カテゴリ:考え事( 67 )
2006年 05月 10日
暗黙知の認知的側面
卒論のテーマを「地域材ビジネス全体が知識を創造し、成長しつづけるためにはどうしたらよいか」などというものにすることに決めた。
ものの、そもそもこの「知識創造」ということに関して、完全な独学で直感に頼っているところが多く、*わかっていない *人に伝わらない というところがあるので、
少しずつ自分の考えているところを書いていくことにする。
ので、忌憚のないご意見、「そもそも」な質問、ってゆうか、このへん何言ってるか良くわからないというコメント、トラバ、メール(nakao_taiji@excite.co.jp まで)お待ちしています。

 形式知と暗黙知

 知識には、文書・マニュアルなどで表すことのできる「形式知」と、感覚的なもので言語で表すことの難しい「暗黙知」がある。
 例えば、「ぴん ぽん ぱん!」にアクセスする方法は「ヤフーで、「ぴん ぽん ぱん!」と検索すれば出てくる」と教えられるが、自転車に乗ったことにない人に、「どうやって運転するのか」を言葉だけで説明するのは不可能である。

 暗黙知の重要性

 ものすごく大雑把に言えば、西洋の主流ではデカルト以来 主体(にんげん)と客体ははっきり分離されていて、それは言語で説明できるもの捉えられてきた。自然科学の発展は、そうやって客体(自然)をより緻密に総合的に説明してきた歴史といえる。
 経営の分野でもその流れを汲み、「科学的管理法」が発達する。
そのアンチテーゼも出てきたりしているのだが、とにかくここでいいたことは、
今まで(今も?)は、形式知を元に素晴らしい戦略を立てて実行すればうまくいく、と考えられてきた、ということである。

 今日のコンサルへの批判は、このあたりにある。
企業と市場のデータを分析し、成功する戦略を立てる。

が、往々にしてそれはうまくいかない。それは、暗黙知の重要性を理解していないことによるところが大きいのだ。

 暗黙知の認知的側面

 暗黙知には、自転車の運転技術のような「技能的側面」と、「こうである」という現実のイメージ、「こうあるべきだ」という未来へのビジョンといった「認知的側面」がある。
 この「認知的側面」がいかに重要であるかについてのケースとして、とある団体の、新歓(新入生歓迎)のビラまきをめぐってのやり取りを以下に書いてみる。

*****

4月は、昼休みと夕方、それぞれ毎週一回ずつ単独説明会を開いていた。
そのほかに、2種類の合同説明会に2回ずつ参加し、毎週週末に活動をしていた。

ビラには、これらの情報すべてが載っていて、とにかく認知して欲しいということがひとつの目的である。
が、水曜と木曜の説明会の朝に黒板に書くのと同時にビラを配ることで、直接的にはこのビラをみて説明会に来て欲しいという狙いだった。

一回のビラまきはおよそ800~900枚で、全部で3500枚を撒いた。

しかし、実際にビラを見て説明会に来たのはわずかに1人だった。。

当初から「5月20日の合宿までを新歓期とする」ということもあって、5月も説明会をすることに
なっていて、これをどうする?という話が、現場の何人かで話された。
ここでは、説明会(2回)の当日に
*日付に丸をつけて目立たせる
*1000枚ずつ配る
と決まった。

これを聞いた方向性を考えているTは、「最後の追い込みとして、できるだけ説明会を目立たせたビラを、できるだけたくさん撒いて説明会に来てもらう」ということだと認識する
というわけで、ビラ作成の際もそのように手直しもしてもらって原案を作ってもらう。。

また4月のビラ配りは、担当を一人決めて、そのほかは任意で参加だったために人が集まらなかったと見ていて、シフトを組めばもっと配る人数を増やせると考えていた。

さて、その後印刷・ビラ配りにTは参加せず、説明会に行くと、、
*配るビラは両日あわせて1000枚になった
ということを知る。

2000枚でも足りないと思っていたのに、これは無意味に近いと感じる。

そして、その夜はちょうどミーティングの日だった。

* *

ここで状況を整理すると、
全体の方向を考えている(経営的視点)Tは、
「3500枚配って1人しか来なかった」、「シフトを組めばもっと人を増やせる」
と考えている。この背景には、「ビラまきは千一(1000枚で1人こればいい方)」という形式知があり、これらをもって
「このままでは、誰も昼休み説明会にこない。
そして、ビラ作りから輪転、配った努力が無駄になってしまう」
という「こうである」という現状のイメージ(=暗黙知の認知的側面)
を持っている。
そして、
「あと2500枚くらいは撒けるし、そうすれば一人か二人はくるだろう」
という「こうあるべきだ」という未来のイメージ(=暗黙知の認知的側面)を持っている。

