カテゴリ:物語を生きる( 6 )
2011年 10月 07日
物語を生きる(6)
おおきな存在の物語

吉野は、平安時代は特殊な意味を持つ場所として認識されていらしく、当時の物語では、そのような場所として登場する。

中将はハンサムで行動力もあり、多くの女性と関係を持っている。かれはこの世界を自分の力で支配していると思っていたかもしれない。しかし、彼は一番大切なトポス、吉野のことを全く知らないのだ。この物語は、何がどうなっているかわからなくなって困り果てている中将の姿を描くことによって終わっている。実に素晴らしい終わり方だ。物語のなかで、縦横に活躍し、物語のプロモーターであるかのように見えた男の困惑しきった姿を最後に描くことによって、ものごとは、才気煥発な男の意思や欲望と、まったく異なる動員によって進んでいることを明らかにしている。この中将を近代自我の姿としてみれば、本当に良くわかる。

特定の意味を持つ場所、トポスという考えは、近代になって個人を中心とする考えが強くなるにつれて、急激に薄れていった。個人の在り方、性格が大切であり、それがあちこちと場所を移動しようとも、中心的性格は変わらない、と考える。

中将の活躍の物語より、吉野の持つ物語の方が「一番大切」というのだ。

ここで説明されていた吉野の物語の中身については、あまり理解できていないが、浦島太郎の竜宮城のような異世界がこの世界には存在していて、実生活に影響を及ぼしているという物語だと思う。中将と同じく、現代人には素直には受け入れがたく、ちょっと理解できない。

ただ、ここで重要なことは、一般化して言うと、世の中にある相対的なもののすべて、お金、権力、名声、測定可能な才能・・・より、存在、精神、命、神といった絶対的なもの、「おおきな存在の物語」の方が人間にとって重要である、ということだと思う。別の言い方をすると、人間はそういう物語を必要とする生き物だと思います。

しかし、吉野が特殊な意味を持つという物語や、あるいは唐の国つまり中国が特殊な意味を持つという物語は現代の日本では受け入れられない。

グーグルストリートビューでパソコンから道並みを確認できる時代では、昔のように離れた土地を異世界と認識されない。あるいは、宇宙ステーションになら、未知への憧れとともに、そこにいる自分は今ここの自分とは違うという物語は持てるかもしれないが。

では、現代人は、「おおきな存在の世界」をどのような物語として持つのだろうか。

近代になって、ゲニウス・ロキが死に絶えたので、人々はトポスではなく、人間のなかにゲニウスを探し出そうとつとめるようになった。異界をどこかの場所に求めるのではなくなると、人間としての異性ということが大きい位置を占めてくる。従って、西洋の近代においては、男女のロマンチック・ラブということが至上のこととなった。男も女も異性に魂の姿を見る。

この説明はなんとなくわかる気がする。現代でもこの残滓はあると思う。
確かに、たまに小説などで見られる極端な異性への憧れの傾向は、不自然につくられている感がある。異性間では、いろいろと違っていて、深いと思うけれど、同じ人間であり、根本的に違う異界として捉えるのは無理がある。

では、どんな物語を、ということになるのですが、それはまた別の機会に考えてみようと思います。

※「物語を生きる」シリーズはこれで最後です。
[PR]
by taiji_nakao | 2011-10-07 08:34 | 物語を生きる
2011年 10月 06日
物語を生きる(5)
心性のタイプ

復讐についての引用。落窪物語を論じている。
復讐などしなくても、自然や神仏にまかせておけば、というのは貴族の考えではなかっただろうか。武士階級が台頭してくるにつれて、仇討ちという個人に意思による行為が称揚されるようになり、後世には多くの「仇討ち物語」が生まれてくる。しかし、これらは武士の道徳観を反映し、仇の方が強いのに対して、仇を討つ方が艱難辛苦して目標を達する話となる。

このような武士の仇討ちと、「落窪物語」の復讐はまったく味が異なる。後者の方が明るくて面白い。そこには強い「個人」に対する信頼があり、運命や神仏などの介入を許さない。おそらくこれは、貴族社会ー特にその情報ーにはなかった人生観であり、阿漕のクラス、これを庶民とは言いがたいが、家柄や身分よりも個々人の能力によって相当に頑張ることのできた層の人たちの考えだったのではなかろうか。

