張は、帰納的に個々の事象から導かれたわけでも、演繹的に公理から導かれたわけでもない。個人がそう発想している、ということである。

「価値観」:ミッションやビジョンは、現状の問題を解決するために記述されている。問題とは、現実をある価値観に基づいて判断したときに生まれる。価値観がすべての出発点となる。価値観は理念型である。

「ミッション」:使命。組織の使命。

「ビジョン」:実現したいと思っている理想の状態の記述。少し曖昧であるが、「特定の瞬間の記述である」が基本と思うが、ある程度動的な状態(システム)の場合もあるかもしれない。どのようにしてそこに到達するか、というプロセスも含まれる印象もある。理想の度合いやどれくらい未来の話なのかはケースバイケース。
 
1.組織の存在理由の根本は「理念型」である必要がある
 組織がその活動をなぜするの?ということを突き詰めていくと、「~であるべき」という主張に行きつかざるを得ない。その主張から現在の活動をしている理由を導くことができる。
 
2.考える順番
 あくまで一つの方法と思うが、組織の中核となる、ミッション・ビジョンは次の手順で考えるよいと思う。
 
「中核メンバーの価値観の明確化」(ミッションにある背景の部分)
→「ミッションの明確化」
→「ビジョンの明確化」
→戦略へ

3.価値観が腹からでたものであることが重要

いろんな市民活動をしている人とこの種の相談・議論をしていて、その人が迷っているときは、世間で言われていることをそのまま自分たちの「価値観」としていることがある。

 例えば、「温暖化は止めるべきである」とがスタートの主張になっていて、「なぜ温暖化はダメなの?」「温暖化に伴って起きるどんなことにあなたは問題を感じているの?」「どうしてそこを問題だと思うの?」「その背景は?」「どうなったらいいと思うの?」ということが掘り下げられていないので、「価値観」にまでたどり着いていない。
 たぶん教育の影響だろうけれども、そもそも正しいとかじゃなくて「私はこう思う」と言い切ってしまうこと自体を躊躇している人も多い気がする。
 
すべての出発点となる価値観が頭の中にある知識でなく、腹からでていれば、どんなときでも自分たちの存在理由を迷うことなく言い切れることができる。

4.ミッションを考える上では範囲が重要
 組織はミッションを持つから存在する。
 
 ここでは、範囲が重要となる。現実的な要請から的確な範囲を与える必要がある。
 範囲が的確であるほど、経営(選択と集中)がやりやすくなる。
 
 ステークホルダーとの関係もある。業界のリーダーたちが関わるなら、その時点で業界を牽引してほしいという要請は強いだろうし、過疎化が進んだ村で若者が集まる組織なら、また違った立ち位置となる。
 
 もちろん、スタート時点の組織が小さいからと言ってミッションが小さくある必要はない。
 
 一人で運営しているとしても、その組織にミッションを与える、と考えた方がすっきりする。
 
5.ビジョン・戦略
 ミッションが明確になれば、後はどう実現するかという話になる。
 
 何が理想かという話は、ケースバイケースでミッションとビジョンに含まれ、
 どう実現するかという話は、ケースバイケースでビジョンと戦略で語られると思う。
 
 戦略にも長期・中期・短期とある。
 ビジョンとは、超長期な戦略とも言えるかもしれない。 
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by taiji_nakao | 2009-04-29 13:28 | 考え事
2009年 01月 06日
お正月休みに読んだ・考えたこと
明けましておめでとうございます。
今年も、よろしくお願い致します。

お正月休み中に、考えたことのメモ。

帰省した時に読んだ、池内恵『イスラーム世界の論じ方』は興味深かった。
イスラム教の世界においては、コーランの教えは絶対正しいのであり、その教えにそむく行為は許されず、というより許してはならないと考えている。これは、西欧の信仰の自由の考え方とは相反する。しかしながら、そのようにイスラム圏の人々が考えているのは事実である以上、それを前提にした現実的対処が必要である。
と全体を通して主張している。

ところで、弟がイスラム圏の考古学を勉強しているので、聞いてみたら、研究者としては、あまり評判はよくないらしい。

その弟から聞いたことで、興味深かったのは、国家についての話。

国家が戦争を引き起こす、という風に捉えがちだが、実際のところ、ほとんど戦争というものは、「戦争機械」と呼ばれる、国家とは無関係のひとつのシステムというか法則にしたがっているものだという。
ちゃんと、理解したわけではないが、例えば、多くの「戦争(戦闘)」は、暴力団とかマフィアの間で起きている。自爆テロなどもほとんどそうした、法則・力学にしたがっていると見るべきだということらしい。
特に、古代の戦闘というと、国同士の戦いをイメージするが、必ずしもそうでないという。
「戦争機械」という概念はもう少し、知りたいと思う。

もうひとつは、国家というものは、そもそも多くの人にとって意味のある決定をする組織でなかったし、今もそうである、という考え方。多くの人にとって重要な、生活に直結する決定は、もっと小さな組織の中で決定されてきたし、今もそうである。
そうかもしれない、と思った。そうであれば、多くの人が政治に興味がないのは、必然なのかもしれない。

こうした事実と、では、どうするべきか、という話とは、また違うのだろうけれども。

帰りに読んだ、「クラウド化する世界」
ウェブサービスの今後についてを、電気が普及していく過程になぞらえる説明と、後半の、インターネットがもたらすと予想される事柄についての話は非常に刺激的で面白い。
インターネットは個々人を結び、自由で開放的な世界を作り出す、と考えがちだが、実際はより支配が進むだろうというあたりを読みながら、なるほどと思った。


