カテゴリ:考え事( 67 )
2006年 08月 02日
これから
前回書いた、あるものにお金を支払うとき、そのものの機能以外の文脈(例えば生産過程)に共感して、お金を支払う「物語の消費」について。

おそらく今後、この傾向はどんどん強まる。

表面的な広告は、見透かされる。嘘の情報はバレる。

SNSのように、バーチャル形も含めて、あるコンセプト、理念を求める人たちはよりネットワークを結びやすくなる。

そこでは、そのコンセプトに本当に合っているものしか生き残れない。
そうして、買う人、売る人が一体となってコミュニティをつくり、その理念を実践していく。
そんな社会を実現していく。

そんな風になると思う。
**

だが、自分で興味のある、地域社会の自立、持続的な資源の利用といったことの実践はそう簡単でない。

そうことを実践している人に会うほど、そう思う。
国産材を使い、職人の技術を活かした家を建てていくというのは、容易なことではない。
それは一例で、いろいろな分野で、そのように、信念を曲げずに、それで生活している人たちがいる。

それは、酒を呑んで語るほど、ブログに書くほど、簡単なことではない。

そんな社会は、絶対来ると思うし、そういう実践の場にぜひ立ち会いたいと願うけど、いったい、自分に何ができるのだろう。

この、何もない自分に。

あれこれ、考えて、今も考え中だけど、結局のところ、日本に向かったマクロな取り組みにせよ、県レベルにせよ、会社レベルでも、ぜーんぶ、人のやることの総体である。

これから、こうなって、こうだから、こうあるべきで、こうすればよい。

なんて言える訳がない。

という当たり前の結論に行き着き、ほとんど何もないところから、さて、
どこに行きますか。
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by taiji_nakao | 2006-08-02 00:19 | 考え事
2006年 07月 24日
東京で
また、東京にやってきた。
西日本林業経済研究会で、林野庁が進める「新生産システム」の話が出てきて、やはりこのことはもっと知りたい、ということでこの政策決定の際の座長を務めていた日本住宅・技術センターの西村さんに先週メールしたら、水・木ならOKということで、急遽決めてそれから 会いたい人にメールする。

**
ハンバーガーのチェーン店で粘った後、
例によってネットカフェ。新宿のここは、1時間290円。女性は190円って、どうよ?

テレビがあったので、久しぶりにつけてみると、欽ちゃんが出ている。
試合をしているから、これは過去のを映してるのかと思ったら、そうでないようだ。
なんか、感激しているのを観劇している。

いや、欽ちゃん氏を責める気はない。

それを映している人たち。って、これはまさしく「メイクドラマ」ではないか。
自分たちで、責めておいて(あるいは今まで、似たようなケースで攻め続けたために)、解散に追い込み、何もなかったかのように復活した様子を「観劇」する。
映画を見ているようだ、とコメントしている人がいたが、そりゃそうだろ。
間違いなく、カメラを回す前から、その映像はイメージされ、作られている。

登場人物は、心から喜んでいる。
私は、野球少年だったから、実際に試合をする楽しさも、応援の醍醐味も、そして、監督が試合中にあれこれ怒鳴り続けるのもわかる。それができるようになって、喜ぶのもわかる。

でも、そういう喜びは、日本全国の野球が好きな人たちみんなが日常的にしていることだ。
そういう意味では、そういう野球の楽しさを大々的に知らしめてくれていることに、野球ファンとしては単純に喜べばいいのかもしれない。
**

でも、あまりにこの、メディアによる「ジサクジエーン」が露骨で、嫌になる。

なんと、極楽トンボの加藤氏まで出て、「相方も喜んでいると思います」とコメント。
う~ん、このチームが解散しなければならないなら、このコンビも解散し、仕事を辞めて然りと思うのだが。

私は、別にやめなくといいと思ってはいるけど。

**
日本は、組織の人間が問題を起こすと、全体が「責任をとる」のが当たり前とされる。
大学でも。京大で事件があったときも、監督は「私は部員を信頼しているし、自立した個人としてみている」と言っていたけど、20歳くらいになる人間への対応として当然と思う。

大学当局が、管理の不届きがあったという趣旨のことを言っていたが恐ろしい話だ。
大学が、学生のプライベートを管理するというのか。
個人が起こした犯罪の問題を、組織に敷衍するというのはこういうことである。
みんな、そんなに管理されたいのか。

