カテゴリ:考え事( 67 )
2005年 02月 14日
プロセス
 今日は、マネジメントに関する話を書きます。

 私がマネジメントという概念を知ったのはちょうど2年前です。それ以前は、「そんなのいらない」と思っている口でした。

 そのとき、所属している団体の引継ぎがあったのですが、引き継がれる側と、引継ぐ側で、「できる、できない論」的な、とにかくつらい雰囲気になり、お互い、ケンカのような態度になってしまいました。
 ほんとにしんどかった。
みんな、この団体に対して熱い思いがあるのに、それが返ってあだになってしまう・・想いだけではダメなんだ。とうのを心のそこから思ったのです。

でちょうど、その先輩に組織論やらを勉強している人がいて、その辺の影響を受けて、そうした本を読むようになります。

 初めて読んだのが、「問題解決ファシリテーター」この当時出版されたばかりでしたが、取り寄せて買いました。

 良書だと思います。初めて読んだマネジメントの本がこれだったのは、幸運だと思っています。先日、2つ下の後輩がこの本をみんなで回し読みしているんだといっていて、それで、回ってこないといっていたので、貸すんですが、なんかうれしい。

 さて、それから「本を読んで判った気になるワナ」も経験しつつ、2年が経過しました。

 本もたくさん読みましたが、最近思うのは、マネジメントとは、社会を経営という視点から見た学問の総体であって、それは無限の広がりがあるということです。

 まあ、そんなわけで自分はいつもその一部にいるに過ぎないと思うのですが、特にミーティングに関してはいろいろ考えるところがあるので、書こうと思います。

**

 いきなりですが、僕はミーティングはアートになりうると思っています。

 いかにいい雰囲気の中で、意見を引き出し、やる気をおこし、結果を出せるような方針を決められるか?

 非常に難しいですが、やはり、理想に近いな、っていうミーティングになるときもあります。
(これは、当然ながら参加者のモチベーション、レベルによるところ大なのですが・・) 

** 
 多くの人は、ミーティングを必要悪だと思っています。

 実際それは一面だと思います。

 何のためかといえば、イベントの企画なら、その当日とか、終わったあと、つまり結果なんだというのはわかります。

 でも、そのためにいつも面白くもなんともないミーティングを重ねるのはしんどくないですか?

 お金のためでない、市民活動ならなおさらです。

 結果だけでなく、そのプロセスも大切ではないかと。

**
 もっと、抽象的な話にします。

 人生って、プロセスですよね。

 生を受けてから、死ぬまでのプロセス。

 死んだときにいくつの勲章をもらったかっていう、「結果」のために生きている
っていう側面もあるでしょう。

 でも、それが全てじゃあない。やっぱり、大切なのはプロセスじゃないかと。

 まあ、そう思うわけです。
**

そう考えてたときに、やっぱりミーティングというプロセスを大事にしようって気に
なりませんかね。

(つづく)
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by taiji_nakao | 2005-02-14 22:37 | 考え事
2005年 02月 08日
生物多様性考(Ⅵ)
 実際のところ、今の自分の知識では、生態学ではどこまでわかっているのか、どこまでわかりそうなのか、ということもわかりませんし、どうしたらいいのか?という決定打はありません。

 しかし、ネガティブなまま終わるのは面白くないので、これからどういう方向で考えていうべきなのかを書いてみます。


 最近、ケン・ウィルバーの「統合心理学への道」に偶然出会い、強い感銘を受けているのですが、この人の統合的なアプローチをここに当てはめてみます。

 彼は、全ての現象は「私」「私たち」「それ・それら」という側面を持つといいます。そして、それらは互いに還元することができない、と。
 しかし、現代社会は「それ・それら」の側面からのアプローチだけを強調しているためにおかしなことになっている。

 実は、この「生物多様性考」で考えてきたアプローチもこれに他なりません。つまり、客観的に見て、(あるいは自然科学的に見て)、生物多様性が低くなるということはどういうことなのか。生態系を「それ」としてみて、さらにそこに「それ」としてのヒトが生活するには少なくともどのくらいの多様性が必要なのか、といった視点で論じていたわけです。

 しかし、どうやら、それだけでは限界があるということです。

 「私」「私たち」という視点からのアプローチも必要なのではないか?

