カテゴリ:考え事( 67 )
2006年 02月 10日
ボランティア団体とサークル
一昨日、山仕事サークル杉良太郎のミーティングがあった。もう、そろそろ新歓の季節だけれど、昨年入ってきたメンバーから、紹介するにも、どういう団体なのか把握できてないし不安だ、という声があった。で、「杉良ってどんな団体?」と題して、ミーティングの場で、みんなにまず質問を書いてもらい、その質問に答えながら杉良をPRする、というワークショップをした。

この日初めての人が偶然にも二人いたのもあったか、「ボランティアではなく、サークルと名乗っていることの意味は?」という質問が多かった。
そして、メンバーのPRも「気軽に参加できるから、いろいろな人と出会えて楽しい」というのが多かった。まあ、一人が言うとそうかなあと思う、波及効果みたいなものもあるのだろうけど、なるほどなるほどとうなずく。
初参加の人もそれをとっても肯定的に評価してくれた。

ここでいう「ボランティア団体」の意味は、その活動の意義や内容を上が決めて参加者はその指示通り動く、という傾向があることを指す。そして、なぜじゃあそんな学校みたいなとこにくるのかというと、社会的意義に共感し、実践したいという思いが第一にあるからだ。現在、こうした団体は少ないと思うので、「旧来ボランティア」と呼ぶことにする。一方、ここでいう「サークル」の意味づけは、参加者がそれぞれ様々な動機を持って、とにかく楽しみたい、というのを基礎にしている。社会的意義は、いってみれば、それに付随するものである。サークルといっても、いろいろなので、自立的サークルと呼ぶことにする。

以下、こうした意味合いを持つ、旧来ボランティアと自立的サークルについて自説を書いてみる。

●運営に関すること
旧来ボランティアでは、強力な代表を中心として活動の枠を決め、その中に参加者が入ってもらうという形の運営をする。一方、自立的サークルでは、どんな形の参加も歓迎する。一度しか参加しないかもしれないし、飲み会しか来ない、MLを読むだけect とにかく、自分からやりたいと思っている人がやりたい分だけやってもらう。前者では、人を巻き込むために、いかに自分達の活動が社会的意義があるのかを訴える。後者は、自分達の活動がいかに楽しいかを訴える。
後者は、義務を課さないので、運営には難しいところもある。しかし、そのためにも、自立的にコミットする価値があると思われるように心がけることに尽きる。
また、学校のような活動になってしまう背景には、トラブルへの対応方針がある。これには決定的な対応策はないのでどの団体も悩んでいるのだが、とにかく「自分達が知っている。決まったことだけをやってもらおう」という意識が強すぎると、参加者は、特に意欲ある参加者はつまらない思いをする。逆に言うと、そういう空気が強すぎると、言われたことに従うだけの人ばかりになってしまう。自立的サークルの原則は、「怪我と弁当は自分持ち」である。弁当も実はけっこう重要で、主催者はできるだけ面倒な準備をしないで、参加者が自分で準備するというスタンスは続ける上で大切なポイントだ。
いまどき、リーダーがトップダウンで一部始終進めていくなんて時代遅れだと思うが、話によるとそんなところもあるらしい。

●社会的意義の話
こうしたどちらのタイプにしても、根底に社会的問題があり、それに問題意識を持っているからなのだが、この取り扱いは難しい。現代の問題は非常に複雑であり、本質をとらえるのが困難である。それに、たとえ本質をとらえていたとしても、複数の利害関係者が存在するから、単に正論を突き進めればいいというものでもない。温暖化にしても、生物多様性の問題にしても、専門家と呼ばれる人たちも今なお答えを追及しているのである。また、地域にはそこに暮らす人がいるし、関係する業者も多く存在し、そこには生活がかかっている。
しかし、人間は思い込みが強い生き物だ。無償でコミットしている人が、その中での苦労、苦しみを転嫁する先に社会的意義を持ってきたときは厄介である。本人には哀れとしか言いようがないのだが、害でしかなくなってしまうこともある。
また、こうした草の根団体の一番の強みが何かといえば、継続性にあると言える。大きな予算を持てる団体なら、大規模に社会を変える事ができる。しかし、草の根の団体は、そこに関わった人の根によって10年、20年のうちに少しずつ、しかし確実に効果を挙げていくものなのだ。
仮に、複雑な問題の本質をとらえるだけの専門性を持ち、さらに、利害関係者との折衝もできたとする。しかし、そんな人は一握りしかいないし、ついていける人もわずかしかいない。そして、問題自体も変化するのだ。特定の問題にスポットを当てれば、大変だとされていたことが、実はたいしたことなかったとか、解決するとか、そういうことがある。
では、草の根の一番の力、継続性を保つには何が重要かといえば、団体の魅力である。その活動に参加したいという、魅力。そのためには、運営している人たち自身が心から楽しめることに尽きる。
ならば、社会的意義については放っておいてよいかといえば、もちろん、そうではない。団体としての方向性は少しずつ変わることがあっても、ある程度同じ方を向いていなければ、人が離れていく。こうした方向については、リーダーがトップダウンで伝えるものではない。それは、活動の断片断片、人との会話、活動への姿勢、活動の内容等の中で自然に伝わっていくものである。というより、活動の中で自発的に感じるものだ。それに関することをしているのだから。その中で感じないようなのものはうそだ。もちろん、コアのメンバーが強くそれを理解しているだろうが、みんなで少しずつ共有し、作っていくものである。そうやって伝えられていくもので、それは、それを受けた個人が、内面から共感するものでなければ意味がない。
[PR]
by taiji_nakao | 2006-02-10 12:42 | 考え事
2006年 02月 07日
画一化したエリート達はブランドに守られ、気づかずして格差を広げていく
●●京大生協食堂にて
 キョウダイセイの男3人が、どうやら、有名進学校であるらしい出身校の話をしている。