もちろん、米軍がイラクで拷問を組織的にしていた場合のように、組織が意図的、あるいは防ぐことができたのにそれを怠った場合は、当然、それを問われなければならないが。

でも、それをどんどん広げるということは、つまり生活をどんどん管理されていく、ということである。
**

と、東京に来てまで、こんなこと書いて。
まったく。。

結論。

テレビはみるな。

(あ、でもワールドカップは見たかった。ラジオでは寂しい・・)
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by taiji_nakao | 2006-07-24 09:57 | 考え事
2006年 07月 07日
高橋歩
以前、このブログで、こんなこと書いたら、

***
 ここで、僕のお気に入りの高橋歩の「LOVE&FREE」より引用。




 ただの「HOTな虫けら」でいたい。
ずっと。

***

こういうコメントがついた。

Commented by 島人 at 2005-05-18 11:34 x
外の人って本当に無責任だね。

池間島で島民を騙して入り込もうとしたときは追い出したけど、
ビーチロックハウスでは相変わらず夜遅くまで騒ぐイベントを行う・・・
米軍基地と同じ厄介者。

いいかげんにしてくれ。
どこまで沖縄に迷惑かけりゃ気が済むんだ。
嘘だらけの日記を書くんじゃない。
都合が悪くなった部分を書き換えて誤魔化すんじゃない。

沖縄の嫌われ者よ。
さっさと出て行ってくれ。

*****

この書き込みをした人は、おそらく第三者の自己満足系の(だって、おそらく検索してこのサイトを見つけているのだもの)人物だろうけど、でも、火のないところに煙は立たぬと、こないだ、久しぶりに高橋歩を検索してみた。

そしたら、ずいぶん、ひどいみたいです。(参考)

**

高橋歩は、「コトバ」を写真と一緒につづった本を何冊か出している。
彼は世界を放浪したことがあって、その体験が元になっている。
こうした本は最近増えている気がするが、その中ではピカイチだと思う。
彼の、「ラブ&フリー」を初めて手にしたときは、ちょっとした衝撃だった。
書いていること、一つ一つがすっと共感できた。

**

彼のコトバは、例えば冒頭のように、大きな夢を語り、
やれるぜ! やろうぜ!! 
というテンションで貫かれる。

確かに、そのまま突っ走れるような気持ちになるときもある。
そして、そうやって生き抜くことができる人もいるのだろう。

私の場合、このノリでは、4ヶ月しか持たなかった。
そして、人間、そんなにエネルギーを発散し続けて生き抜くことは難しいよ。
と思うようになった。

この春に、岩本悠という、彼と似ている人物の話を聞いたけれど、
ようするに、「できるぜ!人間もっとできるんだ!エネルギーを開放しようぜ」
(文字通り、このようなことを言っていた)
という内容だった。

**

こうした人たちは「ゲイジュツカ」なのであり、
なかなか動き出せない人たちの背中をおし、まず最初の一歩を踏み出すためのお手伝いをしているのだ、と思うようになった。

みんながゲイジュツカにはなれないけど、確かにやってみると、いろいろ見えてくるものだ。
その先、彼らのコトバを鵜呑みにした人は苦労するだろうけど、それも人生。
彼らは、最初の背中を押す役割なのだ。
と。

**

高橋歩は、日本に帰った後、沖縄で「アイランドプロジェクト」というものを企画していて、フリースクールやサンゴ礁の保護、自給自足を謳うエコ村のイメージだった。
でも、現状は、なんか違和感がある。ってか、これは単なるリゾートでは??

そして、最初にあげたリンクの記事を読むに、ずいぶんずさんな運営のようだ。島民が600人しかいない島で、400人が反対に押しかけるとは尋常ではない。

そして、結局最初の予定地からは撤退するのだが、その際にポスティングしたビラを、なんと住民の反対の具合で2種類に分けて配ったというのだから、これは信じがたい。
第一に、そのようなことをできる精神が信じられない。
第二に、ばれて、いっそう信頼を失うことを予測できなかった稚拙さが致命的だ。

そして、ボランティアスタッフも募集しているが、こんな運営体制の元で働く人が哀れでならない。例えば、このポスティングをした人たちって・・・

**

しかし、怖い。

楽しくやろうぜー っていってて、
でも(自分達は社会に役に立っている、意味のあることをしている)と思っている若者の集団が、
(このまま行ったら、島が、故郷が破壊されてしまう)と島民を本気でおびえさせた。