 「私」からのアプローチとは、すなわち、私は、生物多様性を大切にしたいと思うから、大切にするということです。

 自分の美学として、そうするわけです。当然ながら、このことは数値化できないですし(=「それ」としてとらえられない)、したがって経済的価値にも変換できません。

 「私たち」というアプローチは、つまり、文化、道徳などと呼ばれるもので、人と人の間で、大切にされるものです。
 例えば、あるコミュニティの人々は、里山の風景を愛し、それを大切にするということ。これもまた、現代では価値がおかれなくなってきているものです。

 **

 ウィルバーの理論は、実際自分でも消化しきれていないので(最後の「私たち」の文章が弱いのもそのため)、ある人にこの話をしたら、「自分の言葉になっていないで使っている」といわれ、その通りだなあと思いました。

 しかし、このアプローチは普遍的で有効だと思っています。

 当然ながら、「それ」のアプローチも重要で、生態学も今後世界中の研究が統合され、次々と解明されていく中で得られる知見がこれからの「新しい、人と森の関わり方」を探る上で大きな助言を与えてくれるはずです。

 しかし、現在見失いがちな、他の二つのアプローチ、「私」「私たち」にも価値を見出していくことこそ、今後進めていかなければならない方向性だと思います。

 というわけで、つたない議論でしたが、第一回の生物多様性考はこれにて終了です。
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by taiji_nakao | 2005-02-08 23:15 | 考え事
2005年 02月 08日
生物多様性考(Ⅴ)
 今までの議論を寓話にしてみました。

**

のび太が学校の野外遠足に出かけたときの話です。晴れた空の下、
芝生が広がる丘で自由行動の時間になりました。
いつものメンバー
(ジャイアン、スネ夫、しずかちゃん、ドラえもんもなぜか一緒)
で歩いていると、ちょっと珍しい教会がありました。

行ってみると、なんと!お菓子でできているではありませんか。
食べてみると、これがまたおいしいのです。
中は見た目、教会そのものです。
一通り食べてしまうと、
お菓子にも飽きてきたので、中を探検し始めました。
しばらくして、スネ夫が隠し階段を発見しました。
おびえるのび太をよそにみんな上り始めました。
のび太もしぶしぶ続きました。
どうやら屋根裏部屋につながっているようで、
階段は思ったより長く続いていました。

上り終えると、屋根裏部屋もまた珍しいお菓子でできてたので、
みんな手にとって食べ始めました。
しずかちゃんも食べていました。
しかし、しばらくして、
のび太は屋根が揺れていることに気づきました。
いや、屋根だけじゃない、
この教会そのものが揺れているじゃありませんか!
「お~い、みんな。この建物揺れてない?」
のび太は怖くなってきました。でも、みんな気づいていないようです。
「のび太さんってやぱっり怖がりね」
としずかちゃんも笑っていますし、
ドラえもんも笑顔でどら焼きをほおばっています。
でも、のび太はやっぱりゆれを感じるのです。
しかもそのゆれは強くなっているようでした。

そのとき、のび太の頭の上に、
フリスビーくらいの大きさのせんべいが落ちてきました。
のび太の頭には目に見えるほど大きなたんこぶができました。
みんな笑いました。のび太は、痛いのをこらえながら、
「ねえ、みんな、ここあぶないよ」
と訴えました。きっと、このスネ夫が食べているせんべいも、
建物がもろくなって落ちてきたんだろうとのび太は思いました。
でもみんな、「きっと風のせいさ」といいます。
このころになると、
みんな建物がゆれていることには気づいていたのですが、
それも風が吹いているからだろうと思っていました。

そわそわするのび太は、下の様子がのぞける穴を見つけました。
屋根裏部屋はけっこう高いところにあったので、
びくびくしながら覗いてみました。
すると・・下は生徒たちでいっぱいではありませんか!!
みんな思い思いのお菓子をほおばっています。

のび太がふと見上げたとき、
屋根の揺れはいっそう強くなっているような気がしてきました・・・

**
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by taiji_nakao | 2005-02-08 01:35 | 考え事
2005年 02月 06日
生物多様性考(Ⅳ)
 さて。1日空いてしまいましたが、続きです。

 前回までに私の作ったレジュメを載せてきました。
この、レジュメを使った勉強会で、「しかし、生物多様性が重要であるということは、その理由の問えない、倫理的な問いなのではないか?」という意見がありました。