「あの高校ってさ、教師の子供がやたら多いよな」
「そうそう、それぞれのクラスに一人ずつはおったな」
「あれは、ゆちゃくちゃう?」
「どうやろな。それはないんちゃうか。しかし、あいつらはいじめられとったな」
「でも、先生の子供がちゃんと勉強できるってことだし、それはちゃんと教育してることで、なんか安心できん?」
「そうそう。自分の子供も教えられんかったらダメやしな」
「うんうん。まだまだ、日本も捨てたもんじゃないな

○○京大付属図書館トイレ
 最近まで工事をしていた。大の方に久しぶりに入ると、お尻洗浄のビデがついている・・

▽▽工場の休憩時間に
 一昨年から派遣の規制が緩和され、短期の派遣が急激に増えた。職のない田舎から、借金を持った者、とりあえず来た者、甲斐なしの肉体労働達が集まっていた。派遣会社に天引きされても、給料は月20万ほど入る。そんなスズキの工場にて、25のいい歳した男が、

「ナカオさん、前借りしてないんすか?」

▼▼▼バイト先のスナックの女の子の反応
「キョウダイセイって本当にすごいですよね!!」
「テスト終わっても、明日勉強するんじゃないんですか?お酒飲んでもいいんですか?」

▲▲▲バイト先でのホステスの会話
二枚重ねの高級トイレットペーパーを買いに行って帰ると、ホステスの一人がちょっと興奮気味に、嬉しそうに話している。

「通ったのよ。ジムに入ってるって事が保障になったみたい。」
「へえ~ すごいねえ」
「でも、イズミヤのカードだから高島屋では使わないの。だってみっともないやんか」
(??)
「あれ、いっつも、送り返されてくるな。何度か、職業とか書き直したけどダメや」
「後から、申し訳ありません。と書いたのと、書類が送り返されてくるんやんな」
「そう。カード作りませんか? とか言っといてな。なら、最初から勧めるなっちゅーの」
 
[PR]
by taiji_nakao | 2006-02-07 23:04 | 考え事
2006年 01月 31日
新聞
 4ヶ月取っていた新聞、今日でおしまい。

 4ヶ月前に販売店の人がやってきて、(ちょっと新聞家で読んでみたいな)と思っていた頃で、しかも就職先に新聞記者というのも考えていたから、「安くするよ」「とりあえず一ヶ月」の言葉につられて、取り始めた。
 こういう人間がいるから、訪問販売は絶えないのだ。

 やはり、家で読めるというのはなんだかいい。毎日読むし。

 1ヶ月が過ぎた後、「一ヶ月分勉強しますから」という言葉につられ、三ヶ月の契約を結ぶ。

 新聞は、最近低調気味である。ネットを見ればわかる。情報はいっぱいあるもんね。新聞社自身もかなり充実したページを持っているし。
そういうこともあって、「これから新聞はどうあるべきか」ということを日曜版で特集していたことがあった。その中での「にちゃんねる」のひろゆきが、「新聞を読む必然性が必要」と言っていたが、なるほどと思った。(当然の話なんですが)

 そこで、自分なりにも考えてみたが(何しろ新聞記者になる気でいたのだ)、それは取材のみを仕事にする記者の存在にあるだろう。と思う。

 よく、メディアは中立であるべきだという議論がある。本質的なことはその通りなのだが、言葉どおりの中立であったとしたら、それはつまり、インターネットのような状態になるということだ。読みきれないほどの、そして無駄な情報で溢れるのである。
 
 なぜ自分がお金を出してまで新聞を取るのか、と言えば、
取材のプロフェッショナルの「フィルター」を通して世の中を見たいからなのだ。だから、ちょっと大げさに言えば、記者の持つ専門性、現状に対する分析・把握、未来へ対する展望、そして的確な切り口に惹かれるからこそだ。

 しかし、実際はどうだろうか??

 ここ三ヶ月の間で一番興味深かったのは、大阪市の助役の大平氏が議員から不当な圧力を受けていたという独白の記事である。
 それまで口を閉ざしていた大平氏が、朝日新聞に独白した、という形である。この、立場の弱い者が、しっかりと自分の意見を社会へ発信できるところは新聞の一つの存在価値だなあと思う。

 さて、それから数日後に、その指摘を受けた議員の一人が反論する記事が載った。その記事を見つけたときはすぐに飛びついた。が、
内容は、大平氏が「議員は~な嫌がらせをしてくる」ということに対する、そのことの意味を説明したものや、自分がしているのはそんなことだけじゃない、というものだ。
 そして、インタビューがまるまる載って終わりである。記者のコメントは一切なし。

 どんな行為にも、社会的に評価できない面もあれば、評価できる面もある。そんなことは言われなくてもわかっている。それに、この議員が「まっとうな」仕事をしているのは、議員として当然で、そんな具体例を聞いたところで何の役にも立たぬ。これでは子供の使いではないか・・・
そこには、記者自身の取材や知識、認識に基づく判断が何もないし、それを感じる質問もない。


 もっとがっくりきたのが、「ホリエモンショック」である。
ホリエモンが逮捕されてから数日後、一面に「ライブドアの軌跡を探る」という記事が載る。
なんと白々しいことか!!