一方、この時点では、現場がどう考えているかはわからない。

●ここで、コンサルがよく批判される、形式知しか見ないアプローチとはどんなものかというと、


ミーティングにて

「ビラまきでは、千一が常識ということです。しかも、4月は3500枚配ったのに1人しか来ていない。となれば、5月の説明会に来てもらうには1000枚ではとても足りない。
4月はシフトを作らなかったから、配る人が集まらなかったが、今度はシフトを作ればもっと人は集まり、配れる。最低、あと2000枚は増刷しよう。ちなみに、朝配りに来れる人は?」

Q「それだけ配っても来ない可能性が高い」
A「それはビラ配り自体の意味を否定している」

Q「紙がもったいない」
A「ビラを配ると決めた以上仕方ない」

Q「日にちに○をつけるのは効果的だが、それほどの量で可能か?」
A「○は、必ずしもつける必要はないが、やるきになればできる」

といった具合に進む。
この状況で、無理やり決定すると・・

輪転(印刷)には、もしかしたらTしか来ないかもしれない。

そして、朝時間通りにくるのは、来るといった人より少なくなるのも目に見えているし、
何より今後に支障を残してしまう。

* * *

(おそらく)うまくいかない最大の理由は、
現場が持っている暗黙知の認知的側面を見逃しているからである。

Q「それだけ配っても来ない可能性が高い」
A「それはビラ配り自体の意味を否定している」

形式知、あるいは論理的に言えば、ビラ配りをすると決めてビラを作ったのに、数を配ることが無意味と思う、というのはナンセンスである。
しかし、実際にビラ配りをやってみて、

「このままビラを配っても、配る労力にあった成果を挙げられない」

という暗黙知を得たのである。

いうまでもなく、これが「こうである」という現実のイメージである。
そして、

「何か別のアプローチをすれば、人が来てくれるかもしれない」

という未来へのイメージを持っている。

実際のミーティングでは、

こうした暗黙知がTにも伝わった=表出化(*1)された ため、

「すでに刷って、丸をつけある残り500枚をできるだけ(6人参加)、前日に手渡しで配り、残ったものは今までどおり教室撒く」

ということになった。

* * *

さて、ここで、
「ビラをたくさん配る」のと、「手渡しで配る」の、
どっちがいいの??

というのは、疑問に残る。誰か知っていたらぜひ教えて欲しい。

これを統計学的に証明しようとすればやって入れないことはないかもしれないが、毎年新入生も変わるなど変化のファクターが多すぎて、まあ難しいだろう。

結局のところ、誰にも「答え」はわからないのだ。
だから、やってみて、結果を見ながら少しずつ対応を変えるしかない。
「順応的管理」とか言われるのは、こういうこと。
そして、やってみて得られるのは、数字で出てくる形式知だけでなく、暗黙知も各個人の中にたくさん蓄積される。

しかし、ちょっと視点は変わるが、
「優れた方法で、モチベーションが低い」場合と、
「やや劣るが、モチベーションは高い」場合では、
後者の方が成果が上がる、という研究もある。

私なりの説明では、変化の激しい中では、

どんなに素晴らしいシステムでも、些細なことをちょっと改善すればうまくいくのに、機能しなくなる可能性がある。その結果は致命的なことになる。
一方、ある程度劣ったシステムでも、些細なことを改善することで、計画以上の成果を上げられることもある。