しかも、そのリーダーを自分は一度、心から共感していた。

しかも、「とにかく楽しいことが大事」とか、
「飲食に傾いていった」というくだりは、某団体でその傾向がないともいえない。

まあ、この某団体は地元とはいっそう関係は深まっている傾向にあるので、まさかまさかですが。。

記事を読むに高橋氏は、ろくに地元の人と対話もせずに、「だから村民は、、」と捨て台詞を吐いている。
彼は、「いいことをしようとしている自分」「古い体質で、新しいことをすぐ拒む地元」
という構図を心から信じているのだろう。

思い込みとは恐ろしいものなのだ。。

**

でも、「ラブ&フリー」、「人生の地図」はお勧めですよ。
ゲイジュツカの作品と、その人の生き方は必ずしも一致しないですから。。

でも、残念。
今まで自分の知らない人たちと、どんどん広がっていって大事を成せたはずの人物が、
自分を賞賛しかせず、短期的な欲望を満たす人たちとどんどん身内へ狭くなっていたのだろうなあ。。と勝手に、かってだけれど、想像する。


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by taiji_nakao | 2006-07-07 00:05 | 考え事
2006年 07月 02日
たんぽぽ
こないだ東京に行ったとき、京都で学生コミュニティで出会った人たち(そして、みんな社会人になっていた)と飲んだあと、そこにいて、そのまま泊めてもらった友人と話してた。

「昔はよかった」っていうひとがけっこういるって。
そして、その昔に戻ろうよ、という話もあるとか。
「昔みたいにさ」と。
**

「約30の嘘」という映画を、以前みた。
ややネタばれになってしまうけど、この映画は思うに究極のハッピーエンドで、最後には、ずっと「昔はよかった」と言っていた「昔みたいに」戻る、という内容だった。
なんだか、違和感があった。

人生っていうのは、そんなんじゃなくて、村上春樹風に言えば、
「ぼくらは、そうしていろいろなことを学んだけど、同時にたくさんのものを失って、ここまできた。」
というもんじゃないかな。
**

例えば、私が大学院に行けば、今関係している団体の運営については、後1年で学生を終えるのに比べて、いくらでも、改善できるだろう。

あんなことや、こんなこともしたいな♪
ということをたくさんできるだろう。
そして、多くの人に喜んでもらえるだろう(きっと)。

でも、もうすでに5年目だ。5年もやれば、「ああすればよかった」なんてものが蓄積されてるけど、だからって、さらに時間をかけて、理想どおりにやるってもんじゃない気がする。
**

「昔はよかった」というところの「昔」は、想像上の物語の中にある。
人は過去を自分の物語として認識する。ってことを、内田樹も書いてたな。

いろいろあったけど、よかった、って思っている。
特に、自分にとって大切な思い出は。
それは、そういうもんだし、私だって、自分の過去は物語としてとらえたいと思う。物語を生きたい。それが真実であるか、とかそういうことはあまり重要じゃない。

でも、その美しい過去の物語に戻ろう、というのは違うな。とういうか、多分、できない相談だ。
実際は、そんなに美しいことばかりではなかっただろうし、その構成メンバーも変わってしまっている。

初恋の人は、想像上にいる限りにおいて、いつまでも完璧に魅力的でいられる。
**

そういう風に、「昔」は美化して認識されているし、みんないろいろなものを失って変わってしまうから、昔に戻ることはできない。
よかった昔に戻るんじゃなくて、ちょっと寂しいけど、失うものには別れを告げて、新しい物語をつむいでいくしかない、と思う。
**

たんぽぽにしよう、と言っていた。
最後に思いっきりきれいな花を咲かせて、みんな種となって飛んでいくのだ、と。
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by taiji_nakao | 2006-07-02 22:14 | 考え事
2006年 06月 22日
淡白
初めて自分が淡白な人間だと認識したのは、大学に入ってから。
弟が、「兄貴は自分のことばかりを考えていて、人(この場合弟)のことはあまり考えてない」
と、「兄弟間のコンプレックス」という文脈で使っていたと別の家族から聞いたときだ。

確かに、私はずっと、自分のことばかりを必死に考えて生きてきた、と思う。
中学も、高校も大学のときも。
それは、例えば経済的事情とか、そういう問題に遭遇しないで済んだ(少なくとも意識しないで済んだ)、幸運な人間だったからであり、その幸運とは私に関わる人によってもたらされたものだ。
しかし、そういうこととは別に、人がどう考えているかということに、私の関心は低かったのかもしれない。


人が淡白か否かというのは、人が評価するものであって、相対的なものだ。
私は、「淡白でいよう」などとはついぞ考えたことがないけれど、おそらく次のような思考回路は「淡白だね」と言われるものかもしれない。
**