楽観的な進歩史観を持ってきたし、今でも、基本的に世の中はよくなっている、と信じているけれど、やはり人間というものはそうそう変わらないし、人間が不完全である以上、その性質が社会を作り出すわけであり(例えば、「戦争機械」なるもの)、世の中はどんどんよくなっていく、ということもないし、新しい技術ががらっと素晴らしい社会を創り出すわけでもないんだなあ、ということのようです。

*追記
戦争機会 → 戦争機械 に修正
いまいちわかっていません。
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by taiji_nakao | 2009-01-06 23:37 | 考え事
2007年 05月 19日
フラガール
この映画は、地域活性化を目指している、まちづくり・村おこしに関わる人への応援歌だと思う。

事業自体がニーズと合致しているか、ということはもちろん重要だが、まちづくりで難しいのは推進派と保守派の対立である。新しい価値観と古い価値観の対立ともいえる。
大雑把に言えば、都会の人と田舎の人の対立。
**

田舎は、自然が溢れ、人情があっていい。という、どっか北欧の絵を切り取ってきたようなイメージの「ロハス」がそのままが転がっていないにせよ、確かに、都会ではなくなってしまった自然や、近所づきあいがあるのは事実。一方で、排他的で保守的であるのも事実。

しかし、そういう表面だけを見ていると、お互い、分かり合えない。

「都会のやつらは、ただ雑誌のイメージを求めているだけだ。」
「田舎は排他的で、あれではいつまでたっておダメだ。」 など。

一番大切な根本は、炭鉱に生きる人たちが大事にしてきた想いと、プロのダンサーが大切にしてきた想いは、実は両立しえるし、それは多くの人を魅せるものだ、という点である。

私の中での映画のハイライトは、保守派の重要人物であった主人公の母親が、革新派に協力をしだして、他の仲間に問い詰められるシーン。

ここで、まず、彼女は炭鉱で生きる人々が大切にしてきたことを確認することから始めた。
**

革新派は、現状のままでは先がないことを憂い、なんとかしなければならないと考える。
これが、外の人間の場合は特にだが、変わらなければならないことを説くのはたやすい。
そして、それは正しい。

「石炭の時代は終わった。新しい仕事を探さなきゃダメだ。炭鉱にすがっていてどうする!」

というのは、外部の人間が言うのは簡単である。
だが、この言葉は重いのだ。
小さいときからずっと、炭鉱一筋だった人の想いは、重いのだ。


まず、そこで生きる人たちが古いと批判されてばかりいる人たちが(今は失ってしまっていたとしても)、大切にしてきたことを確認する。それが踏みにじられていることが、いかにつらいことで嘆かわしいかを。

考える上で大切なポイントは、「共感すること」と「現実に行動すること」は別物ということだ。もう、炭鉱では無理だ。それらは変えなければならない。
しかし、その変えていく中でも、その人たちが大切にしてきた想いを尊重することはできる。
別の形で引き継ぐことができる。むしろ、引き継ぐ必要がある。
**

ダンサーをみんな地元の人から育てた、ということも重要なポイント。
結局、事業は人がつくるのであり、人をつくらない限り、成功しない。
そして、技術は買えても、心は売買するものではない。

地域にある、一番の資産は人である。
そして、人には、技術や知識といった客観的側面と、精神の側面がある。

組織が、みんなでその両方を共有してわかりやすく表現できたとき、きっとそれは価値あるものとなる。
**

地域の自立は、世界中での課題。
その、大きなヒントになるのではないでしょうか。
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by taiji_nakao | 2007-05-19 11:06 | 考え事
2006年 09月 06日
伐採木材の利用にかかる炭素終始モデル?
というのがあって、これは京都議定書がらみのややこしい話。

現状では、京都議定書はCO2排出量を削減しましょう。ということは周知の通りだが、木材の話が出てくるとややこしくなる。
なぜかというと、木材は木が生長するときにCO2を吸収するからで、これをどこでカウントするのか、というところが問題となる。

今日(ウッドマイルズセミナーで)始めて知ったが、
現状では 「蓄積変化法」と「生産法」、「大気フロー法」のいずれかでもめているらしい。

これはそのはずで、日本の場合、蓄積変化法だと 210万トン(炭素換算、以下同)九州とみなされるのに、大気フロー法だと、1140万トン排出とみなされてしまうのだ。
これは、えらいこっちゃ、というわけだ。

今日のセミナーでの私の理解では、

蓄積変化法は、
森林と国内にある(国産、輸入問わず)全ての木材の炭素の蓄積の変化を見る。
たくさん輸入すれば、その分がCO2吸収に貢献したとみなされるが、
たくさん輸出しても、それはなんら貢献にならない。(むしろ、森林の蓄積を減らすのでマイナスと見られる恐れもある)

生産法は、
森林と国内で生産した(輸出したものも含む)全ての木材の炭素の蓄積の変化を見る。
たくさん輸入しても、それはなんら貢献にならない。
たくさん輸出すれば、その分CO2吸収に貢献したとみなされる。

大気フロー法は、上の二つと少し視点が異なる。
国内での、CO2の収支の変化を見る。
たくさん輸入すると、それはいずれ分解され、CO2となるので不利になる。
また、生産しても輸出してしまえばかなわないが、自国消費なら不利になる。
いわば、木材製品が「貧乏くじ」になるということだ。

日本は、大量に輸入しているから、というより、木材を大量に消費しているから、フロー法では不利になる。

これは、たいへんな議論なのです。

今に至る2時間ほど考え続けた結果、これ以降自分の考えを書くのを取りやめたました。
相当にややこしいです。
そして疲れました。

本当は、ウッドマイレージのことを書きたかったけど、また次回。
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by taiji_nakao | 2006-09-06 00:29 | 考え事