 ホリエモンは登場してから、もう長く続くというのに、このタイミングで出てくるということの意味は、①情報操作 か②取材力不足 と考えるよりないと思うのだが、まさか天下の朝日新聞が警察が発表するまで、ライブドアの現状を把握できなかったということはあるまい。

 となると、①か。どう考えても、今回の茶番は展開が速すぎるし、背後で何かあるのは間違いないとして。「財界は去年12月にホリエモンを迎え入れた」(これは、奥田会長がこのことが軽率だったとコメントしたニュースを聞いたので) 「政府も全面的に応援していた」あたりから推測すれば、「おおきなちから」は当然堀江氏の弱点を知っていたが、(まだまだ利用価値あり。もう少し泳がせておこう)と考えていたに違いない。

 となると、新聞はその「おおきなちから」といったいとなっているということである。まあ、こんな話当然ですよってなもんかもしれませんが。

 がんばっている記者の方は多いと思いますが、読者としてのちょっと早急な結論は、

このままいけば、月3700円だして新聞を読む必然性は、ない、

ということになりそうです。


 
 
  
 
 
[PR]
by taiji_nakao | 2006-01-31 22:54 | 考え事
2005年 05月 29日
就職と学生団体
今日、CIAという団体主催の学生団体の交流会に参加していきました。

 衆議院議員の泉ケンタ氏など個性的な講師たちや、非常に意識の高い参加者に圧倒されました。
それから、ベンチャーをやってる系統の団体が多く、「山仕事サークル」というのはとっても異色でした。
 まあ、はじめからそうとわかっていたのですが。個人で話すときは、結局その珍しさには目を引かせても、深いところまで興味を持ってもらえず、興味のない分野のことに興味を持ってもらえるように話すのは難しいと痛感しました。

**

 ただ、違和感がありました。

 そりゃあ、分野・興味も、なによりタイプの違うので、あって当然といえば、当然なのですが、それだけでもない気もします。

 今日来ていた人はみんな成功者達で、つまりその紹介も、主張も、「やりたいことを見つけ、そのために熱意を持ってやっていけば、人はなんでもできるのだ」ということで、実際成し遂げた人たちなので、ほんと刺激になります。でも、えんえん続くとしんどいですね。

 それから、ベンチャーというのは流行ってます。学生の企業化というのがあります。

 これについては、自分自身、経営とか自己実現とかそういう本が好きだし、自分ももっともっと成長したい。それに、当たり前ですが、内定欲しいです。
 学生時代に人に、自分はこんなことやったといえることをしたい。

 以下は、それと矛盾するところ盛りだくさんますが、違和感があることを書きます。


 どうも、内定が学生生活の基準になってしまっている気がします。

 内定のためには、キャリアと実績(ともちろん、それによって高められた実力)が必要
だから、そのために、活動する。
 内定が取れると、時間があり、自信が生まれる。そして、残りの大学時代に何か大学時代にしできないことをしたい。

 これらは、内容的には共感できるのですが、。。

 自分で何が言いたいのか、この文章を書いていて、自分の中のもやもやがわかりました。

 これができる人って、ごく一部の人なんですよね。

 活動して、それが「キャリア」になるのはごく一部。

 それから、今のご時世、自分が納得できるところに就職できる人は限られてます。
その中で、よし、学生時代で最大の思い出をつくろうってことに、心から本気になれる中には、やっぱり、その後がある(納得のいく内定がある)ことが前提な気がします。

 だから、みんなができることじゃないと思います。


 学生のときはもちろん、就職しても好きなことをこつこつやっていく。

 自分の好きなこと・やりたいことと仕事とは、もちろん合わせたいけど、一致の度合いはまあ、運が決め、様々。そういうこともあるから、時間もあまりないかもしれないけど、仕事以外の活動として、途中止まったりしながらもちょくちょくやってく。

 むしろ、そういう形で関われるような活動が重要なんじゃないか、

 というより、自分はそっちに重きをおきたいと思っている、ということを確認したのでした。
[PR]
by taiji_nakao | 2005-05-29 00:45 | 考え事
2005年 05月 05日
自主的な組織(Ⅱ)ぷらす
前々回の「自主的な組織(Ⅱ)」にはいろいろとコメントをいただきました。

 自分で読み返しても、無理の多い文章だと思います。
しかも、言いたいこともわかりにくいので、ここで書き直してみます。

 まず、前提として、この前のエントリーに書いたように、私の問題意識として、

 客観的側面ばかりを強調し、主観的、間主観的な側面を疎かにしていることこそ、現代の問題の根底にある

 と考えています。
(ケン・ウィルバーの説明がぴったり来るので、これを好んで使っています。こう考えるきっかけについては次回に)

 ただし、現実とは客観的結果の積み重ねのわけで、これを否定したり、軽く扱ったりするのは、ナンセンスです。この3つの側面はどれも互いに還元できないものですから・・

 このブログでは、軽く扱いがちですね。それをコメントで指摘されました。

 自分が「うぶ」なことにきていると思います。

 親のすねかじって、生活しているんですから。最近特に、「自分がうぶ」であることを感じます。
ただ、もうしばらくうぶなところからでも、主観的、間主観的側面を強調することについて書こうと思います。

 本河さんのコメントに、
どんな組織もミッションを持っているはず とありました。

 その通りです。ミッションとは、
 今の問題にスポットを当て、それが解決された理想の状態を示すものです。
それは、客観的側面です。

 今の状態と理想状態のギャップをみて、それを埋めるためにはどうしたらいいのか?