※引用が足りないので少し補足すると、河合隼雄によれば、阿漕(「落窪の君」に幼い頃から仕えている、機転のきく賢い侍女)たちによる、主人の落窪の君をさんざんいじめて来た継母への復讐とその後、一転して大切にする描写にはユーモアと余裕があり、武士の復讐とはずいぶん趣が異なるということです。

落窪物語より。貴族と武士と、阿漕のクラスの庶民の考え方の違いについての考察。これは興味深い。落窪物語を読んでみたくなった。

確かに現在においても、あるいは自分を省みても、「復讐などしなくても、自然や神仏にまかせておけば(解決する)」という心性はあるし、「仇の方が強いのに対して、仇を討つ方が艱難辛苦して目標を達する」話は大好きである。

一方の、落窪物語の「強い「個人」に対する信頼があり、運命や神仏などの介入を許さない」というのはどうだろうか。私の持っている印象では、現在においてまっとうに生きている人というのは、この心性を大切にしているように思う。なんだかんだ言っても、やるべき仕事をきちんとこなし、家庭のこともする。

これらの要素をうまく組み合わせた物語がよいのかもしれない。日々の生活では「強い「個人」に対する信頼があり、運命や神仏などの介入を許さない」一方、自分ではどうしようもない現象(死など)には「自然や神仏にまかせてお」き、人生の中でも重要な要所においては、「仇の方が強いのに対して、仇を討つ方が艱難辛苦して目標を達する」というような。
[PR]
by taiji_nakao | 2011-10-06 08:06 | 物語を生きる
2011年 10月 05日
物語を生きる(4)
人の物語に思いを寄せる

紫式部などはその典型と思われるが、おそらくこのような物語をつくった女性たちは、経済的には安定しているが、当時の出世コースから外れている、という特徴を持っていたと思われる。当時の男性はそれなりに、その時の体制の中に組み込まれていて、その中での上昇ということに関心を持っている。つまり、体制の物語を生きているので、自らの「物語」を作り出すことなど考えもできない。これは現在も同様で、体制の物語を生きている人たちは、自分たちは「現実」を生きていると信じていて、物語の必要性を感じていないか、その価値を低くみている人が多い。


人間はそれぞれが物語を生きている。しかし、ある時代において一般的な性質をもつ物語というものがある。現在であれば、東大を卒業し、官僚になって、政治家になって、大臣になるとか、有名大学を出て一流企業に就職し、重役になるとか、おきまりの物語がある。この道をまっしぐらに生きている人は、他の物語にあまり関心をもたない。このような人は小説などあまり読まないだろう。


後半は、ややステレオタイプではある。2002年出版の割にはちょっと古い考えの気もする。
2つのテーマについて考えたい。一つは、この社会を超越した、おおきな存在に関するもの。これは最後の投稿のテーマです。もう一つは、世界は多様であるということ。

小学校のころの世界はほんとに狭い。学校と家。最近だと、それに塾が加わるのかな。でも、ほとんど中心は学校だけ。そうなると、生きている物語の視野も極めて狭い。そんな時にいじめられたら、悲惨なわけです。もう、世界の終わりだと思ってしまう。

小説か何かで読んだ話のなかで、いじめられている子供が公園でおじいさんやらおじさんと仲良くなるなかで、元気になっていく、というようなのがあった。おじいさんたちは、「あんたは悪くない」「とんでもないやつらだ」「じきに卒業して、会わないで済むよとか」とか話す。話す内容もさることながら、彼らには余裕がある。それは、世界はとても広くて、子供の通う小学校なんてその一部に過ぎないということをよく知っているからだと思う。

自分が生きている(と信じている)物語とは別の視点もあるということを理解できた方が豊かな人生であると思う。東京から栃木に向かう車窓を眺めていると、もうそれは凄い数のマンションや家がある。その一つ一つに何人かの人が住んでいる。膨大な数の人がいて、そして、みんな、それぞれの物語を生きている。まして世界にはもう、たくさんの国があり、地域があり、いろんな人たちがいて、それぞれの物語がある。