 その場ではすぐに答えられなかったのですが、この問いの意味をたどっていくと、どうやらこの意見は正しいと言えるようです。

 つまり、「ポスト自然主義」もほとんどの場合、「生物多様性が重要である」という倫理観というか、価値観を持っているということです。
 口で、は「生物多様性のために里山を守るって、ちょっとおかしいんじゃない?里山は、人間が利用してきて、結果的に生物が多様だったに過ぎないのだから」
なんて言ったって、やっぱりいわゆる「自然を守りたい」って気持ちが根本にあるからこそ、こういう問題に取り組んでいるに違いないから。

 では、もう一度、自然保護主義とはどういうことなのかをみてみます。

 一番おっきな理念、
「生物多様性は重要だ」が、まず、ある。

ここまでは、環境問題に関わっている人は、ほぼ全員の一致するところでしょう。

ここからです。
では、この理念を意思決定(つまり、政府の政策決定から、地方公共団体の政策決定、あるいは林業会社の年間計画の決定など)にどう反映させるか、ということが問題になります。

 しかし、「生物多様性は重要だ」という理念だけでは、生物多様性に、お金などの経営資源をどのくらいコミットメントするのかということは規定できないわけです。

 そこで、この理念よりもう一つ次元の低い目的を設定する必要があります。

 別の言い方をすると、どんな生態系を目指すのか(どんな生態系が健全なのか)ということです。

 得てして多くの自然保護主義者はこの目的を設定せず、無限大のコミットメントを要求します。
 これは、非現実的です。なぜなら、人間に必要な要素は生物多様性だけではないからです。現代社会で生きていくためにはお金が必要です。マクロで見れば、雇用の問題。コミュニティは、文化を持っています。これも大切なものです。etc・・・

 理想的な意思決定においては、このような多くの要素をどれも尊重できることを目指さなければなりません。

 アメリカのある自然保護主義の団体は、「マダラフクロウが安定して生息できる保護地域を確保すること」をその目的にすればいいとします。

 これは、無限大に「自然を守れ!」というよりはるかに現実性のある提案です。
 しかし、団体の意図としては、「無制限に保護地域を拡大したい」がまずあって、生態系ピラミッドの頂点に位置するフクロウが生きるためには一定以上の面積が必要であるから、大面積が保護地域に指定できる=いいね。と考えているようです。

 仮に、この主張が「マダラフクロウが安定して生息できること」を目的にし、その根拠を「生態系の頂点にあるフクロウが安定して生息できるということは、それ以下の生物も安定して生息できるとみなせるから」とすれば、意思決定において尊重される可能性があります。

 生物多様性考(Ⅲ)までで主張してきたのは、この生態系の健全の定義を、
「自己(人間)の存続できる環境」としたことに他なりません。

 今、これが揺らごうとしているから、と。

**

 しかし、この主張の根拠も非常に怪しい。マダラフクロウより怪しい。

 いったい、何種あったら、人間は存続できるのか?

 そもそも、ほんとに生物多様性が失われて人間の生活に重大に支障がでるなんて言えるんかいな。

 生態学は残念ながらこの問いに答えることはできない。

 あまりにファクターが多くて複雑であるから。

 しかも、国家財政にはどんどん余裕が失われている。

**

 今までの議論は、全く現実に合わない、机上の空論に過ぎないのだろうか?


 
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by taiji_nakao | 2005-02-06 19:09 | 考え事
2005年 02月 05日
生物多様性考(Ⅲ)
 3回目です。

いままで、

「1.意味不明な生物多様性議論」では、従来の生物多様性の重要性の説明が不十分であることを、

「2.人間の生活は生態系に依存している」では、普段は意識されることはないが、人間は生態系に依存していることを、

「3.生態系は奇跡」では、生態系は奇跡的に成立していることを、

「4.自分の問題としての生態系保全」では、生態系保全という問題は決して遠くの話ではないことを、

説明してきました。

これからは、生物多様性の意味の説明に入ります。

これ以降は、先に紹介した、「生物多様性の意味」 ダイヤモンド社 を参考にして書いたものです。この本には、豊富な事例が紹介されているので、興味がある方はぜひ読んでみてください。

**

5.生態系には「質」がある

 生態系の機能

*水
*土壌
*植物の生産
*土地を形成
*気候・大気を形成
*生物間相互作用

*植物の生産力

一年の生産量
 同じ条件の土地でも、生物が多様な方が生産力が高いことがある。極端な例だが、トウモロコシを単一で育てるより、クローバーと一緒に育てる方が、50%収穫量が増えるという。多くの研究の事例から、10種程度までなら、植物の種数が増えるほど確実に生産力は伸びるといえる結果が出ている。但し、10種を超えると頭打ちになるという。

