カテゴリ:コミュニティ( 5 )
2012年 01月 14日
人口の流動性が高い時代のコミュニティ(1)
先週、京都シェアハウスサミットというイベントに参加しました。

コンセプトを先に決めて、その後に住む人、住む物件を決めるという流れをサポートするサービス、コリッシュの代表小原氏と、京都の6つのシェアコミュニティ(共有オフィスも含む)の人たちが参加するイベントでした。

コリッシュのサービスは非常に刺激的でした。
たとえば、トキワ荘プロジェクトでは、漫画家志望の人だけが一緒に住むスペースが提供されています。
本気の人限定で、すでに最低ひとつの漫画を書き上げていることが入居条件の一つということです。

この他にも、農園つきの家で毎週、農家の方を呼びつつとれた野菜でパーティーをするシェアハウスなど非常に興味深い事例が盛りだくさんでした。

また、シェアハウスの住人、管理人の人たちと話していて、非常に面白かったです。

イベントについては、以下のページが詳しい報告があります。
1/8 京都シェアコミュニティサミット、開催しました

私自身は、大阪の一般的なマンションに一人暮らしですが、京都のシェアハウス「お結び庵」には月に一度くらいは泊めてもらっていて、とてもお世話になっています。

このイベントを契機に考えたことを、まとめてみます。

近所づきあいが変わったことの根底にあるもの

 モラルの低下という話なのか

 私は住んでいるマンションの人たちとは全くといっていいほど交流がありません。引っ越したとき、結局挨拶のしなかったですし、ごくまれにすれ違うときも、軽く会釈するか、しないか程度です。

 大きな声で挨拶する、引っ越したら何かとお世話になるんだから、挨拶する、というのはマナーのひとつと言われてきました。なので、私はマナーがなっていない、と言われてもしょうがないとは思っています。

 でも、以前は当たり前だとされていること、あるいは、田舎では当然とされている、挨拶だとかを含めた近所づきあいがなくなってきているのは、「モラルが低下したから」なくなってきていると言えるのかは疑問に思います。

 鶏と卵のような話ですが、私が今まで読んだり聞いたりした中で一番納得したのは、人口流動性が高くなったことが原因、という説明です。

  うるさい飲み会を静めるモチベーション
 
 Aさんがすんでいる家に、Aさんのお兄さんが友達数人を連れて遊びに来て、飲み会をはじめたという状況を想定してみます。AさんもAさんのお兄さんの友人たちと面識があり、一緒飲んでいる、というような想定です。

 さて、深夜にもかかわらず、若いAさん兄弟と友達で盛り上がってしまったとします。Aさん、ちょっとタイミングを見計らいつつも、「もういい時間なんで、ちょっと静かにお願いします。」みたいなことを言うでしょう。
しかし、よくあることですが、10分もするとまた騒がしくなってくる。

 ここでのAさんが注意するモチベーションを考えてみます。

その1として、Aさんが生まれ育った土地で、いわゆる実家だったとします。Aさんの祖父の世代からこの土地に住んでいて、両親も近くに住んでいる。Aさんもずっと住むつもりだし、その子供、孫もこの土地に住むであろうという場合。

その2は、Aさんは都会で暮らしている。1年前に引っ越したが、2年契約で更新時はもちろん、その前に他に引っ越すかもしれない場合。

1と2では、注意するモチベーションは、全く違ってくるのが人間というものでしょう。

その1のケースの場合、ずっと生活する自分はもちろんですが、自分の親や祖父、下手をすれば子供にまで悪影響が出る可能性があります。静かにさせるでしょう。

しかし、その2のケースでは、隣人たちとは数ヶ月後には別れる可能性が高く、そして、おそらく一生会うこともないのです。

あまりいい例でないかもしれませんが、しかし、これはあらゆる「近所づきあい」と呼ばれるものに共通します。例えば、旅行へ行った時のお土産を買うか、なども同じ構図にあるでしょう。何世代にもわたってお世話になる人と、数ヶ月後には二度と会うこともない人とでは、相手にコミットする動機が変わるのが人間というものです。
(つづく)
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by taiji_nakao | 2012-01-14 18:00 | コミュニティ
2012年 01月 09日
コミュニティが広がっていくための条件
田舎にIターンして、強い思想を持って活動している方と飲んでいて、君の思想は中途半端だと、叱られることが今までは何度かあった。

その方々は、現代社会に強い問題意識を持ち、それだけでなく、例えば、飲み屋で語っているだけでなくて、あるいはイベントで理想を話しているだけでなくて、具体的に自分の生活を含め、実践していた。だから尊敬するし、基本的な問題意識も共感するものだ。

