カテゴリ:エッセイ( 37 )
2009年 09月 11日
過払い払い戻し広告
電車内に溢れている、過払いを取り戻そう!という広告を見ていてふと、
「穴を掘って、埋める」という話を思い出す。

利子を払う→払ったうちのグレーゾーン分を取り戻すという行為って、

いったん払って→それを取り戻す

という、いわば、「何も生み出していない」行為。
何生み出してないんだけど、仕事が発生して、そこでお金が動いている。
いったんは黙認していたのを厳罰化するという強硬手段でもって、究極の「需要創出」をしたともいえなくもない。

何かの本で読んだ話で、どこかの国のいつの時代かに「穴を掘って埋める」という刑罰があったらしい。
人間というのは、あからさまに無意味な行為をすることを非常に苦痛に感じるので、これはけっこう、堪えるらしい。

だからなんだ、といわれると、困るのだけれど。
実際、お金が戻ってきたら、単純に嬉しいし、当人にとって無意味であり得ない。そういうクライアントを相手にしていれば、無意味など感じるはずもないし。

でもなんというか、これだけ仕事がないといわれている時代において、こういう形で「需要創出」するっていうのは、本気で考えられそうで。というか、そういうことせざるを得なくなるとか。なんというか、そんなことを思ったのでした。
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by taiji_nakao | 2009-09-11 23:15 | エッセイ
2009年 05月 09日
茹でガエルと植えた木を飛ぶ忍者、根太の腐った床
茹でガエル状態とは、カエルを鍋にいれてゆっくり加熱していくとカエルは状況の変化に気づかず、そのまま茹でられて死んでしまうが、急に熱湯に入れると、慌てて逃げ出す。
だから、外部への応答性にかけ、情報の風通しの悪くなった組織は茹でガエル状態なんていう。

子供のころ、忍者が修行の為に苗木を庭に植えて毎日その木を飛び越えていると、やがて大きく育った木をも飛び越えてしまえるようになる・・と聞いて、いくらか(飛び越せるくらいの木を)ジャンプしていたことがあった。3日も続かなかったけど。

実際のところ、かえるを水のときからいれて熱すると比較的早い段階でかえるは逃げ出すし、熱湯に入れれば逃げるまもなく死んでしまうらしい。そして、当然ながらジャンプ力は木の生長と正比例しない。

だけど、いわゆる茹でガエル状態の組織は存在するんだろうし、苗木を飛び越すような、ガラパゴス的な進化っていうのはあると思ったのは、今住んでる家の流しの床のこと。
根太が腐って、手前は支えがなくなってしまった。
だから、今は流しのすぐそばの方に足を置き、体重は常に前におかなければならない。
そうしなければ、落ちる。

去年は、そうじゃなくて、多少は床が柔らかいなと思うくらいだった。
それが、気づけばいまや落とし穴である。
で、こないだ、その落とし穴が正真正銘の落とし穴になっていることに気づいて、
でもそこで何気なく足の置き場を確保している自分に気づいて、驚いた。

何気なく。朝、歯を磨いたりとか。

とはいえ、さすがにそこでバランスを保つのも一苦労になってきた。
そろそろ苗木が育ちすぎて飛び越えられなくなってきたらしい。
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by taiji_nakao | 2009-05-09 09:28 | エッセイ
2006年 10月 11日
終電とサラリーマン(未)
スーツを着て京都駅に帰ってきた日、なんだか気分も晴れず、もう一度ご飯を食べ、立ち読みをして、バスに乗って帰ると思いきや、四条で降りて、マンガ喫茶に行く。

それは地下にあって、かなり綺麗なところ。豪勢なかんじがする。
地下に下って自動ドアをくぐると、その奥にある、手で押すタイプの扉が、気圧の関係なのだろう、ふわ~んと揺れるのをみて、なんだかいっそうゴウセイに思えた。

別にこれといって、読みたいのがあるわけでもないのだけど。
0時を過ぎた頃、ヤケな気分で、京阪の終電も逃してもどうせ歩いて帰れるさ、などと考える(というより、思考停止)あたり、病んでいる。