ということです。
しかし、じゃあ、なんで今の状態を問題だと思い、理想状態が理想だと思うのか?

 というところをみていけば、最終的には主観的美、間主観的善に行き着くはずです。
だから、(客観的側面とは別に)主観的にその美を大切にしたいから、その活動に参加しているわけです。間主観的善にしても同じように。

 活動の中で、こうした、美・善を大切にすることが、非常に重要だと思うのです。

 本来、客観的な結果がないところに美も善もありません。
自分たちの、自分・自分たちの行為の及ぼす現実に気づかなければ、あるいは直視しなければ、ありえますが、これはまさに「自己満足」です。
 また、美・善を追求するからこそ、結果になる、そういう、お互い関係しあうものです。

 一方、一つの結果にこだわりすぎたために、美や善に反することになることは、残念ながらよくあることです。
 というより、今の社会全体が、客観的結果ばかりを強く要求するために、美や善がわきに押しやられてしまいがちです。
 
 それでは自発的な組織としての意味が薄れてしまうだろう、というのが私の意見です。
 
[PR]
by taiji_nakao | 2005-05-05 16:37 | 考え事
2005年 05月 05日
お金とは?儲ける事は善悪で評価できるか?
 「お金って何でしょう?儲ける事は善悪で評価できますか?」

という問いをtarudattebaさんからいただきました。

 コメント欄では書ききれないので、ここで書くことにします。

 お金とは、

 「現在の社会において、価値を生み出したことに対する対価」
だと思います。
 
 儲ける事は現在の社会に一定の価値を生み出し、それが評価されたということです。

 これ自体は善くも悪くもないことです。「価値を生み出し、評価された。」それだけです。
 
 ここで考えなければならないのは、

 第一に、あくまで「現在の」社会においてであることです。その現在の社会システムには問題も多いので、必ずしもフェアな評価でなはありません。

 第二に、評価の基準です。

 物事は3つのアプローチ、客観的、主観的、間主観的 があること。どのアプローチに対しても、他のアプローチの側面は持っているが、それら全てを他のアプローチに還元することはできない。

という、ケン・ウィルバーの考えを援用すると、
 評価も、客観的評価、主観的評価、間主観的評価があるわけです。

 したがって、生み出された価値の評価もこの3つの基準からバランスよく評価されれば問題ないのですが、実際はそうではありません。
 
 そもそも、普遍的な価値をもつお金は、客観的であることが求められます。

 とはいえ、お金の価値を決めているのは、人間なので、客観的評価だけでなく、3つの基準が幾分か統合されて、評価されています。

 しかし、グローバリゼーションの進行は、「客観的」評価だけにしてしまおうという圧力をかけています。グローバルスタンダードと呼ばれる、この「客観的」も、実は恣意的なのですが・・


 つまり、客観的評価である、お金の評価「だけ」を求めるという行為に問題があります。

**

以上を踏まえて、

 「お金って何でしょう? 儲ける事は善悪で評価できますか?」

「お金とは、現在の社会において価値を生み出したことに対する対価」であり、

 *1
「ある行為に対して、対価を払う、現在の社会システム自体が善か悪か」という評価はできる。

例えば、何もしないで、利子だけで莫大なお金を手にするのは、悪だと考えます。


次に、仮にそのシステムはそれでいいとするなら、
*2
「その方法で儲けるという行為を選択したことが善か悪か」という評価ができる。

 そこでのポイントは3つの側面、客観的、主観的、間主観的側面をバランスよく勘案したか。もっというと、主観的、間主観的側面はお金としては評価されにくいが、それでも選択する上で尊重したかということです。
 
**

 客観的、主観的、間主観的という言葉はわかりにくいので補足です。

 例えば、私は今日だんのういちに行って、そこで京大の院生がお世話になっているという農家で今日取ってきたと言う、大根菜という野菜を買ってきました。

 この野菜の評価を上の基準に従って分けると

*客観的評価

 新鮮である、量もまずまず、見栄えも悪くない、珍しい

もっと小さなレベルまで還元すれば、

 ビタミンX、~(よくわららない)が~グラム含まれている
 食物繊維~ エネルギー~カロリーなど

*主観的評価

 私は大根の葉っぱが好き 

*(間主観的と主観的ははっきりわけられない)

 同じ大学の同じ学部 話していて、何か買いたい気に 
 地域の野菜 こうしたイベントが盛り上がって欲しい

ちなみに100円だったので、私の中でこの評価を総計するともう少し払っても良かったです。
(って、どれくらいまで払ったかとなると・・難しいですが)


 
[PR]
by taiji_nakao | 2005-05-05 01:29 | 考え事
2005年 05月 03日
自主的な組織(Ⅱ)
 前回の続き、自発的な団体は「成果を第一に重視すべきか」ということに対する考え方を書きます。

*2 成果に責任を持つということを重視しすぎると、成果が見込まれなければできなくなりがちになって、活動が限定される。

私の考えでは、自発的な組織全てのミッションとして、「コミュニティの自立」が一番にくると思います。コミュニティというのは、地域もそうですが、ここでは「同じコンセプトを共有するものの集まり」という定義で使っています。