だけど、自分が第三者として関わるなら、別の視点も持つだろうし、そういう人は多いですよ。と、私は主張した。
あるいは、実践するのは、大変ですよね。とか。それは、一般的に「普通」と呼ばれる人が持っている、あるいは持っているであろう考え方だ。

しかし、マイノリティであること自体は、反対する理由にならないし、「大変」という言葉は、状態をさすものであって、理由そのものではない。何が大変なのか。そのことをちゃんと言わないと理由にならない。

だから、私が叱られたのはそういうところに問題があったのだと今は思っている。

しかし、多く人が持っている感覚をあり得ない、という前提に話すことには問題だ。

それまで普通だと思っている人に対して、いきなり全否定されてはいい気持ちはしない。そんな人しかいなかったら、居心地が悪い。その考え方が正しい(※)としても、段階というものがある。

普段はあまり問題意識を持っていなかった人がその場に来た時、居心地が悪いということは、その人はもう来ないだろうから、コミュニティにとっての損失となる。コミュニティが多様性を持つ機会を失ったとも言える。そういうことが続くと、コミュニティは活力を失っていく。

大切なことは、異なる考え方を持った人の立場に立って考える余裕であり、その人たちへのリスペクトだと思う。
これは心に余裕がないとできない。

場の雰囲気・習慣は、人数(割合)×  その人の影響力で決まると思う。10人の構成員がいて、9人がテキパキと片付けをする人であれば、だらけた性格の1人も大抵テキパキせざるを得ない。7人がテキパキ、3人がだらけていても、大抵は、
3人はテキパキすると思う。が、4人がだらける人だとあやしくなってくる。

ただ、人によっては影響力が強く、テキパキする人が1人、9人がだらける人であっても、テキパキした場にしてしまう。

魅力あるコミュニティは、核となる価値観を共有している必要がある。一方で、コミュニティが広がっていくためには、異なる価値観を持つ人のことを想像でき、かつリスペクト出来る雰囲気を持つことが重要だと思う。

※正しいとは、絶対的な正しさではなく、選択している本人が本当に望んでいることを達成しようとした時、最善な選択であるという意味で。
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by taiji_nakao | 2012-01-09 12:03 | コミュニティ
2011年 03月 05日
「無縁社会」とコミュニティ(3)
■最小不幸社会
菅さんのいう、「最小不幸社会」は評判が悪い。
今の日本に求められているのは、その理想が云々より、その理想から演繹して短中期的にどのような施策を実行していくのか、ということであり、その答えが皆無のようにみえるからなのだけれど、しかし、「最小不幸社会」という考え方は国の基本姿勢として真っ当だと思う。

国は、国民から広く税金を集めて、いい国になるべく、様々な方針を打ち出す。
権力を持っているから、規制したり、強制したりすることができる。

1億人、という単位で考えても、誰もが考える不幸というのは、おおむね一致する。
誰も飢えに苦しみたくないし、暖かい布団で寝たい。それでも、そうでない人も一部にいるが。
しかし、誰もが感じる幸福、というのはかなり難しい。

だから、「不幸を取り除くことを強制する」ことに税金を使うのは大いに結構だが、
「幸福を強制する」ことはその行為自体が、一定の人にとって恐ろしいし、税金を使うことの正当性も疑わしい。
歴史的に観ても、「幸福を強制する」ことは悲劇を生んで来たようだ。
ナチスドイツがその極致だろう。

■「無縁社会」の不幸
それでは、「無縁社会」にとっての不幸とはなんだろうか。
流動性が高くなって地縁に縛られなくなって来たこと、科学技術が発展し、産業が発達したことで生活が便利になって、暮らしの中で人々が協力し合う必然性が薄れて来たこと。この2つが「無縁社会」の原因だとすれば、別にそれで、いいじゃないか、と言えるのではないか。

私は、この2つの変化の恩恵を受けているので、これらの傾向は悪くない、というより感謝しています。

しかし、それまでは何もなくても維持されていた(維持するほかなかったのだが)「縁」がなくなった「無縁社会」における、不幸はないのかというとそうではない。

最大の不幸は、承認欲求を満たしづらくなったということだと思う。

自分自身を承認することができないと、人間は不幸らしい。
これは真理のようです。

そして、自己を承認する為には、ほとんどの人は他者からの承認が必要なようです。

昔は田舎のムラ社会、高度成長期を通じて会社がムラ社会だったと、よく言われます。
その「ムラ社会」の流儀を守ることで、それなりに承認を得ることができたんだと思います。