でも、やはりと、0時22分ごろ、店を出て京阪三条に向かう。

途中から走る。
この時間帯にまだあることは知ってるけど、走ってしまう。
地下へいく階段の電気が明るいのを見て安心する。
でも、やっぱり走って階段を下ると、

「ヨドか!」
「ヨドかい!」
「ヨド行き!?」

と、京阪の従業員の声がする。
若い、はきはきした声で。
その声は動きがあって、幾つかの方向から、同時に進行して聞こえた。

ヨド行くんだったら、急げ、こっちから通せる、切符やらなんてなんとでもなる、終電が今発車しようとしてるけど、止められるし大丈夫だ。お客さん、よかったなあ、家帰れるよ。

ほんの一瞬、くたびれたスーツを着た男は、そんな空気に包み込まれた。

すぐ、
「いや、デマチです」
と応えると、通路わきのパイプ椅子から半分立ちかけた従業員が、何もなかったかのように座る気配が感じられた。
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by taiji_nakao | 2006-10-11 22:22 | エッセイ
2006年 09月 11日
止まった時間
洗濯機は一階の共同スペースにおいてある。

そこには、屋根がついていて、乾かすスペースもかねている。
日当たりが上々とはいえないが、ところによっては雨を受けるが、ありがたいスペースで、もちろん日々利用している。

そこの、パンツとかハンカチを干すあのガラガラの洗濯バサミの間に、蜂の巣ができつつあった。

振り返ると、その巣があって、それがけっこうな大きさになっていて、ピクッと身構えて、ぴたりと止まってしまう。

まさか。。

すぐに管理会社に連絡しようと考えたが、自分でどうのこうのでなく、すぐそう考えてしまうのがちょっと寂しい。

しかし、よく見ると、動いているのは手前の一匹だけで、蜂たちは未完成の巣にくっついて身動きしない。まさに、ぴたりと止まっている。という表現がそのままである。
そう、すでに処理された後なのだ。


そして、そこに干されていた靴下なども、一度干されたまま、ぴたりと止まっているのだ。
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by taiji_nakao | 2006-09-11 23:49 | エッセイ
2006年 08月 19日
ゑ○す屋から
ゑび○屋は、出町商店街の河原町通りから入って手前の方にあるスーパーだ。
5本入り78円のきゅうりを買って袋に入れるとき、そのきゅうりの3本の一方のヘタがちぎれていて、露出した果肉がのぞいていた。それをみて、また慎重に選ばなかったことを、ちょっと後悔した。とはいっても、選んだところでどれも似たり寄ったりなのだろうけど。
このスーパーはサークルの仲間で呑んだりするときに買出しに来るので、「○びす屋クオリティ」は有名である。300円ほどのパイナップルが完熟の後だったりする。しいたけをかごに入れたとき、「かびてるよ」という友人に「そんなことあるかい」と言っていたら、本当にかびていた。
痛んでいたり、腐りかけていることは良くあることである。
**
ここに曲がっているにんじんがあり、その隣にやや曲がっているにんじん、そして曲がっていないにんじんがあったとする。
普通、曲がってないにんじんを選ぶ。

以前カナートの地下のイズミヤにいったとき、ゑびす屋に慣れている私の目には野菜がきれい過ぎるように見えた。にんじんもナスも端正で、きちっとラップに包まれている。
たぶん、曲がっていないにんじんを選び続けた結果としてこうなったのだろう。

でも、畑にはここにたどり着けなくなった野菜たちがいて、ここにたどり着かせるための苦労をしている農家の人たちがいるのだろう。
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「曲がったにんじんでもかまわない」のだが、「曲がったにんじんより、曲がっていないにんじんを選びたい」というところが厄介だ。
でも、これが素直な気持ちだ。曲がったにんじんと、曲がってないにんじんが目の前にあれば曲がってないのを選ぶ。

物売りたちは、リスクを消費者から解放することによって、すなわち生産者側がリスクを負う(曲がったにんじんを選ぶというリスク)ということによって、消費者満足度を高めてきた。

売り手市場に長く漬かり、そこからいまだに抜け出せない木材業界は、そうしたことーリスクを負うことーをしないことが問題だ、と先の月例会の講師の先生は言っていた。

しかし、消費者が十分な情報を得たとき、その間に入る「専門家」の意向は必ずしも正しくない=消費者の利益を代表しない。
ちょっと、違うかもしれない。曲がっていないにんじんが好きな、消費者の利益は代表している。