 グローバリゼーションが進行するに連れ、カネ、モノ、ヒト全てが一極へ集中しています。都市であり、大企業であり、資本であり。。

 そうした中で、人の生活が踏みにじられていく。というのが、大雑把ですが、現代の大きな構図です。

 そうした、力ではなく、人の想いを軸をおくコミュニティの自立こそが、そうした一極集中に対する、オルタナティブとして期待されます。

***

 とみたとき、コミュニティが現金収入を得ることは非常に重要であり、成果を追求することは必要なことではあります。
 しかし、自発的な組織にそれを一番に求めるのはナンセンスだと思います。やはり、商売とボランティには求められるものが違います。もちろん、はっきり分けるべきでもないのですが。

 私の考えでは、こうした組織(簡単に言うとNPO)が一番力点を置くのは、前回のエントリーに載せた、メンバーの幸せです。これは、その組織のコンセプトを大事にする、ということともいえます。(ここで、そうした事業体もあり得るのはその通りで、実際これからの時代はそうした企業・NPOが増えていくと思います。しかし、商売にならないNPO、組織の方が多いでしょう)

 さて、*現金収入を得る ことを目的に考えたときに、自発的団体(以下NPOと使います)と企業の役割はどうかを考察します。

 まず、企業は生産者であるわけですが、私はNPOは「生活者」という定義するのがしっくりすると思っています。まず第一にNPOのメンバーはほとんどボランタリーに片手間で活動しています。そこには、プロと言うより、「生活者」として参加しています。

 生活者は、NPOでの活動が商売として成り立つかどうかに責任を負うことはしません。(できないです。ほとんど)それより、生活者として、生産にも消費にも両方にかかわり、どちらにも商売のような厳しさを課さない。いわば、マーケターの役です。

 ちょっとわかりにくい書き方ですね。間伐材利用を例にとって見ます。

 今、日本中の森には人工林が溢れ、その大半は間引きにあたる、間伐がなされていないことが問題になっています。行政はこれを何とかすべく、間伐材の利用促進を進めています。そのためには、新たな間伐材の需要を創る必要があります。

 が、ほとんどうまく行っていません。
 当然だと思います。公共事業に使う材料ならともかく、林務に関わる人が一生懸命考えたところで、そんな需要を生み出せるとは思えないからです。そういうことを、大企業は大きなお金と専門の人材を使って、日夜やっている。それでも、なかなかうまく行かない。それを素人が、ちょっとがんばったところで、売れるものができっこないです。
 
 ここで、NPOなりの出番だと思うのです。とにかく、木を使ってみたい人、使いそうな人に呼びかけ、そういう「場」をつくり、材を提供し(あるいはその仕入れから体験してもらい)、自由にそれで「遊んで」もらう。そこに、「生活者」がからむことが重要です。

 もしうまく行けば、まず、作った本人が使う。それで、いいなと思ったら、友人にプレゼントしたり、ちょっと活動のPRを兼ねて(儲けにはならないが)、売ってみる。
 なんてことを、楽しみながらやる。儲けがでるとか、は後回し。
 プロセス自体を楽しんでいるので、成果(例えばできた商品)があまり実用的でなくても許せわけです。

 それで、「これは行けそうだ」というのがあったら、それを商売にすればいい。それだけの組織基盤を持っているなら、そのNPOがやってもいいが、そのNPOの掲げるコンセプトを共有した事業体が本格的な商売をすればいい。
 
 おそらく、今の時代でもっとも難しく、お金儲けで重要なセクターは、マーケティングでしょう。そこを、これだけ変化の激しい時代に小さな企業が自力でやるのは、大変なことです。

 そこにNPOが入っていく。というのが、「いかに(コミュニティが自立するための)*現金収入を得るか」という切り口で見たときの、NPOの役割だと思うのです。

 したがって、そのNPOに対して、「成果を出すこと」を第一に問うことは筋違いだと考えるわけです。

 ただし、ここでも触れていますが、もし有望そうな(事業になりそうな)活動を見出したとき、
(それまでが大変だと思うのですが、、)「そのNPOの掲げるコンセプトを共有した事業体がないとき」・・
 そのNPO自らが商売をしないと、「コンセプトを追求しつつ」(これがコミュニティの存在理由)、「現金収入を得る」ということができなくなります。

 この辺は次回のテーマになってきます。

 さて。。結論。

 コミュニティの自立を目指す以上、現金収入は欲しいし、できることならそういったセクターをもてればいいが、それは「商売」であり、必ず目指すものではない。
 できればやりたいというもの。

 あくまで一番大切なのは、コンセプトを大事にすることであり、メンバーの幸せである。
商売に関しても、最も重要な役割は「生活者」として関わる部分であり、運営・流通・販売といったすでにあるものをうるための働きより、商売にならないものを発掘し、評価し、広めるところに重きを置くべき。

 というのが持論です。

(でも、これ、専門家集団のNPOはこうではないですね。
[PR]
by taiji_nakao | 2005-05-03 02:06 | 考え事
2005年 05月 01日
自主的な団体に大切なこと
 先日、神戸市で行われ、主にまちづくりに関わる(主に)学生団体が集まった交流会がありました。主催した、3団体は非常に活発で、中には賃貸の事務所を持っているところもあり、刺激をたくさん受けてきたのですが、そのなかで、お金に関する議論があり、

*しっかりした活動をしているなら、お金は、取る気になれば取れる。しかし、その気がないように見えるがどうか?
*人件費も支払い、継続性がある活動でなければ、活動の恩恵を受けている人たちにとっては、むしろ迷惑になるのではないか?