いわゆる、一般的な「サラリーマン」をしたことがないですし、想像でしかないのですが、
流動性が高まり、競争も激しくなった結果、現在の職場では承認欲求を満たしづらくなったようです。
正社員であればまだ正社員同士、所属意識もあり、いいのかもしれませんが、派遣、契約社員、パートでしか働けない場合、人間関係が希薄になるのは想像されます。

■コミュニティの役割の一つ
市民活動を運営している人から聞いた話ですが、主婦の方で熱心に活動していく人の多くはやがて家庭へ戻っていくそうです。
(この辺りには、学生の時は活発に活動するが就職すると忘れたかのように何もしなくなる、ということに通じる点もありますが、これは別の論点)

私も学生のときに、サークルで環境啓発の勉強会などをやっていたとき、メンバーの一人に主婦の方がいたのでイメージができます。

熱心に、いわばちょっと「青い」と言われるほどの理想を主張して周囲に呼びかけて、自分の(しかしそれは家族にとって必要でもある)時間をたくさん投入して、活動していく。ある程度そうやっていくと、自分がまずすべきことはここじゃなくて、家庭だということに気づくというのです。
これは、いくつかの別々の団体の方から聞いた話です。

いわば、市民活動がカウンセリングのような役割を果たしたわけですが、そこでの重要な点は「承認」ではないかと思います。
ちょっと青臭くて、あんまり空気読めてないような発言もするし、テーマへの理解も怪しかったとしても、その問題に対する考えは純粋で、イベントだとか、運営会議に参加してくれたら、みんな喜んでくれるわけです。

そうやって他者から承認される機会があって初めて、自分に対する、「この時間までここにいていいいの?」という目線の意味を自分の問題として認識できる余裕が生まれるのだろうと思います。
(別に女性だから家庭、ということを主張するつもりはありません)

このようにコミュニティは、承認要求を満たす、という重要な機能があると思っています。
心に余裕のある人は、そういう場所をすでに確保しています。それがない人、を受け入れることができるのはそういう人です。
様々な人が集まれば、心に余裕のある人も中には出てきます。
外国のことはよくわかりませんが、日本には、心に余裕のある方が、近年減って来ているらしいとはいえ、たくさんいると思っています。

それは、元気なおばあちゃんかもしれないし、バリバリ働いているベンチャー社長かもしれないし、きちんと家事をこなしている主婦かもしれないし、長くサラリーマンをつとめたおじさんや、仕事は仕事でこなしてアフターファイブを楽しむパートのお姉さんかもしれない。
そういう人たちは、それぞれの表現で、悩める人を承認し、本人にとって大切なことに気づくきっかけを与えてくれる可能性があるでしょう。悩める人は、いくつかの場所を回ってそれが得られる場所にいけるようであればよい。

ちょっと抽象的ですが、「無縁社会」が生み出した「承認欲求を満たすことができない」という不幸を解消する、ということが、結果的にであれ、コミュニティの果たすべき重要な機能だと思います。
(づづく)
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by taiji_nakao | 2011-03-05 01:26 | コミュニティ
2011年 02月 20日
「無縁社会」とコミュニティ(2)
■便利になったから助け合わなくても生きていける ーお金さえあれば

言うまでもなく、昔と比べて現在はものすごく便利になっています。
私なんかは「熾っている炭の色がすき」なんて言ったりするんですが、便利になってその恩恵を享受していることを棚上げして議論するのはいただけません。
(この便利の中には、望まない便利さもあるわけですが、それは今回の主題ではないので。)

昔、といっても地域差はあるにしても数十年前の話、生活する為に、まず食べるものからつくるわけで、その農作業も、化学肥料なんてものはないから、落ち葉かきであるとか、草刈りから始めてそうやって堆肥をつくるところから始まって畑仕事はもちろんすべて手作業で。
水は井戸まで汲みに行く、炊事は薪拾いから準備して、毎日火をおこして。洗濯は水洗い。洗い場は家の中になかったでしょう。
自分の家事だけでなくて、地域の道とか神社の草刈り、掃除も全部手作業でやらなきゃならない。

それが今は、食べ物はコンビニに行けば売っている。水は水道、洗濯は洗濯機すら使わず、コインランドリーとか、ドラム式洗濯機とかもある。地域の作業が何かあるわけでもない。

だから、助け合わなくても生きていけてしまうわけです。
必然性のないことは、人はしないもので、だから人とのつながりが薄くなっていきます。
これだと、仕事上での付き合いの他は、何人かの仲の良い友人くらい、ということになりがちです。