しかし、そのために社会的犠牲が払われていること(農地に放棄される作物、農家の手間等)を問題視する人の意向は代表されていない。
**
もっと言えば、消費者は生活者になろうとしているのである。
私達は、消費者であるとともに生産者である。消費者がその権利を主張するほど、神様であるお客様が駄々をこねるほど、その声は生産側に響く。そして、その生産の上流に行くほどその声は響きをますようだ。

全てではないだろうけど、そうやってひどい職場が作られる。
一方で、消費者でお客様な人は、一方で、生産者で苦労する。

そうやって、端正なにんじんがそろえられる。

だけど、曲がってるの「が」いいじゃない。なんて、言ったらどうなるだろう。
-曲がっているにんじんを混ぜなければ
**
今、生産側はサプライヤーからメーカー、小売までトータルコストを下げている。
が、もし、当たり障りがない程度なら、消費者も社会的トータルコストを下げるカイゼン活動にちょっぴり参加するのはどうか。
**
それはつまり、失敗すれば痛んだトマトをつかまされるかも知れず、ふと気づけばしいたけにカビが生えているお店に行く??

それは嫌ですね、

あ、でも、形くらいなら、リスクを負うことはどうってことない。ランダムに積んでおいて、来た客から選んでいく。期限が迫ったら、たたき売りしなきゃならないんだから、それの根拠付けになる。

-形がきれいなものから売れていくので、売れ残ったものは安く売られてしかるべきだ。
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こじ付けかも知れない。
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by taiji_nakao | 2006-08-19 09:54 | エッセイ
2006年 07月 31日
大根が美味しくなるお話
ずいぶん前、たぶん小学校高学年か、中学生だったとき。家には、「お話のろうそく」というA5サイズくらいの大きさの小さな本があって、その中にはいろいろなお話があった。昔話とか、童話のようなもの。表紙には、赤とか緑とかいろんないろがあった。その中に、たった1ページで特に落ちといったものもないけれど、今でもその内容を覚えている話がある。

題も忘れてしまったが、貧しい村人のところに、泊めてくれないかと真冬に旅人がたずねてくる。村人はそれに応じるが、ふるまう食べ物が何もない。腹をすかせた旅人のために、となりの畑から大根を盗んできて、煮て食べさせた。それを、旅人はたいそう美味しそうに食べた。

その日は、しんしんと雪が降っていたので、村人が畑にとりに言ったときの足跡は雪に埋もれ分からなくなった。。
**

それだけの話だ。
だが、なんとも、この大根が美味しそうであり、それ以来、いや特に、大学に来て自炊するようになって、大根の煮物を作るたびにこの話を思い出す。

そう、昨日、大根の煮物を作った、ということなんですが。。
しかし、美味しいですよね。
おでんの大根です。
よく言われるように、冷えたときに味がしみこみます。
**

ヤンパオというお店が京大の近くにあって、ここにはマンガ肉・ごはん大盛りがある。マンガに出てくるような、「骨の付いたやつ」や日本昔話に出てくるご飯大盛りがある。
確かに、なんだか一度食べてみたい気がする。
まさに、物語の消費。
**

ファイナルファンタジー12(おそらく)が発売されたとき、コンビニにゲームに出てくるアイテムに即したグッズが売られていた。HPが回復する、「ポーション」とか。
おお~、ここまで来てしまったか、と思った。バーチャルとリアルが混ざっていく。
そこに、不安を感じるのは私だけではなかったろうと思う。
**

でも、考えてみると、商品に情報をつけて売る、というのは今盛んに行われている。というより、成熟した市場ではそうしないと売れない。

こないだ、コカコーラの販売代理店で働いている人が、特にお茶などは、テレビのCM放映時間と売れる量は、驚くほど一致すると話していた。
なんだか、CMが麻薬のようだ。続けなければ、売れなくなる。
そして、一度下がり始めると、二度と戻ることはないという。
さらに、そのサイクルはどんどん短くなっていく。
**

国産材を売るというのは、今のところ、この「物語を売る」の最たるものだと思う。
(今のところ、というのは多くの場合、それより安い新建材や外材が存在するから)

森を育てた人がいること、それを技術を持って加工し、家を建てる職人がいること。
その家づくりに、参加してみませんか?