2回生の後期、私はサークルの運営に熱中した。
そのとき、その運営のコアメンバーは4人いたが、 熱中度は私一人が突出していた。考え方も違った。こういうとき、おそらく多かれ少なかれ、世の中に数あるサークルの中に存在する問題が顕在化する。

「モチベーションの差」

私は、全力投球していた。
事務のことについて、人に呼びかけ、カリカリやっていた。
そして、後の3人がすべきことも、だんだんしなければならなくなってきた。
一つに私の理想が高い、といことがあって、それを実現するには任せていられないというものだが、客観的に言って、他の3人がサボっていたという分も多々あった。

私は苦しくなったし、一度そんな話をしたりしたけど、まあ、そう変わるものでない。
そのうち、私は彼らを非難する話をあちこちでするようになる。
おしゃべりな私は、だれかれかまわずそれをした。
私の言っていることは、だいたい正論であったし、こうして特に3人とはなんだか遠慮する関係となった。

私がこの関係の修復を完全に終えるまでには、かなりの時間を要した。
びっくりするくらい、私はそのことにこだわっていた。「かわいそうな私を慰められたい」という欲望は、深くしみこんでいた。

けれど、一緒にカラオケいったり、あれこれするうちに、どうでもよくなってきた。
それは、私が運営に熱中している間、彼らは授業や遊びを選択していただけの話なのだ。
それは、例えば私が疎い音楽に造形があったり、無能学部と揶揄される農学部でぎりぎりの単位をやっととっているのとは別に、ちゃんと授業に出、レポートを書いていた、というだけの話である。これは、皮肉で書いているわけではない。本当にそう思う。
契約があるならば、それは果たす義務があるが、自由意志であるものに関しては、あくまでそれは本人が決めることなのだ。

こうした思考は、「意図的に淡白でないふるまいをすること」に強い拒否反応を示す。
(まあ、やっぱり無理してそんな振る舞いをするのはよくないと思う)

もう一つは、もっと単純な話で、自分ですでにたくさんのことにコミットメントしているので、新たなことにコミットする余力がないので、それを求める人からすれば淡白にみえるということだ。

こないだ泊めてもらった先輩が
「(その人や俺のような)趣味も仕事も一緒な人間は、結局のところ、生活全部がそのテーマに関わることになるんじゃないの」
と言ってたけど、ああ、やっぱりそうなのかもね。

でも、淡白、という言葉には、どうして、こんなに悲しい、複雑な気持ちが含まれるのだろう。
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by taiji_nakao | 2006-06-22 06:44 | 考え事
2006年 06月 14日
「それを信じている方がよい<うそ>」なの?>京都議定書
 前回の永井均の「<子ども>のための哲学」の中で、道徳を

** たとえうそであっても、まやかしであっても、みんなが信じているほうが世の中がよくなるような、そういう<うそ>というものがあるのだ! **

という記述を読んだとき、ふと思い浮かんだのが、「京都議定書」である。

日本は6%の削減義務を負っているが、その3.9%は「森林整備」によって実現できるという。不思議なものである。日本には、(先人の努力によって)ほとんど植林を必要としている土地などないので、「森林整備」とは「木のないところに木を植える」ことを指すのではない。
そうではなくて、すでに植えられた森林を「適切な管理」をすれば、それが吸収源として認められるらしい。
そして、どうやら「適切な管理」とは間伐実施を指すらしい。
しかし、温度・降水量・養分・光といった植物の成長を決める要因は、間伐をしたからといって、さほど変わらないのだから、どうかんがえてもこじつけとしか思えない。

森林関係に携わり、ちょっと考える人なら誰でもそう思うはずである。
しかし、今「温暖化防止」の名のもとに巨額が投じられており、森林関係の研究も潤っているのは間違いない。
だから、そこに関わる人の多くは上にあげた引用のようなことを考えているのではないか、とふと思った。

***

温暖化の問題は重大な課題であるが、現在の議定書で問題なのは、温暖化が他の問題を差し置いてダントツでトップになっていることである。

森林問題で一番重要なのは、よく言われるように「持続的可能な管理」である。
しかし、京都議定書の力は強大で「二酸化炭素をどれだけ吸収できるか」が森林に第一に求められるものになってしまっている。
巨額がここに投入されるからだが、これには問題が多い。