という問題提起がありました。

*お金のこともきっちりしていきたい。
*自分たちがどこまでできるかを事前に知らせることは大切だが、必ずしも人件費の払えるような活動であることより、自分たちが楽しむことが重要だ。
*スタッフの費用(交通費等)は、自己負担にしている。それは、スタッフ自身が自分のため(成長、楽しみ)に来ているからだ。

といった意見がありました。

私はその場では答えられませんでしたが、このあたりの議論は日ごろからよく考えているところなので、

*1 自主的な団体(市民団体。学生団体)にとって、「その成果」も大切だが、むしろ「活動のプロセス」の方が大切である。

*2 成果に責任を持つということを重視しすぎると、成果が見込まれなければできなくなりがちになって、活動が限定される。

*3 こうした団体(以後団体)には、発達段階があり、いきなりお金の話をするのは適切でない。また、学生団体には発達に限界がある。(そして、本当に最近、この壁を越えようという動きが活発になってきているが。)

という視点から書いてみようと思います。

===============

 まずは、*1 つまり、成果よりプロセスが大事だということです。

 別の言い方をすると、お金で評価されうる、客観的な結果よりも、
必ずしも客観的には評価されないかもしれないが、メンバーやそこに関わった人たちにとって意味のあること(楽しかったり、充実していたり)であることのほうが大事だ、ということです。

 おそらく、上の*1~3で一番、議論の余地のあるところでしょう。

 今の世の中の大きな問題として、現在お金で評価されることしか大切にされない、ということがあります。

 これを解決するにはまず、現在お金として評価されていないものに金銭的な価値を与えるようにしていく、というのがあります。
 社会的企業、NPOというのはそうしたアプローチでしょう。
 今回の問題提起も、そうした観点からのものと言えるでしょう。

 しかし、もう一つのアプローチに、「お金でどうかはともかく、そのもの(団体の活動や製作物など)に価値を認める」というものもあります。
 活動が楽しい、自分が大切にしたいものを大切にできる、とか、そういうことです。
 
 お金に換算することそのものが不可能なものもあります。あるいは、本来換算すべきではないもの。

 現代人はとかく、「客観的評価」を気にします。それが、いくらの価値があるかということを第一に気にします。(お金を全て否定する気はありません)

 が、例えば、趣味の話とか、自分の時間、自分の服・車などが、「いくらの価値があるか」ってのは、一番重要なことではないはずです。

 一番重要なのは、本人がそうしたいか。それで満足かということでしょう。

 団体にとっても、まずはそこに参加している人が幸せか、というのが一番に来るべきだと思うのです。

 そしてその場合、これは個人差(ある人は、とにかく仕事をバリバリ進めたがり、ある人はゆっくり楽しみたいなど)があるのですが、その際、プロセスが大切だと思うのです。

 結果、一日3本の苗しか植えられなかったとしても、そこに来た人が自分の手で植えたこと、その木のことをちょっと学んだこと、植えてから深呼吸して目の前に広がる景色にうっとりしたこと・・・

 もし、結果しかみなければこうしたものは全部そぎ落とされてしまいます。


 「それは自己満足ではないか?」  という問いも当然あるでしょう。
 
 文字を素直に読めば、その通りを意味しています。本人が満足しているのです。それは大切で、素晴らしいことです。

 でも、もちろん、ここには、「他人に迷惑がられて」という前提があります。

 難しい問題ですが、

 関わる人と、コミュニケーションを重ねていき、自分に非があると思ったら、素直に認め、改善することを続ける。

 しかないでしょう。広義には、お金をもらうこともコミュニケーションの一つです。

 自分たちが、良かれと思ってしていることが本当はそうでなかった、ということもありうるでしょう。そのときは、素直にそれを認めて、改善する。
 
 コミュニケーションの例としては、「誰かのためにしている」団体の場合、「私たちはここまでしかできないし、あるいは、するつもりはない」ということも含まれます。やや、冷たい印象を与えそうでも、ちゃんと伝えるべきこともあります。

 私の所属している、山仕事サークル 杉良太郎ではいつもこのことに気をつけています。私たちの活動は作業ですから、山主としても助かるわけで、期待されてしまうところがあるのですが、あくまで、「作業を体験すること、より多くの人に体験してもらうこと」を目的としていることを、伝えています。

 期待させて、その気にしておいてから、「やっぱり無理です」というのはやってはいけないことです。
 

 結論として、

 自主的な団体にとって一番大切なのは、メンバーが幸せであるということ。
そのためには、プロセスを重視する必要があるということ。
 その場合、自分たちが良かれと思っていることが本当はそうでない「自己満足」に終わってしまう恐れが常にあるけれども、その対処法としては、常に関係者や幅広い人との対話を続けることしかないと言うことです。

今日はここまで。
 
[PR]
by taiji_nakao | 2005-05-01 19:36 | 考え事
2005年 04月 28日
流れにのること・流れをつくること
 またもや久しぶりの投稿となってしまいました。

 私は自分で何かやってやろう!なんてうそぶいて、独立したいと本気で考えたりします。といっても、何をどうするかまでは考えてないですが。

 一方でやはり、時代・社会の大きな流れというのがあって、自分もその中にいて、いろいろな縁があって、今の自分があるんだから、その縁を大切にしていくことこそが大切なんだと思ってもいます。

**

 21日に、京大内の環境をテーマにした団体を集めて、合同説明会を開きました。 (こちらで書きました)

 初日の12日には、夕方、11団体、スタッフが40人近くいる中で、10人ちょっとしか来なくて、寂しいものでした。
 もう一度、ビラまき、さらに当日の呼びかけを強化したところ、21日は参加数が40人近くとなりました。これで来なかったら、もう来年はないな。と覚悟していましたが、人が来て、盛り上がりました。