結局、そこで働く人が気持ちよく働き、目的を理解し、より多くのことに気づき、なるたけ早く改善
することが一番重要なのだ。

* *

2つの論点が混じったようですが、今回はここまで。

*1 注 表出化
暗黙知を形式知に転換すること。
あのミーティングでそれが最後までできていたかは疑問だが、
ミーティングの中で、

「テニサー(テニスサークル 一日に数千枚とかビラまきをする)にはかなわない」
「ビラ +アルファの、何かをしないと人は来ない」

といった、コンセプトが表出された、と理解している。
が、それをみんなでしっかり共有するところまではできたかは疑問。

参考というより、ここの理論を紹介しているようなもの

●知識創造企業 野中郁次郎 竹内弘高
(今読み進めている途中)
[PR]
by taiji_nakao | 2006-05-10 17:29 | 考え事
2006年 05月 02日
アフガニスタンと日本
テロリスト 「テロリズムを奉ずる人。」

テロリズム(①)「政治目的のために、暴力あるいはその脅威に訴える傾向。また、その行為。暴力主義。テロ。」

奉ずる (①)「うやうやしく持つ。ささげる。」  (広辞苑)

この定義によれば、イギリス・ソ連・アメリカの軍隊が次々とやってきて、これに武器を取ってゲリラ戦で応じたアフガンの人々は、

外国軍を追い払うという「政治目的」のために、銃等の武器という「暴力に訴えている傾向」に命を「ささげている」

ゆえに、テロリストである。

Mrブッシュは、うそをついていない。
アフガンで、「テロとの戦い」をしていたのだ。
今でも、アフガンでも、イラクでもしているし、今度はイランでもしたいらしい。

* * *

アフガンの多数民族、パシュトゥーン人は背が高く、力も強い。
そして、特にソ連侵攻以降、みんな武器を持っている。

「もし、アメリカ人がアフガンにこれば、いぶかしげな顔をして高圧的にこう問う、
What do you want?

もし、日本人とわかれば、にこにこして、
Oh! Japanese, welcome,welcome」


これは、シャンティ ボランティア協会のような団体や個人の努力の賜物であるが、何も特別日本がえらいというわけではない。

国と国の関係も、人間関係のようなもので、あの人とあの人は仲が悪くて、あの人の言うことは聞けないけど、あの人の言うことなら素直に聞ける、とかそういうレベルである。

まあ、ジャイアンはみんなに嫌われているのだけど。

* * *

国土が荒廃して内紛が続き、先進的な考えをもったリーダー格の人々は、みんな海外に行ってしまった。

こうして、人材難にいっそう拍車がかかる。
結局、国を創るのも人なのに。

「アジアの子供たちに教育を。」
というシャンティボランティア協会のコピーは(もちろん、各家庭レベルの幸福も追求しているだろうけど)、こういうところにスポットを当てているのだろう。

* * *

ところで、こうしたNGOにたいして、いわゆる右翼と呼ばれるひとの、

世界の経済需要は有限であり、そこへ供給し、利益を得られるものは有限である。
ゆえに、発展途上国が経済発展するほどそこに食い込んでくるのであり、日本の取り分が減る。したがって、発展途上国は発展しなくてよい。
あるいは、するのは仕方ないとしても、わざわざ日本の資源(人的、金銭的)をそこに、無償で投入する必要はあるまい。

といった批判を聞くことがある。

こうした批判は、一面を正しく主張している。
例えば、木材業界だって、日本は昔、合板の加工で儲けていたが、その利益は、韓国へ行き、さらに東南アジアや中国と移っている。
安めの木質資材(梱包材など)は、もう完全に海外だが、こうした流れがそのまま建築用材にもやってくるのは時間の問題である。

このまま行ったら、日本に仕事がなくなってしまう??
 
ん な、ことはない。
労働力の安さだけで売れる時代も終わりつつある。。

けれど、さらなる途上国の経済的発展によって、日本経済の様々なシーンで大変なことになるのも間違いはないことだ。

* * *

できるときに できることを ひとにしてあげなさい
         (ほぼ日刊イトイ新聞語録 「智慧の実の言葉」より)

つまるところ、人生とはそういう事な気がする、今日この頃です。
世の中 give&take であり、
人間は、成長し続けるもので、人生とはその過程である、と。
それは、国と国の関係も同じだろう、と。
[PR]
by taiji_nakao | 2006-05-02 06:53 | 考え事
2006年 04月 17日
サークルの運営 (1)
やりたいことがあって、時間がある → 活動に参加する