まず第一に、そもそも森林は本当に二酸化炭素を減らすものなのか?という問いである。
単純に考えて、それまでまったく木のなかったところに植林するなら、その木が育った分は二酸化炭素は減る。しかし、一度育てば、そのあとは循環する(=植物が固定した炭素はやがて分解される)のだから、基本的にその森林が二酸化炭素を吸収しているとは言いがたい。
そして、現在巨額を投じてどれだけ吸収するか、という研究が行われているが、それがどれほど意味があるものか疑問である。

第二に、森林の質は問われず、とにかく「植林」という言葉が賞賛されるべき、お金を集めるべきものとなってしまう。
現在、製紙会社は海外にたくさん植林している。そのほとんどはユーカリのプランテーションで、言ってみればとうもろこしなどと同じ畑である。その行為自体を批判するつもりはない。土地利用に関して合意形成があるならば、当然ながら製紙会社は持続的、効率的に原料を得る方法を開拓して当然だから。
しかし、どうしてそういう営利行為にODAが使われたり、まして「排出権取引」などといってお金が与えられたり、「温暖化防止に役立ってます」と美しいイメージを獲得できるのか。
それより、本質的に環境活動に貢献している企業はたくさんあるのに・・
(製紙会社がそういう活動をしていない、といっているのではない。例えば廃液対策には巨額を投資してきている。)

***

森林問題に限らず、環境問題の次元として、「循環型社会の実現」が第一にくるべきであって、「温暖化防止(=CO2削減)」はその下にあるべき課題である。
つまり、「循環型社会の実現」という目標に「温暖化防止」は含まれる。
にも、関わらず「温暖化防止」が一番前にやってきているのが現状なのである。

これは様々な問題を引き起こすし、わかりにくい。
循環型社会の実現=化石燃料をできるだけ使わずに、最終処理までできる社会 
と考えれば、もっとシンプルでわかりやすくなるはずだ。

カーボンニュートラル(木材は、最終的には分解されてしまうが、また育つときに二酸化炭素を吸収する)などという、ややこしい概念を持ち出す必要はない。

まあ、「石油をできるだけ使わないように」とストレートにいえない政治事情があるのだろうけれども・・
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by taiji_nakao | 2006-06-14 00:54 | 考え事
2006年 06月 09日
しあわせ論
某先輩一押しの人ということで、永井均の、「<子ども>のための哲学」、この本を紹介された。
二部構成になっていて、前半のぼくと<ぼく>の議論、<子ども>の疑問はおそらく筆者と共有できていると思われ、なかなか面白かった。

それに、これはどんあ分野でもいえるような気がするが、「自分はプロでない」という人には面白い人がいる。
プロとか、その世界にいると、そこには伝統もある一方で、プロであるための定義がつらつら並び、自由な発想を奪っているからだろう。

ここでは、後半の道徳論に対して、自説を書いてみたい。

哲学的な問いを多くの人が問わないように、道徳というものは「いかがわしいもの」であるにもかかわらず、それが守られていた方が世の中うまくいくため、多くの人が疑うことなく、あるいはおかしさを感じながら、それを守るように呼びかけている。
しかし、そうではなく、利己的に生きるために仮に守っているに過ぎない、というのだ。

この辺は時間もないし、正確でないかもしれませんが、ここで指摘したいのは、道徳の本質は虚構ではない、ということである。

虚構の道徳は、世の中に溢れている。
建前の道徳とでもいえるかもしれない。例えば、なぜだか不明だが、今日百万遍には4人の交通整備のおばちゃんが、一生懸命笛を吹いて、
ピピッピ!ピー!「自転車は、自転車のラインの中だけを走ってください」
と一生懸命怒鳴っていた。まったく、うるさい。

どのくらいあれを続けるのか知らないが、お金と労力を無駄にしてそこにいる人に不愉快な思いをさせているだけだと思ってしまう。
だって、自転車の方が圧倒的に多いのだし、自転車のひとにだって都合があるのだ。
それを、守ってくださいの一点張りでは。。
こういうときに、もし罰則がつくことを私が知っていれば、もちろん、守る。

そういう、「道徳」はもちろん、社会には溢れている。
しかし、道徳の本質はそこにはない、と思う。

* * *

人生の目的とは何か?
という問いの答えはなく、それを問い続けることそのものかもしれない。
ただ、「幸せでありたい」という点では共通しているだろう。

では、幸せであるためにはどうしたらいいのか?