こうして、便利になることで、助け合う中での人とのつながりがなくなっていきます。

このことは、流動性が高まることによって地縁がなくなったことと現象的には同時進行なんでしょうけれど、理屈で言えば切り分けられます。

極端な例として、現代においても水を得る為に必ず個々人が井戸に行かなければならないとしたら、その井戸の運営と利用の過程において人との関係が必然的に生まれるはずです。
この例が好ましいかどうかはおいておき、この視点は重要です。

■お金の問題
ここ10年ほどの日本において問題が顕在化してきているのは、-お金があれば、という前提が成り立たなくなりつつあることです。助け合うシステムが消えてしまった後で、お金がない為に便利さを享受できないとなると、困ったことになります。

まだまだ日本は豊かですが、人口が減少することは確定している以上、経済の縮小を避けることは非常に困難な上に、現在の政治/経済を巡る状況をみれば、
「お金があるので、助け合わなくても生きていける」
といえる人がどんどん減っていくのはかなり確率の高い話だと思います。
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by taiji_nakao | 2011-02-20 00:49 | コミュニティ
2011年 02月 18日
「無縁社会」とコミュニティ(1)
NHKで「無縁社会」の特集をやっているらしい。
テレビがないので、実際のところはわからないが、twitter上での評判は今一のようだ。

そこで話されていることと、ずれているかもしれないが、おそらくその根底にあると思われるテーマについて。

■人の流動性が高まった
ほとんどの人が田舎に住んでいたとき、それこそ、先祖代々その土地に住むということが当たり前だった。
親族の多く身近に住んでいるし、自分の子供も孫もその土地で生きる可能性が高い、という世界だった。
ところが、現代の都会人はどうか。私は、就職一年目は極端に引っ越しが多く5回も引っ越して、その後少し落ち着いていたけれど、2年半ほどでまた引っ越して今に至っている。

流動性が低い状況ならば、近所の人を大切にする動機が格段に高まる。
なぜなら、そこで評価が低くなれば、親族はもとより、自分の子供、下手をすれば孫にまで悪影響が出てしまうから。
それに対して、数ヶ月後は隣にいるかもわからず、おそらくその後は一生で会うこともないであろうアパートの隣人からの評価は、それほど高めようとは思わない。

人間はそれほど損得だけで生きているわけではないけれど、とはいってもこの差は大きい。
何も現代人という人間が親切心を失ったわけではなくて、そうなる状況にあるということだと思う.

思考実験をしてみる。
私は、栃木県の県立の男子校に通っていたのだが、高校が嫌いで早く卒業して大学へ行きたいとずっと思っていた。
もちろん、仲の良い友人はいたし、尊敬する先生もいたから、すべてが嫌いではなかったのだけれど、一番嫌だったのは、私の席の前にたむろすグループの会話だった。
内容の半分以上は、誰かの悪口だった。しかもたちの悪いことに、何人かで話した後、そのうちの一人が去ると、去った人の悪口を言い始めるのだ。
聞いているだけで嫌で、もう、こんなところは早く出て行きたい、と思っていた。

ここで、その高校がもっと田舎にあり、例えば、そのグループのメンバーの兄弟と私の兄弟が婚約している関係にあったとする。
私は、その会話をいつもムッスリした顔で、聞き流していることができただろうか。
仮に、学校では避けられたとしても、卒業後も、PTA、消防団、地域のお祭りで、常に「親戚候補」と会わなければならないとき、
その仲間と「何気ない会話」をすることは避けられないだろう。
そんな会話を、最初は苦笑いで聞きつつ、そのうち、一緒になって悪口を言っているのではないか。

例が良くないかもしれないが、私は栃木の高校から都会へ出て来れて、生活することができて、本当に良かったと思っているのです。これは正直な気持ち。

もちろん、良いことだってあるのは言うまでもないです。今私が熱を出して苦しんだら、twitterにつぶやけば、メッセージは貰えるかもしれないが、基本的には苦しみながら、一人で回復を待たなければならない。
が、上の思考実験のような田舎なら、きっと誰かが心配して来てくれるだろう。そして、それはとっても嬉しいはず。

いずれにしても、流動性が高まった、というのが背景のひとつ。
長くなってしまったので、今日はここまで。
以降、次のようなテーマを書きたいと思っています。

■便利になった

■最小不幸社会

■自己承認欲求

■コミュニティの役割

■コミュニティの運営
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by taiji_nakao | 2011-02-18 00:34 | コミュニティ