安定性
 生物を取り巻く環境は変化する。例えば、降水量は年々変わるし、火事や地震などで大きな変動があるかもしれない。また、気候の変動は過去何度も起きている。(何万年という月日をかけてだが)
それに伴って、植物の生存を限定する要素、光、気温、降水量、土壌・・などが変化する。すべての要素に強い種というのはなく、ある種は光の弱いところでも成長でき、ある種は降水量の大きなところで他より早く成長できるかもしれない。
ある土地においては、その土地の環境の中でも今現在の状態に強い種というのは確実に存在し、その種が多数を占めることになる。しかしながら、人間が手を加えない自然の状態なら一般に、その中でも多数ではないが生きている種というのが存在している。これが、つまり生物多様性の一つの意味である。
環境が変化したとき、それまで多数存在していた種は生存が困難になることが多い。それは、それ以前の環境における、限定する要素のうちのどれかに特に強かったわけで、その分ほかの限定する要素には弱いからである。そのとき、生物多様性が高ければ、それ以前は細々と生き残っていた種が今度は多数になるのである。しかし、生物多様性が低ければ、その環境に適応できる種はいないかもしれない。

 例えば、ミネソタのシーダー渓谷のプレーリーではやせた土地で草原が広がっている。ここに、肥料を与えると生産量は増加するが、植物の多様性は減少する。あるシーズンに、旱魃が起きたが、肥料を与えていない土地(生物は多様)に比べて、肥料を与えた土地ではそのシーズンの収穫は4分の1になり、元の生産量に戻るまでに4年を要した。
 
 植物の生産以外の機能、水、土壌、土地を形成、気候・大気を形成、生物間相互作用においてもほぼ、同様なことがいえる。すなわち、10種程度までは数の増加ともに機能が上昇するがそれ以降は頭打ちとなる。しかし、多様なほど環境が変化したときに対応して、その機能を発揮できる種が多く存在することになり、その生態系は安定する。と。

6.どういうスタンスで生態系に臨むべきか?

危機はすでに進行している
 いまさら挙げるまでもないが、乾燥地域での塩害、砂漠化、熱帯林の減少といった土地の劣化の問題は世界で進行していて、人間が存続することが難しい地域がすでに出ているし、今後さらに増加することは間違いない。

自然は放っておけば回復する?
 破壊の程度によるが、例えば皆伐をしてもすぐに陰性の樹木が生え、数十年で元の極相林に戻ることもある。しかし、一般的には皆伐をすれば土壌は失われ、その土壌を回復するための、教科書的な遷移をたどることになる。土壌流出の量や、環境にもよるが、今一般に砂漠化といわれている土地でも、「自然に回復」するのだが、それは数百年~千年のオーダーである。発展途上国で、アグロフォレストリーを普及する際に、10数年間木が育つまで収入が得られないのを待てずに単一栽培を転換できないことを考えれば、100年近くかかるのでは、いくら回復したとしても、「放っておけばよい」ということにはならないだろう。

どんな状態がいいのか?
ある地域では草原化が問題になり、ある地域では低木の進入が問題になる。ある地域ではゾウが減り、ある地域ではゾウが増えて困っている。確実にいえること。多様であることがいいということ。人間が手をつける前の状態は、今まで何万とか場合によっていは億といった単位の結果成立している以上、それだけの意味があると謙虚になるべきだろう。人間が生態系について知っていることはあまりにも少ない。これは、外来種問題を考えるときの基本原則だと思われる。

7.自己の保全のための生物多様性保全

*人間は生態系に依存して生きている 
*生態系には質があり、それは生物多様性によって表される
 
よって、

生物多様性保全 = 現在危機にさらされている、人間の生存基盤である生態系の健全化 
→ 現実的に必要

ポスト自然保護主義を越えて
 IUCN(国際自然保護連合)の第三回会議が昨年の11月に行われ、約16000種が現在絶滅の危機にあると勧告した。過去400~500年で絶滅した種は約800種といわれているので、恐ろしい数字である。
このままいけば、生態系が機能を果たせなくなってしまい、人間が存続できなくなる日が来るのはほぼ確実といえるだろう。
こうした現状を考えると、やはり、現場で第一産業等にかかわる人間も、「結果的に自然が保護されればよい」といわずに、生物多様性保全を活動の第一理念のひとつに加えて、具体的な行動をとることが求められている。