私のその答えは、「(できれば自分が好きな)人のために一生懸命働くこと」である。

アクセンチュアの最終面接で、「圧迫面接」の面接官は、

「人を動かすものには、
*名誉欲 *権力欲 *金銭欲 *異性にもてたい
のどれかである。あなたはどれか?」

と聞いてきた。
はあ?というもんだが、しょうがないから、
「異性にもてたいです」
と答えたら、
「異性にもてるためにはどうしたらいいか、戦略的に説明してください」
といわれる。
「まず、センスを磨くこと。センスとは・・(省略)
それから、相手を思いやること・・」
と言っていたら、
「あまり切実さがありませんね」
「・・・」
というわけで(それが原因かしらないが)落とされた。

この人は、外資系コンサルのパートーナーであるから、大企業の取締役クラスであり、業界を牛耳る(引っ張るともいう)ような人物である。
そのなかで、どろどろもある競争を、強い欲を持って勝ち抜いてきたのだろう。
そして、私にはそのような欲はないと判断したのだろう。

だが、それこそ聞きたい。
「その欲を満たして、何がしたいのか?」
と。答えられるかな?

幸せの話に戻す。
欲に引っ張られ、一生懸命働いているときは充実していて、成果もでるし、楽しいだろう。このときは幸せであるといえる。
そして、成果を認められ、それが、名誉か権力か金銭か異性かは知らないが、それを手に入れれば、そのときは幸せだろう。
そうやって、そのときにいる取り巻きに敬意を払われ幸せだろう。

だが、その欲が満たされて、名誉と権力と金銭と異性、すべて手にしたとして、例えば、その広い家でふと、月を見上げたとき、本当に幸せだろうか。
何か、やるせなさを感じるのではないか。

しかも、そういう欲を満たすためには、人を蹴落とさなければならないから、数々の人にうらみも言われようし。それも、さらなる欲を満たすことで補うのか。

人のために働くことは、もちろん、人を蹴落とさなければならない場面もあるだろうが、そういうことが少ない。

一生懸命、働いているときも充実し、幸せである。
成果が出れば、もちろん嬉しいし、感謝される。
そこで、もちろん、もらうものは最低限もらうが、特に名誉も権力も金銭も異性も(って、それりゃあ、相手はほしいけど、彼が言ってたのはそういうのじゃないよね。きっと)、そんなにいらんでしょ。

そんなものいらないさ。
それより、幸せになったひとびとが周りにいて、感謝されるほうがよっぽどいいではないか。
ふと月を見上げたとき、そうやって(おせっかいにも)面倒をみた誰かの顔を思い浮かべて、どうしているかなとにやにやしている。
根本的な理由としては、人間はどういうわけだか、人から感謝されるとエネルギーを受け取れるからである。

この場合、いつも幸せなのだ。
(裏切られたら悲しいけど。世の中そんなこともあるだろう)

* * *

「できるときに できることを 人にしてあげなさい」

ほぼ日刊イトイ新聞語録
監修:糸井重里

智慧の実のことば の中で一番のお気に入り
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by taiji_nakao | 2006-06-09 17:41 | 考え事
2006年 05月 23日
入り口であり、ゴールである
私の森林ボランティアの捉え方。

「活動そのものは、入り口であると共に、目指すべきゴールである。」

活動は、基本的に「楽しいから参加する」
この「楽しい」には、精神的充実も含まれる。

仕事でないがゆえに、できることがある。
特に、日本は人件費がべらぼうに高いので、1人を1日雇ったら1万とか2万とか払わないといけないので、よほど特殊で生産性をあげない限り、商業ベースにのせられない。

でも、山行ってみたいとか、林業に興味があると思う人はいる。
そんな、どんな動機でもいいから、少しでも「山仕事」に引っかかった人が気軽にやってきて、楽しむ。楽しくて、思い入れができた人ができる範囲で運営にまわる。

そんな入り口。

**

でも、これはゴールでもある。
生活の中に、自然な形で森との付き合いが入ってきたら、きっとそれが新しい、人と森とのかかわりとなり、新しい森林の文化が創造される。

好きでやってると、もっといろいろやりたくなる。

そういう人は、ボランティアという枠から飛び出せばいい。

メンバーの一人は、仕事しながら、週末に山でバイトしたりもしている。
これって、新しい、山と人との関わり方。

僕みたいにビジネスとして成立させたいと思う人は、チャレンジしてみる。
それは、もちろん、ボランティアの仕事じゃない。
事業としてやる。


でも、その事業の成功の先には何があるかって?