好きだからうまく回って欲しい
新しいことをやりたい やっている人が気持ちよくやってもらいたい
後輩に伝えたいことがある
→ 無理ない程度、運営に参加する

杉良は、まだまだ一部の人に負担が偏っているとはいえ、
けっこう、この理想に近い形になっていると思っている。

****

院生がビラを配ったり、ミーティングに参加していると、
「かわいそうだね」
という感想を持つ人が多い。

確かに、1,2回生が一番自由な時間をもっている。

が、上の方式に当てはめる対象は、
2回生だろうと、3回生だろうと、院生だろうと、社会人であろうと、定年後であろうと関係ない。

そうでしょ?
[PR]
by taiji_nakao | 2006-04-17 21:06 | 考え事
2006年 04月 12日
ノートは横にして使うほうが合理的である
と、ここ2,3年ずっと思っている。
根本的な理由は、人間には2つの目がついているが、それは縦ではなく横に並んでいるからだ。

認識論は詳しくないが、人間というのは、物事を関連性の中で理解する。
例えば、歴史年表があったとして、1560年に桶狭間の戦いで信長は今川義元を破ったが、その40年後に関が原の戦いがあって、徳川家康が実質的にやっと天下人になる。その40年間、じわじわと力を蓄えていたのか、とか。

ところで、年表が縦長にあると、上のほうをみているとき、下のほうが視界から消えてしまうが、横長なら、それより広く見渡すことができる。その年表がとても詳しいもので、縦長では1600年の関が原の辺りを見ていると1560年の桶狭間は見えないが、横長なら見えるかも知れず、そういう時、ああ、家康さんもじわ、じわっと来たのね、と気づくかもしれない。
そういった関連性の中で理解する。

* * *

が、世の中には縦長ノートばかりである。
長方形は縦長か横長にしか使えないのだから、もっとあっていいと思うがぜんぜんない。少なくとも、横に使うことを前提に作られたノートを見たことがない。

しかも、横長に使うことは、長方形の机を横に使うのと同じくらい自然だと思うのだが・・

* * *

もし、「文字は端から端までぎっちりかく」ということが前提なら、横書きは使いにくい。
それは、ワードを横に使うようなもので、便利ではない。
人は、「かたまり」で理解するが、A4の縦は「かたまり」として捉えるにするには長すぎる。

だが、それは途中で改行すれば済む話である。

* * *

特に、因果関係やその背景にあるものを考えるとき、紙は大きければ大きいほどよく、そして、その全体が見渡せるほどいい。
となると、まず、無限に大きな紙を仮定し、その視界に入る分の大きさの紙が理想、ということになる。が、現実には書類はA4に統一されつつあるのでA4を使うとしても、横に使うほうが目的にかなうことになる。

* * *

ところで、話変わって、最近人から言われた、目ではなく、耳と口に関する摂理。

「人間には耳は2つついているが、口は1つしかついていない」

[PR]
by taiji_nakao | 2006-04-12 10:43 | 考え事
2006年 04月 04日
英語教育について
英語教育を、小学校で、という話が進んでいるようです。

これを、Continental Breakfastさんが取り上げていて

*********
Commented by taiji_nakao at 2006-03-29 23:04 x
(本当は必要だけど)必要性を感じないのが、英語が伸びない一番の理由だと思います。先生も普段使うことがない、親もその周りの大人も。この状況では、いくらはやくから英語を教えても、何も変わらないと思います。

Commented by cobenhavn at 2006-03-30 00:33
taiji_nakaoさん
なるほど。でも徐々に変わりつつあるようにも思いますけどね。必要性を感じない、というのなら、国語や算数も子供たちは感じないまま学習しているんじゃないでしょうか(^^;)
Commented by taiji_nakao at 2006-03-31 02:06 x
確かにそのとおりですね・・・
*********

というやり取りをして、また、考えてみました。

More
[PR]
by taiji_nakao | 2006-04-04 17:33 | 考え事
2006年 04月 03日
就活雑感(2)
昨日のエントリーには、コメント欄以外(*)でもメールをいただいたりしました。