**

これで、勉強会に使った資料は全部出ました。

しかし、この説明にも、実は限界があります。

したがって、話はまだ続いていきます。
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by taiji_nakao | 2005-02-05 01:44 | 考え事
2005年 02月 04日
生物多様性考(Ⅱ)
  まず、*お詫び
一昨日のブログで、「日本のチップ消費量はなんと2400百万㎥!(つまり24億㎥)」などと書いていましたが、02年日本の木材消費総量は8800万㎥なのでそんなはずはありません。誤読です。正しくは、3400万㎥。勉強不足です。こんなミスをしてはいけませんね。

 さきほど直しました。一昨日来てくださった4人の方(少ない・・・・)すみません。

 さて、気を取り直して、昨日の続きです。

 これは、いわば、生物多様性への論理的なアプローチといえます。
 今の自分には、その限界も感じていますが、続けていきます。

**

3.生態系は奇跡

地球という惑星では、普通なら生物は生きていけない
 「水の惑星・地球」と言われ、地球に水があったことや太陽との距離が離れすぎず、近すぎずちょうどよかった、地球はそんな奇跡に恵まれた星。というイメージは一般にある。しかし、たとえそれだけ「好条件」であっても、まだ生物にとって地球というのは決して豊かな地ではない。堅い岩がむき出しであり、日照りは容赦なく照りつけ、たまに降る雨はなんのさえぎりもなく降りつける。やわらかい土があり、木々が直射日光や雨を遮り、水を蓄えることでやっと生物は生きていける。

生態系は一切無駄なく循環する
 先にあげた「人間系」では膨大なエネルギーを使って、やっとまわそうとしている。しかし、生態系は人間がこれだけエネルギーを使ってしていること、水、食料生産、温度調節、廃水処理・・の一切を太陽光のエネルギーのみでまわしている。
すべての生物は自分が生きていこうとするだけでこの精密なシステムが成立しているのを思うと、奇跡としか言いようがない。

4.自分の問題としての生態系保全

生態系の捉え方
 生態系を捉える範囲としては、地球レベル・気候区分レベル・流域レベルetc・・といろいろなレベルがある。
地球上にあれば、完全に閉鎖系というのはありえず、その多寡はあっても、どの生態系も外の生態系と影響を与え合っている。

生態系保全の捉え方(これまで)
 これまで、生物多様性保全というと、例えば、白神山地の場合、生態系レベルとしてこの一帯をしたのはいいが、あたかも白神山地を切り取り、天空の城ラピュタのように、「中に浮いた白神山地の生物多様性をいかに守るのか」というように考えてこなかっただろうか。

生態系保全の捉え方(これから)
 当然のことながら、白神山地は本州とつながっている。決して自分とは関係の途切れた空の上の話ではない。ある生態系の機能が衰えたとき、自分の住む地域に近いほどその影響は大きくなる。しかし、どんなに離れていようとも、たとえ地球の反対側であっても、必ず自分たちに響いてくるということを忘れてはいけない。

**

まだ、生物多様性という言葉が出てきませんが、明日に続きます。
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by taiji_nakao | 2005-02-04 00:05 | 考え事
2005年 02月 02日
生物多様性考(Ⅰ)
 環境問題のことを考えていると、生物多様性という言葉はよく聞く。そして、確かに、多くの種が絶滅していくのはまずい状況だと思う。
 でも、例えば林業の現場なんかを見てると、そんなこと言われたって、気にしてる余裕ないし。

 農業でも同じような状況だと思います。

 もう少し過激に言えば、そんなこと言うのは、現場を知らないやつらだろ、なんて思ってしまう。

 というわけで、生物多様性について考えてみます。
 
 これは、前に杉良の勉強会で使ったレジュメです。

 まず、これから始めます。

 なお、このレジュメを作るにあたって、
 「生物多様性の意味」 ダイヤモンド社 藤倉良を参考にしています。

 というより、この本を読んで刺激を受けて書きました。

**
1.意味不明な生物多様性議論

生物多様性保全のイメージ=自然保護主義 
 → 非現実的

自然保護主義
 アニマルライト(動物にも権利をという主張)や自然の権利論(自然は権利を持っており、それを犯された場合、訴える権利を持つ、という主張。(もちろん、自然は訴えられないので人間が「代理」となる)といった考え方が基礎にある。
 これらの考え方には、そこに暮らしている人の実情や、他を犠牲にしなければ成立できない現代社会の事実に目が向いておらず、単なるノスタルジアな夢を見ているかのような安易さが漂う。
 また、生態学的に見て、ある機能を担う種は数種いて、いつも競い合っているのが現実で、その中の特定の一種を保護することは、別の種を排することであり、すべての生物を守ることなどできない。自然保護主義者は、得てして自分の好む生物=自然と捉え、その種を守ることが自然を守ることだと思い込んでいる。