というのが、売りの一つであることは間違いない。
(それだけでは困るのですが)

物語を売る、買う、というのは悪くないと思う。
それは、きっと生活を豊かにする。

そこでイメージされた物語が、リアルに起こっているならば。

あるいは、そこでイメージされた物語が、リアルに起こっていると信じている限り?
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by taiji_nakao | 2006-07-31 17:15 | エッセイ
2006年 06月 17日
糸井重里がすき
糸井重里がすきです。

「ほぼ日刊イトイ新聞の本」を読んだあたりからは病み付きです。
ほぼ日刊イトイ新聞のウェブサイトにいったこと無い人はぜひ。
わかりにくいですが、下のほうにコンテンツがたくさんあります。

このメルマガはお気に入りで毎回よんでます。
**

「経験を盗め」という本(糸井さんと、さまざまなゲスト2人の鼎談集)の中で、さりげなく言ってますが、

「何人ということに関係なく、自分たちがいちばんやりやすい方法、楽しい方法を選んでやっていく時代が、もう来てるんじゃないかって」

という言葉に代表される彼の感覚に、そのまま共感してしまうのです。
うんうん、そうだよなあ、と。

**
「話を聞く技術!」  永江 朗 はかなりお勧めですが、この本に出てくるインタビュアーはみんな、自分で創意工夫を重ね実績を上げている人ばかりなわけですが、自分のことをプロじゃないから、、というんです。じゃあ、プロってなんなんでしょう?

それは、「一定の時間内に一定の質の仕事を確実にこなす」ということを第一定義とする人、だと思います。なにしろ、それでお金をもらっているわけですから。
それは、大変なことなのです。

「一定の時間、一定の仕事」を第一に持ってくるなかで、一定の優れたプロセスが完成していきます。標準化です。これは必要な工程です。
そして、一般的に、それらの各工程の仕事を習得する時間もわかってきますし、そうすると、何年めはどの仕事、とかいう分業が進む。そして、階層も生まれる。
そして、権威ができて、そこに認められた人がプロ、ということになる。

前述の「話を聞く技術!」にでてくる人たちは、つまり、自分はそのような中にいないですよ、といっているわけです。
これは、結構大変なことです。
なにしろ、「一定の時間で、一定の仕事をこなす」かどうかわからないという、リスク。
そして、自分で開拓する努力と創意工夫がいる。
**

言うのは、簡単ですが、それを実践しているから価値があるわけです。
糸井氏の場合、コピーライターとして売れっ子だった。
もう、番付にでるくらい。

それなのに、その仕事をするよりも、新しいウェブサイトを立ち上げることに全力を注いだ。
それが、楽しい方法だったから。

ぜんぜん、最初はお金にならないのに、とにかくそれを続けた。
そのあたりが、すてき。
**

権威ができて、分業が進むと、その標準化されたプロセス本来の目的ではなく、そのプロセスを動かすこと自体が目的となってしまう。
そして、本来の目的を失う。

ここで、よく使われる言葉は「ねばならない」

でもさ、もっと素直に、まず目的をみようよ、というのである。
そして、そこに向かって、無理なくやって、できるんだぜ。
というのだ。
繰り返すが、それを仕事にするのは、簡単ではないけれど。
**

森林ボランティアというもの、自発的な活動にさえ、「ねばならない」があると考えている人が結構いるようだ。

杉良にはじめて参加する人も、
「自分は知識が無いし 技術もないし 体力もないし・・」
と心配する人が多い。

まあ、初めて活動に参加する人が何かと心配するのは当然のことだ。
でも、もし運営している人が、「ねばならない」をたくさん持っていたらどうだろうか。

もちろん、「ねばならない」が必要なこともある。
というより、何かをしたいなら当然何かを「しなければならない」
が、あくまで、「何かをしたい」ありきだ。

別に、何でもいいんですよ。
**

逆に言うと、「何かをしたい」が無い人はこないほうがいい、
という言い方もできる。

親戚の結婚式に、いかにも商工会議所の若者が「動員」されていたが、
彼らに「何かをする」という意図はなかっただろう。
上の人に言われたから、きたのだ。

こういうことをたくさんやっていると、組織が腐る。
組織とは、何か目的があるから集まるのだ。
それが無いことが当たり前になると、「今日の会議はなんだったんだろう」になるし、
ひどくなれば、そう考えることすらなくなる。
**