 自然体がやっぱ大事よ、
 大丈夫、4月から新しい業界に再チャレンジしたやつをしっている、
 このエントリーを見て、自分もがんばらないと思った

などです。

 ブログというものの、コミュニケーションの限界や、このブログがどう見られているのか、ということも少し知りました。

 何より、このエントリーを書いているときは、「振られた原因」を考えることに必死だった、という点が重要です。つまり、偏っている。

 一言で言えば、理想主義者にありがちな、現実認識の甘さがあったということです。その根には、その会社に行きたいという執着が少ないということです。
 これは難しい問題で、あまり執着を持つと、しんどくてやってられないのですが、「絶対就職する」とういことが前提であれば、もっと執着を持つべきだったのです。
 私は、どの会社に行っても、まあ、それなりの人生がある、という意識もあって、特に、はじめたばかりのころはそうだったわけです。
 それは、いいと思いますけどね。まあ、「こうすりゃあ、いい」なんてことはないですという、結論になってしまうのですが。

* *

私は、理想主義を辞めるつもりはありません。
そして、それに、長期的な成長を志向し続ける、ということもいつまでも追い続けたいです。

宣言ですね(笑)

具体的に、ちょっと挑発的に言ってみましょう。

「みんなの就活にっき」を読んでいる時間があるなら、本を読むんです。
面接練習にあけくれる時間があるなら、もっともっと多くの人と会うんです。
「面接官の本音」なんて聞きに行く時間があるなら、「舞台音声係の日常」を聞くんです。
グループディスカッションの練習をする時間があるなら、プロジェクト運営に参加するんです。

第一志望でない会社には、必要がないなら第一志望とは言わない
ect・・・・

* * *

そして、今、私は元気です。
今日は、同志社、工繊、精華、京産、佛大にビラ貼りに行きました。

いろいろな大学がありますね。。

では、コメント、メール、これからもよろしくお願いします。
[PR]
by taiji_nakao | 2006-04-03 18:42 | 考え事
2006年 03月 27日
「HINAMI」 (2)
HINAMIは、プロジェクトの名前でもあり、熊本を中心に一般の人たち、自分たちで作り上げよう、というコンセプトで運営されている。

京都上映会の実行委員長のしゃもくんは、大学1回生。山科から自転車で京大に通うつわもの。
当日配られていた資料のひとつは、一番下に日付と学生IDがついている。
学内の共有パソコンを使って印刷するとこうなる。(*個人に印刷枚数が割り当てられている。公共のお金を使っているわけでない点は強調)
会場は、ひとまち交流館、垂れ幕とか、そういうものはもちろんない。
つまり、手作りだということだ。

More
[PR]
by taiji_nakao | 2006-03-27 00:54 | 考え事
2006年 03月 18日
インタビュアーとコピーライター
コピーライターのすること

クライアントが、どんなどんな商品を、どうやって売ろうとしているのかをまず、調べる。
資料であったり、人に聞いたり、商品を見たり。
そうやって、背景にある文脈、クライアントの意向を汲み取った上で、それらを的確に表す、端的なコトバ、フレーズを探し出す。

* *

話を聞くときでは、聞かれる人は、どんどん話す。人が話すとき、それは大抵、あっちこっちへ飛ぶ。だからこそ楽しかったりする。

いってみれば、本をぱらぱらめくって、とまったページを読み、またぱらぱらめくり、という具合である。
うまく聞くためには、それをまとめていく必要ある。
一つのくくりとして、理解しないと文章にならないし、自分がどこまで理解しているかを伝えないと、相手もどこをしゃべったらいいかわからない。

会話の中でのひとくくりは、言ってみれば、本における小見出し一つ分である。
そのかわり、そこには小見出しはない。
小見出しをつけるのは、聞き手だ。
話をきいて、最後に「~ということですね」というわけ。
それが、的確で本質的であるほど、相手は納得する。

* *

こないだ、杉良で山主さんと打ち合わせに行った時、山主さんの一人が、
「作業中の事故も怖いが、移動中の事故もこわい。それは、作業地までの移動もそうだし、雲ヶ畑にくるまで、帰るまでも。一回でも事故が起こったらえらいことだ」
といった話をしていた、そこで私は、
「家に帰るまでが杉良」
と言った。これは、けっこううまいこと言えた場面。
もちろん、「家に帰るまでが遠足」のもじり。