ポスト自然保護主義
 自然と直接かかわっている人たち、特に第一次産業に携わる人たちは、当然ながら自然保護主義は非現実なものとして考えていることが多い。また、環境問題を深く考える人なら、こうした疑問を持つことはむしろ一般的になっているようである。
 「ポスト自然保護主義」とでも呼べるだろうか。特徴としては、仕事としている人なら、「生活を成り立たせる」(経済的に成り立たせる)ことが一番であり、市民活動なら「自分たちが楽しむこと」を一番に据える。そして、「結果的に自然は守られる」、と捉えている。極めて自然な考え方で、このことは大原則だろう。

当たり前というスタンス
 変化が激しく、人々の経験、価値観が多様になった現代では、「あたりまえ」という言葉は一切通用しない。自分が当たり前だと思っていること、例えば使う言葉の定義などは、これから話そうとする人と自分とはまず食い違っている、という認識を持たなければ、文字通り、「話にならない」だろう。
 しかし、生物多様性の重要さを訴える人のほとんどは、「生物多様性が重要なことは当たり前」と捉えている。ストレートに「なぜ?」と問い、答えようとする姿勢がかけていることが多い。

従来の答え
 生物多様性の重要さを説明する答えとしては、1.「人間だけの都合で他の種を絶滅させることは許されない」といった倫理的見地からなるものと、2.「まだ未発見の生物の遺伝情報が失われる」といった医療的・育種的見地からなるものの2つと決まっているようである。
 しかしながら、これらの答えでは「ポスト自然主義者」は到底納得できない。例えば、進行するデフレと後継者不足に悩まされる第一次産業従事者に、これらの言葉が響くとはとても思えない。

でも、これだけ声高に国際的に問題になってる
           「生物多様性って、いったい何なんだ!」


2.人間の生活は生態系に依存している

自然保護から生態系保護へ
 「自然」という言葉は極めて抽象的で、人それぞれによってイメージする内容も多様である。「自然をどう捉えるか?」という問いは哲学的であり、難解である。この問いかけも重要であるが、もう少し具体的な「生態系」という言葉を使う方がイメージを共有しやすい。

生命維持サービスを提供する生態系
 きれいな空気、水、食料、住処など、生命が生きていくために不可欠なサービスのすべてを生態系が提供している。他の生物と同じように、人間もこれら基本的なサービスの恩恵を受けて生きている。この生態系が正常に機能しなくなれば、人間もまた生きていけなくなる。

現代人は「人間系」に住んでいるのか
 しかし、都市に住む人間はそんなことを少しも考えない。むしろ、それらのサービスはすべて人間が担っているように思える。
 例えば、水。水は人間が作ったダムから運び、人間が上水処理場で飲めるようにしているものだ。食料。野菜は人間が作ったものだ。温度調節。人間が作った服を着て、人間が作ったエアコンを使っている。排出物。人間が処理場で処理してくれる。
どうやら、人間は生態系とは別の「人間系」に住んでいるようである。実際、私たちは熱帯林や里山の生態系といったとき、自分たちとは別のものとして捉えている。

 「人間系」の内実
 しかし、実際はどうだろうか?
 水を例にとってみる。巨大な土地にエネルギーを使って作ったダムに水をため、上水処理場でエネルギーと塩素等の資源(これもエネルギーを使って作られる)を使って飲めるようにしている。これをはやりエネルギーを使って作り、維持しているパイプを通して運んでいる。また、下水に流した水はやはり、その過程でエネルギーを使って処理される。しかも、人間は有機物を完全に分解することができない。
こうして、水ひとつとっても、その利用の過程で多くの資源を使い、一方で排水は処理し切れていない。石油利用においては過去の生態系の蓄積に頼り、排水処理は今の生態系へ回している。

**

ちょっと気になる表現もあると思います。
現在の自分自身も違和感をかじるところもあります。しかし、こうした感覚をもっている人はけっこういるのではないでしょうか?

次回に続きます。
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by taiji_nakao | 2005-02-02 19:40 | 考え事