 今回は、多くの方に協力を得て、というより、11の団体が自分たちの団体の新歓のために、それから、ネットワークとしてやっていくことに賛同して、一緒にやっていきました。

 とはいえ、こんなことやるぞと言い出し、乗り気な人もそうでない人にも、「うまくいく」「ネットワークの力で、一つの流れを作っていこう」と呼びかけ、2月の頭からずっとやってきた、という自負はあります。

 ある人が、リーダーとは「可能から非合理な未来を約束する人」だと言っていましたが、
やはり、約束が果たされなければ、来年また約束する人の信用が失われるわけで、ある程度説明会に人が来ないと困るところだったのですが、最後の最後でたくさん来て、ほっとしているわけです。
 
 一つの流れを作れた(作り始められた)と思っています。

**

 単純な私は、同じようなのりで日本の林業のことを(そして自分の進路?)を考えていました。

 客観的にいって、(この上のブログで書いたように)今より良くすることはいくらでもできます。流通の問題は特にそうですね。中間が無駄だらけなのです。

 今、京都森と住まい百年の会というところで、府内で国産材を扱っている製材所を回っています。やはり今残っている人というのは、それだけの理由があるわけで、個性があって、勉強になります。

 と同時に、何がこんな非合理な状況を生んでいるかもわかってきます。そして、もう一つ、これは商売の話になってきます。
 既存とは違う流通を目指している、ということに他ならないからです。

 こないだ行ったところでは、「あんたらはボランティアか、商売か」とストレートに問われました。私自身、ポジションをどうおくか、ということは悩んでいました。

 ボランティアでやっているのですが、まあ、これは任意団体のやることではないですね。
私自身は、最初のヒートアップしいるころは、「ただのhotな虫けらでいたい」なんて、ブログでも書いてました。

 でも、流通やってる人は、ほとんど「変えよう」という意志をもっていません。(持っていたらとうの昔に解決しているのですが)

 例えば、製材所を回るという話で、組合連合会の人に相談したら、「どういうことだ」といって、えんえん愚痴を聞かされたり、商売といったって、たいした額でない(なれない)のに、ちょっとでも自分たちのところに異物が入ってくるのを拒む。

 ついでに言うと、この会の組織自体が脆弱です。(でなかったら、僕のような人間が単身組合の人に話をしにいくことにはならないでしょう) 

 と言う状況で、最近は「とにかく勉強させてもらう」というスタンスでいることにしています。
以前ほど、「変えてやろう」とは思わなく、思えなく、思わないようになりました。

 商売ということ、立場ということ、そして何より、社会というものは大きなもので、そう簡単に変わるものではないということ、などなどを「学んだ」わけです。

 立場というものがあって、何かを任されて、そのときから出発する、ということも必要です。

 具体的に言えば、あんたらなんでやってんの?と言われて、立場(そして収入)を抜きにして、「ただ自分がしたいからだ」と言い張るのは、難しい。

 基本的にそういえる人間になりたいが、しかし、「自分がしたい」ほかのこともたくさんあるわけで、困難で、理不尽であったらやはり続かないですよね。

 当たり前の話ですが。

**

 私が休学すると言い出した、二年位前に、誰かが「活動と、学問は別やで」といったことをいってました。活動はすぐ目に見える成果がでる。でも、学問は違う、と。
 これは、働くということもそうですよね。

 大きな、大きな社会の中にいるのですから。

 というわけで、就職するなら、半年後には就職活動が始まるという今、
 だから、縁が将来を決めるのだ
 なんて(他力本願?)考えたりしています。

**

 流れをつくることと、流れにのることは両方絡み合っているものですよね。

 で、どうなるんだろう・・???
[PR]
by taiji_nakao | 2005-04-28 12:17 | 考え事
2005年 04月 19日
社会をゆがませているもの
 久しぶりの投稿ですが、このサイトは死んでません。ペースはゆっくりになりそうですが、書きます。

**

=======================
努力し、成功したものはそれ相当の報酬を得て当然だ
=======================

と世の中ではとらえられていて(=ひとつのパラダイム)、「勝ち組」になろうとみんな必死です。
しかし、これが当然であっては困る、というのが今日の論点です。
(久々に登場で何じゃこりゃって感じかもしれませんが)

この意見には2つ問題があります。

1つめ。
===================
努力しない人は自業自得だから、ほっとおけ
===================
いいんでしょうか?

こう考える人は、「努力とは誰でも平等にできるものだ」ということ(=これもひとつのパラダイム)を前提にしていますが、世の中を見ればわかるように、そうではありません。
努力できる、というのは資質、もっと言えば、能力の一つなのです。

こうした人が減って、より多くの人が努力できるような社会にしていくべきですが、おそらくいつの時代にも一定数以上いますし、今の時代は減るというより、むしろ増えているようです。

能力のあるものはどんどん富み、無いものはどんどん貧しくなる。しかも、こうした「努力できる」いいかえると、「希望を持てる」という考え方=「パラダイム」は、家庭環境に大きく左右されるため、ますます、持つ者と持たざる者の格差は広がってゆく。これが、「希望格差社会」でしょう。
(自分では読んでいませんが、いくつかのレビューを見るに)

今どんどん、これが進行していますが、その根本に「努力しない人は自業自得だから、ほっておけ」という考え方=パラダイムが大きく作用しています。

2つめ。
=========================
成功したら、どんな額であれ、それ相当の報酬を得て当然だ
=========================
例えば、経営者になって大成功を収めれば、億単位のお金が入ってくることもあるようです。

素朴な疑問。

そんなにもらってどうするの?