相手が伝えたいことの本質を汲み取り(えてして、言いたいことを的確にはいえないもの)、的確な言葉に要約して、あるいは比喩を使って、「~ということですよね」と返せば、相手は理解されていると安心するし、あるいは自分の言いたいことがまとまってすっきりする。
そして、そうやって整理していく中で、聞きたいところを一緒に探って行ける。

インタビューとは、おおきなテキストにランダムに重なっている文章を少しずつ引き出してはまとめ、まとめていは、それをお互いに確認し、その中からできてたものも含め、興味深いトピックについて、引き出して、整理し、確認する。の繰り返しだと思う。

整理・確認は、まさにコピーをつくる作業だ。

コピーの場合、字として残り、あるいは、デザインとして残るので、クオリティが何より大事で、それゆえ、コピーを考える時間は苦痛である。

一方、聞くときは、場の空気を読むのが大事で、何より瞬発力、そしてタイミングが大事。
ただ、会話だといろいろな場面もある。(これについては、次のエントリーで)
[PR]
by taiji_nakao | 2006-03-18 18:19 | 考え事
2006年 03月 16日
日本を創った人たち
就活で大阪やら東京へよく行くので、電車に乗ることが多く、すると読書時間が増えるということになっている。
今はまっているのが、堺屋太一の「日本を創った12人」

日本独自の国民性、その考え方や価値観などのいわゆるパラダイムをつくることに大きな影響を与えた人物を12人紹介している。
ポイントは、優れた思想家という観点ではなく、「時の人」となって、その行動や考え方が結果として日本人のもっているパラダイムを規定することになった人物という観点で選ばれていることである。

More
[PR]
by taiji_nakao | 2006-03-16 17:12 | 考え事
2006年 02月 21日
自分の子供にはテレビのニュースは見せまい
今日も就活。午前一次筆記試験、午後説明会。

大阪から帰る阪急で、「堀江メールは偽者」の記事を目にする。
私がこのニュースに触れたのは、松山のユースホステルの部屋。
初めての合同説明会で、一日中7社回って、さすがに疲れて部屋に帰って、やれやれとテレビをつけたときだった。
ちょうど、民主党議員の生出演だった。

しかし、見ていて、どうも違和感があった。
キャスター2人とも、「確証はないんですよね?」と強い調子で迫るばかりなのだ。
もう一人いた、検察の人も「もし本当なら」と前置きした上で、その場合の問われる罪を羅列した後、「あくまで、本当なら」と、キャスターと一緒になって、根拠の薄いことの強調に回る。

まず、テレビが少しでもジャーナリズムというものを考えているなら、内部告発者は大事にしようよ。もし、ガセネタなら、こき下ろされるんだろうし。(それもどうかと思うが)
広い視点に立った情報を提供したいなら、そうするべきだ。

それに、偏りすぎ。以前、新聞で書いたような、聞く側にとって、本当に有益な情報を渡す気など微塵も感じられない。

文字通り、権力の狗ではないか。
権力が言っていることをそのまま、権力に守られたところで、一生懸命強く吼えているだけだ。

**

何より悲しく、また怒りを覚えるのは、内部告発者に対する配慮がゼロのことだ。
不穏な死も伝えられている中で、この種の情報を提供することは大きなリスクがあるだろう。
これは、安易に想像がつき、それゆえ、それを利用している可能性もある。

だが、何百万人に向かって、一方的に情報を伝えるということの暴力性を考えれば、その情報が発せられることによって、影響を受ける人のことはたとえ1%の可能性でも考慮すべきだ。
実際は難しいだろうけど、今回の場合のようなケースですら配慮されないのなら、いったい、どういう場合で配慮されるのだ。

上から圧力があったって、すこしくらい、告発者側の視点に立った、コメント、態度はとれないのか。それでもにんげんか。
こっちは、えらく腹が立って、次の広島では、3社しか回る元気がなかったのだ。(これはいいがかかり。)
[PR]
by taiji_nakao | 2006-02-21 18:43 | 考え事