人はそんなにたくさんの物語を生きることができないから、たくさんの物語を知っていることよりも自分の物語をちゃんと生きることが一番大切だ(自戒をこめて)。でも、限られた物語だけがこの世界だと思ったり、別の物語を理解しようとしなかったり、価値がないと決めつけることは本人も周囲も幸せにしないと思う。
[PR]
by taiji_nakao | 2011-10-05 07:29 | 物語を生きる
2011年 10月 04日
物語を生きる(3)
うつろう美/亡びの美学/無常観

ここから、著書(河合隼雄 「物語を生きる」)に入っていきます。
かぐや姫は帝の気持ちにもかかわらず、月の世界に帰っていった。なんとしても、絶世の美女は男性ーたとえ帝でさえーとは結ばれず、この世から立ち去らなければならないのだ。そのことによってのみ、当時の日本人の美意識は完成した。そして、そのような美意識は実に長く日本文化の底流として流れ続ける。どうして、そのようなはかないもの美を体験しようとしたのだろうか。
うつろう美を特に評価している。というよりも、この世ならぬ美を追求すると、それは限りなくしに近接していく。つまり、美の陰には死が必ず存在しており、それは移ろい行くことの自覚を促すものとなる。
そのような滔々と流れる流れの中で、仲忠と貴宮という好ましい男女の恋が語られる。しかし、それも、所詮、人と人との間における、個人の意思であって、底流に流れる流れに逆らってまで成就されることはない。それが成就しないことを、せめて悲しく美しい話として物語ることくらいが、人間のできることではなかろうか。

竹取物語とうつほ物語の章から。うつろう美、ほろびの美学、そして無常観。

この心性の影響について考えてみる。

自分で自分の将来に関与できる余地が少なく、望まない現実を受け入れなければならないことが多いのなら、このような心性をあらかじめ持っていることは特に有効である。そんな現実を、自分の物語として「納得」しやすい。

現代においても、自分ですべて決め思うようにできるわけではないから、有効である。泰然としていて、無駄に騒がしくもなく、困難に対応できる気がする。

でも、人生のほとんどをそんな風に捉えるのは、ひねくれているようにも感じる。
本当は自分で、もっと建設的な道を選択することができるのに、その選択肢を放棄している、ということにもつながりかねない。安易なあきらめ。このことは、統治者に都合よく利用されてしまう可能性もある。

それと、今あるものを積極的に評価する、ということに価値をおかないことにもつながる。
たまにプロフィールなどで、高杉晋作の辞世の句「面白きこともなき世を面白く」を挙げている人がいる。しかし、これだけ豊かで自由も保証されている今の日本は、面白きことがたくさんあるのでは?とつっこみたくなってしまいます。もっと素直に現状を評価して、楽しんでもいいんじゃないの、って思ってしまう。

高杉晋作の辞世の句を持ち出す人は、明るい未来をイメージしている人なんでしょうけど、根底には現在に対する、こだわりの薄さが共通していて、それはきっと無常観とかそういう心性が影響しているように思います。

いずれにしても、最古の物語から受け継がれているこの心性、自分で振り返ってみても染み付いている。たとえば、そこ抜けの明るさがずっと続いていくというような物語は、ちょっと受け入れられない。
[PR]
by taiji_nakao | 2011-10-04 07:47 | 物語を生きる
2011年 10月 03日
物語を生きる(2)
現代人はどんな物語をもち、共有するのか

図書館で「物語を生きる」(河合隼雄)という本を見つけました。主に平安時代の古典の物語を分析している本です。

本の中で、自分の仕事はクライアントに現状を「納得」してもらうことだ、と言っています。
過去から今に至る諸処の経験を一つの物語と認識し、それを受け入れること、と私は理解しました。
けっして合理的な説明を求めているわけではない。辛いことや理不尽な出来事をその人なりの物語で認識し納得することを手助けすることが仕事だと。

人は物語を生きているものだといっても、もちろん現実と無関係でいられるわけはありません。
現実とうまく折り合いのついたものでなければ、その人も周囲の人も幸せになれません。
いくつになってもモラトリアムを続けてしまう人たちの問題の1つには、自分が現実に実現できる力量と自分の物語の中の自分とのギャップが大きいという言い方もできるかもしれません。 