日本は伝統的に経営者などのエリートの報酬は小さいようです。世界的にみれば、トップはもっともらっているようです。しかし、最近堀江社長のように、「成功し、巨額を手にする」ことが一般的な考え方=パラダイムとなりつつあります。

しかし、まあ、大目に見て年収1000万までならわかりますが、例えば、億を超えたら、3億だろうと、20億だろうと変わらないと思うのですが、どうでしょうか?

しかも、一方では一生懸命、社会のためにがんばっていて、ほんの数万がのどから手が出るほど欲しい人がたくさんいるのに・・

例えば、以前紹介した、スポーツ少年団をボランティアで教えているコーチは、「一銭の支援もない。それどころか、サッカー協会なるものは、会費だと言って、個人から巻き上げる」と嘆いていました。

世の中のNGOの人たちは、特に日本では、人件費を出す助成金が少ないため、生活、かつかつで仕事をしています。大きな貢献をしているにも関わらず。そんな人にあと、月2,3万あれば・・

***************

日本は最近、変わってきてます。
ライブドア堀江氏はその筆頭でしょう。


今まで、堀江氏のような、「できる人」にとって日本はありがたくない(あるいはなかった)ことはあり、それが、日本の社会の活力を奪っていたのは確かです。

日本は教育から「みんな平等。出る杭はいらない。杭が出ても打ったり、あるいは見てみぬふりをする」という方針を貫いています。せっかく個性を持ち、能力(これには努力できる能力も大きく関係する)を持っている人がいても、見てみぬ振りをする。そういう人が報われない。

それはおかしいだろう、と才能を持った人はみんな思っています。

いつか、NHKの「喋り場」で、バイオリンのプロの高校生が、「自分は努力して、高いクオリティを維持しているのに、ただ授業に来ている人と同じ評価、いやむしろ、協調性がないという理由で評価が下がるのはおかしい」と憤慨していましたが、うなずけますし、日本中で起きていることでしょう。

ここで、重要なことは

(努力し、)成果を上げている人をしっかり評価すること

です。

 一回も練習に来なくても、100メートルを10秒台で走れたら、その人の運動能力はすばらしいと評価するのです。協調性も大切ですが、それはまた別の評価です。

そして、もうお分かりでしょうが、

評価する=報酬 である必要はない

のです。

例えば、トヨタの奥田会長に、なぜそんなにがんばる?
と問うていけば、決して、「お金のため」だけではないでしょうし、(彼はもう十分なお金をもっているでしょう。全く知りませんが)むしろ、トヨタの発展、そして、日本の発展を願って働いているのでしょう。

立派じゃないですか。それなら、もう一歩先に行ってください。

「もう、たくさんお金もってるから、いらない。欲しい人に(きちんと評価するシステムを作ったうえで)あげます」って、言って欲しい。

今の世の中がいびつな原因の一つに、「お金を得ないこと=個人の趣味 それをやってる人 遊び人」という見方=パラダイムがあります。
具体的に、壮年期の人(特に男性)が例えば、無報酬の市民活動に昼間よく参加していれば、周りから無言の圧力がかかるでしょう。
 たしかに、売れそうにも無い絵を描き続け、仕事をろくにしなければ、そうした評価と見合うかもしれません。

 でも、その人は家族を養う収入もあったとして、どうして、せっかくの「想い」を持ってやっていることに対して、そんな「冷たい目」で見なければならないんでしょうか?
 
 もし、奥田会長が無報酬だとして、そんな見方をしますか?

 **

 話を少し戻します。

かつて、みんな生涯自分の地域を出なかったころ、地域のリーダー、できる人は、自分の地域のために働きました。もちろん、ある程度の収入はあったかもしれませんが、しれたものです。
そうやって、できる(努力できる)人がそうでない人も含めた、地域のために働いて、世の中が回っていたと思うのです。

今はどうでしょうか?

できる人は、大企業に集まります。あるいは、最近は起業という手もあります。いずれにせよ、できる人があつまり、自分たちのために働きます。

あるいは、コンサルなんかいい例ですね。

社会的にみて(というか、より多くの人が幸福になるために。そして、それはコミュニティの自立にあると考えている)ほんとにコンサルを必要としているのは、小さな起業だと思います。

もちろん、中小企業診断士も活躍していますが、世の中の優秀な人材は、大手のコンサルに集まっています。

そして、大きな企業のために働く。

優秀な人が集まって、自分たちの利益のために働く。

そりゃあ、儲かるでしょう。

でも、それでいいんですか?

アメリカは今、空前の好況だそうで、雇用は伸びているそうです。
アナリストは、「インフレが心配だが、大丈夫だろう。いい調子だ」と言っています。

しかし、一方で実は失業者も増えています。

それで、「この調子だ」って言ってるのです。

努力しない者は自業自得。
成功したら、いくらでもお金をもらう。

こんな社会、もう、たくさんじゃないですか?

***

どうやって、変えるか?

このエントリーには、意識的に「パラダイム」という言葉を使っています。

社会を規定しているもの、、
それは、パラダイムです。

今の時代、本来、パラダイムはもっともっと自由になれます。

勝手に規定されているのです。

もっと、理想を望み、それに見合ったパラダイムを持てるはずです。

そして、それはいつか、実現する。。

そんな理想主義者の長文でした。
[PR]
by taiji_nakao | 2005-04-19 10:10 | 考え事