それは、今、例えば、おととい、山にいって、感じた、あの「楽しさ」が生活、仕事の中で感じられること。感じられる人が増えること。
そういう、ゴールを目指す。

でも、もしかしたら、よりたくさんの人が楽しめる場をつくって、地域の人、参加者、協力者ひとりひとりのつながりを大事にしていたら、

案外、ゴールは別の形でも実現されるのかもしれない。

自然に!

でも、そういう気持ちが、少しずつの行動が、ちゃんと結果に反映されるには、ちゃんと運営されないとダメ。
行き着くところは、そこにいる、スタッフの人間性、あるいは能力。
結局は、そこにいる人間が成長できるか、あるいは、育てられるか。

いろいろな人の出会いが、活動の枠を広げ、人の視野を広げる。

願わくば!

そうやって、僕が植えた木を、自分の家の柱に使いたいな。
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by taiji_nakao | 2006-05-23 00:23 | 考え事
2006年 05月 16日
「お菓子の家」の考察
小柴さんのブログで、
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
今、地球にいる「にんげん」は、ちょっと違う方向に進んできてしまっているんじゃない?地球という限定されたシステム(環境)の中で、経済の拡大を目指す国が多いけど、それって正しいの??今、先進国にいる大多数のにんげんは、薄々「それ」を感じ始めているのではないでしょうか?

私はこの背景にある何かをとことん追求してみたいと思っています。新しい光というのでしょうか?経済拡大には、持続可能性が有りません。株投資も、貿易も、ゼロサムゲームと言われています。経済拡大ではない新しいあり方、持続可能な社会のあり方は何なのだろう?そんな事を最近、毎日考え続けています。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

という投稿があり、そこで私も書き込んで、次のようなやり取りがありました。

■ご紹介ありがとうございます

単純に考えて、世界中のみんなが日本レベルの経済成長を遂げたら、どう考えたって、資源が足りないですよねというのはわかるのに、世の中のシステム全ては成長することを前提にしてある。。
以前、こんな寓話を書いたことがありますが、この「おかし(お菓子)な家」から出ないことには始まりませんね、
たいじ (2006-05-14 18:12:06)

■つけたし

しかし、私たちは「お菓子」なしでは生きていけないように見えます。
この寓話からは、「おかしな枠組みで考えている限り、おかしな家の崩壊を待つのみである」ということまでしかいえず、その先は見えないですね。。
むずかしいもんだいです・・
たいじ (2006-05-15 10:13:35)

■お菓子自体は悪くない

寓話、私も拝見しました。

その上で上記の「つけたし」を読んで、私は二十数年前に観た映画「ブッシュマン」のストーリーを思い出しました。
(映画の内容については割愛させていただきます)

あの映画で西洋人によって投げ捨てられた「コーラの空き瓶」を巡る騒動・顛末と仰られる「おかし」が、私の中ではダブって感じられました。

結局はモノの存在自体が問題なのではなくて、「人間次第」ということ。
その存在を否定し、無くそうと戦うのではなく自分たちの在り方を変えて行くしかないんだと思います。
しのはら(しのP) (2006-05-15 18:43:42)

****

ちょっと私の考えていることが伝わっていなかったようなので、そして自分の中でも整理されていなかったようなので、まとめてみました。

この寓話は、そもそも気候変動が不確定で、「近年雲の量が増えているのだけれど、科学者はその理由を知るすべがない」という記事を読んだとき、不安げな様子で空を仰ぐ科学者を、最後の天井を仰ぐのび太に重ねるところから作ったのですが、まあよいとして。。

このまま、世界中の国々が先進国並みに資源を消費するようになったら、地球は枯渇する=お菓子の教会は崩壊する、というのは自明でしょう。
資源は有限であり、全ての国が経済成長を目指す完全なゼロサムゲームに身を投じるしかない世界というのは、このお菓子な教会にいるのび太たちと非常に似ています。

しかし、このまま行けばまずいとうすうす気づいても、すぐにこの教会を出ればいいと言うことにはならない。なぜなら、お菓子を食べることはやめられない=エネルギーを消費する生活はやめられないだろうから。すぐに教会を出ろというのは、今の生活を捨てろと言う、非現実的な自然回帰主義の考え方だろう。というのが、私の「つけたし」のコメントでいいたかったことで、こうしてみると、しのPさんと近い主張な気がします。

「ブッシュマン」は見たことがないですが、コメントから推測するに、しのPさんのいいたいことは、ブンメイが作り上げたもの=悪、自然に近い原住民の生活=善 というステレオタイプな考えはつまらないよ、ということでしょう。