しかし、巷には歪んだ物語があふれています。
サプリメントやダイエット食品、人口減が確実なのにどんどんマンションが建っていたり、デジタル放送云々で大騒ぎしていたり、どこが「エコ」なのか理解できないエコポイント・・・・
その売り場文句で、あるいは企画段階で語られているであろう物語の中身を想像するとげんなりします。一つ一つの歪みは大したことがなくても、それが占める割合が大きくなってくると、その影響も大きくなる、ということもあると思います。

今の日本では、需要と供給のギャップは年間で20兆円くらいあるそうです。で、それを埋めるために財政出動が必要なそうです。具体的な経済の議論は私の手に負えるところではありませんが、素人思考で考えて、まずは供給が大きすぎることを問題と考えるのが道理というものです。

「20兆円の需要を創出し、需給ギャップを埋めることで経済が回復し、人々は豊かになる」という物語を生きていこうとすれば、無理をしても消費してもらう、ということにならざるを得ない。産業をうまく転換できれば、違うかもしれませんが。しかし、現状のままでは、それを実現させるための物語はどこか歪んだものにならざるを得ない。

ただし、マーケティングの大家であるコトラーのマケーティング3.0では、マーケティングの目的を企業は世界をより良い場所にすることにあり、そうしなければ生き残れないということが書いてあります。企業が語る物語は消費をあおるものという認識はすでに時代遅れなのかもしれません。

組織も物語を持っています。未来に向けてはビジョンなどの言葉で語られます。組織の物語と個々人の物語のベクトルが一致している組織は、強いでしょう。

どんな物語を持つのか、共有するのか、ということは大きなテーマです。巷に歪んだ物語があふれているなら、自覚的に持つべきだと思うのです。
そして、日本に住んでいる以上大きな影響を受けている日本の古典から学ぶものが大きいはずです。
[PR]
by taiji_nakao | 2011-10-03 07:32 | 物語を生きる
2011年 10月 02日
物語を生きる(1)
人は物語を生きている

スティーブ・ジョブズの有名なスタンフォード大学での卒業式でのスピーチの中で、3つの話をしたがそのひとつに「connecting the dots」というテーマがある。入学してすぐ大学を中退したジョブズは、気ままに興味の湧く講義に潜っていたが、そのひとつにカリグラフィーの講義があった。そのときは思いもよらなかったが、その経験が後にパソコンを開発するとき、美しいフォントを生み出すことになった。だから、今はわからなくていいから、必ずつながると信じて、悔いなく生きろ。というような内容だったと思う。

これは「物語を生きる」ことのひとつの説明だと理解しています。

いろいろな経験がつながったと言えるのは、学んだことが自社製品のフォントに反映されるような直接的な、客観的な事実もある。しかし、個々の経験をつなげて意味付けするのは、個々の主観によるところが大きい。つまり、振り返って個々の経験を結びつけて物語を構成している、と言えると思う.

私は、人はそうやって意味付けして生きていくものだと思う。それが後付けだったとしても。
生なんて無意味だ、なんて嘯いていても、その場合、「人生は無意味である」という意味付けをしている。

サイゼリヤの創業者について書かれた「サイゼリヤ革命」の中で、母親のエピソードで以下のようなものがある。
母は後妻として正垣家に嫁ぎ、先妻の子供たちと実子である泰彦を分け隔てなく育てた。
「それだけじゃないんだよ。親父がいろいろなところで子どもをつくるんだけど、みんな引き取って僕らと同じように育てるの。それが楽しいと言い切るんだ」(中略)
「夫がよそに女をつくるなんて、妻としたら一番悲しいことじゃない。でも、それは自分の力が足りないからで、夫にも相手にも申しわけないと本気で思うんだ。そんなのおかしいって僕らは思っていたけど、おふくろは災難とか失敗とか目の前に起こる困難は、すべて自分のためにあるんだよって(略)

事実をどう認識し、どういう意味付けをするかはその人次第ということだと思う。
人には逆境だとしか見えない状況でも前向きに生きている人は、現状の認識とそれにつながる未来について、ポジティブな物語を持っていることが多いように思います。
[PR]
by taiji_nakao | 2011-10-02 09:19 | 物語を生きる