では、このお菓子な教会にいる私たちはどうしたらいいのか?
という問題になります。
このアナロジーでは、このあたりで限界な気がします。

ただ、
「強欲に食べ続ければ間違いなく崩壊する」ということと、

「すでにあるお菓子を、みんなで早い者勝ちで食べ続けている
という現状認識では解決し得ない」、ということはわかります。

二番目は結構重要で、いろいろな前提を当たり前と思っている現状認識=パラダイムを転換しない限り、解決策が見つかりようがない、ということです。

ちょっと、こじつけなところがありますが、
お菓子の教会の中だけの視点でなくて、その外から見る、とか、
どうやってそもそもお菓子が作られたのかを調べる、とか
そういうことが必要なんでしょう。。

**
ところで、偶然なのですが、お菓子なが、おかしなとひっかかって、
この寓話、けっこう使えるかもしれません。
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by taiji_nakao | 2006-05-16 01:50 | 考え事
2006年 05月 13日
ネットを介してリアルが加速する
日本の林業を経済的に何とかしたいということを学び、仕事にしている人はマイノリティである。今までは、そのようなトピックを議論するためには、学会とかそういうシンポジウムに行かなければならかったし、もちろん行っても自分と興味関心が近い人に会えるとは限らなかった。

それが、大学に入って2チャンネルを知って、そこに「林業」というカテゴリがあって、そこでは面白い議論もあるのを知る。なにせ、普段杉良(山仕事サークル)の中でさえ、限られた人としかできないようなことが本気で論じられていた。これは、面白い。

ただ、よく言われるように2ちゃんねるにはノイズが多すぎる。
「あぽーん」とかいう文字通りのノイズや、「氏ね」などいうコメントをいちいちスクロールするのは時間の無駄だ。

そして、最近、mixiのコミュニティのパワーを知る。
そこには、例えば、「森林再生」に800人以上、「近くの木で家をつくる」でも80人いて、トピックごとに熱く議論をしている。そう、これはあの2ちゃねるで、「いいな」と思った、現状や関心を共有する人たちの議論である。。
恐るべし、mixi加入数40万(もっと増えてる?)はだてじゃない。

そして、もっと嬉しい驚きがあった。
こないだから、今僕の考えていること専用のサイトを作ったが、これの同じ趣旨のコミュニティを昨日mixiに作った。

そうしたら、まず初めてとなる仲間ができた。
ぜひ、一緒にやりましょう、とメールが。凛空間 代表取締役の小柴さんである。
(こうやって、さらっと紹介できるところが、ブログの最大の強み)

京都の同志社の院生からもメールが来た。
近いうちに会えるだろう。もしかしたら、明日会えるかもしれない。

そして、あれだけマニアックで敷居の高い書き方にもかかわらず、わずか一日でコミュニティのメンバー数は10人となった。。北は北海道の人もいる。

旧来なら、ここにたどり着くまでものすごくかかったであろう時間は、猛烈に短縮されつつある。

* * *

大雑把にいって、世界は精神世界と物質世界で構成されていて、これらは本質的に等価だと思うのだけど、この見えにくい個々人、あるいはグループ、組織の精神世界はどんどんネットで共有されている。

本を読み、世界観に触れるのは多くの人が楽しいと思うことだけど、これは、その世界観が共有されている、ということだろう。
そういう、精神世界がより広がって、それも楽しい。

でも、やっぱり、リアルなこと。
山行って、木を伐って、馬鹿話して、弁当をおいしく食べて、ちょっと手間かけた料理なんか作ってみたり、ご馳走になったり、自分たちで焼いた炭でバーベキューしたり、音楽聴いたり、・・・
それを、自然に、楽しみたい。

でも、今それを実現するのは、ほんとにむつかしい。
社会をめぐる状況は、ほんとにむつかしい。

だから、素敵なせかいをめざして、

このブログでは、

●しゃべり好きなtaijiの考えをまとめ・発信・対話
(リアルでは、できるだけ、人の話を聞こう!

○たくさんの素敵な人・取り組みを結ぶ
(リアルでは、できるだけ、人の話を聞こう!

●取り組みや考えを整理する
(リアルでは、できるだけ、人の話を聞こう!

そして、たくさんの共感できる人とつながろう。。

* * *

バーチャルを介して、リアルがどんどん、加速していく。

おいてかれないようにしなければ

(*)
nakao taiji が卒業するためには、卒論の10単位は必須です。
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by taiji_nakao | 2006-05-13 12:07 | 考え事