その「何かしたい」は、「日本の森林をなんとかしたい」だけである必要は無い。
きれいな空気のもとに行きたい、メンバーに会って話したい、
木を伐るのが好きだ ect・・・

肩の力を抜いて、したいことを素直に言ってみる。
そして、もちろん、組織でやるなら調整は必要だが、

「自分たちがいちばんやりやすい方法、楽しい方法を選んでやっていく」

そう、選んで。
選択して。そこには、創意工夫があるから。
**

このような考え方は、現代ではさほど珍しいものではないと思う。
いろんな人が言っているような気がする。

だけど、そういう感覚を20年以上前から持っていて、表現していたイトイ重里という人物を、
もう、とんでもない怪物だと思うのだ。






 
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by taiji_nakao | 2006-06-17 16:19 | エッセイ
2006年 05月 29日
そんな山(おか)の上にもあと10ヶ月くらい棲む
ある山に登った人たちがいました。

なかなか高い山で、最初、そこにとうたつした人たちはほんとうに、たかいぎじゅつと、せいしんりょくをもった人たちでした。

そこで、むらの人たちは、その人たちをしょうさんして、
たくさんのものを渡すことようになりました。

やがて、そのやまにはたくさんの人がのぼるようになったのですが、
それでもやはり、昔からのならわしで、村の人はいろいろなものを差し出していたのです。

そこに住みついた、そのひとたちは、いろいろなものを持っていっても、あいさつをしたり、会話をしたりすることはありません。

ただ、黙って、しんみょうな顔をしてうけとるのです。

やがて、村のじんこうが増え、生活がくるしくなってきたので、その山にすむひと全員には渡せなくなってきました。

村長は言いました。

「おらたちの村のものも、もうそんなにたくさんない。
でも、あの人たちに渡すぶんをそう、いきなりなくすわけにもいかない。
ちょっとずつ、へらしていこう」

そういう話があったと聞いた、山に棲むひとたちの中にもようやく、
笑顔で、「ありがとうねえ、今なにか村で困っていることはないかい?」
と、話し出す人もできてきました。

でも、そういう一方で、山にこもり、黙って、何もせず、何も言わず、
そんな生活を続けているひとたちがまだ、
いるんですね。
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by taiji_nakao | 2006-05-29 18:25 | エッセイ
2006年 05月 25日
思わず目が涙で潤んだ話
どういうわけか、小・中学校時代はクラスとなじめなかった、という人が周りにけっこういる。

ある人は中学時代に、一人に対して、周りを囲まれ、けられる、といういじめをうけた。

それを聞いた親が、教師に抗議したところ、「~さんに問題がある」と取り合わない、まあ、よくある、こまった教師のパターン。

その親は怒って、いまでもその教師に怒りを覚えるというが、
帰った後、その人を抱きしめて、
「たとえ、学校のみんなが敵だとしても、お母さんは味方だ。」
と言ったという。

**

一言で言ってしまえば、教師の度量が小さかったということなのだが、
そのクラスにその人を受け入れるキャパがなかったということなのだが、
大事なのは、誰か受け入れてくれる人がいるということ、なのですね。

存在自体は、価値があるとかないとか、いいとか悪いとかの前に
まずいったん受け入れる、
ということが、難しくも必要なことなのですね。
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by taiji_nakao | 2006-05-25 23:44 | エッセイ
2006年 04月 11日
おとことおんなの理論

「愚妻を持った」と嘆き、愚痴る、なかなか帰らない客と、ママの会話。

* * *

「おんなはおとこにぜったい、かないません。
無理です。絶対無理」

「俺だって、愛したいのよ。思いっきり。でも、憎らしいことばかりいいよる。
もっと、かわいくしてくれたら、いくらでも働くのに。」

「おとこは、化か。
ばかで、ばけるの。おだてて、お願ぃ あなた なんてかわいく言われたら、
もう、いくらでも働くんよ」

「最近、ちゅうと半端におんなが強くなってあかん。
徹底的にやるんなら、かまへんで。でも、そんなんごく一部やで」

「おんなは、あほ。
頭の回転では、かないませ~ん。でも、あほな風して、おだてて、おとこをうごかすの。
そうしないと、生きていけないんだから。

精神的には、つよく、したたかよ。だって、みんな ここから生まれてきたんだから、
それりゃあ、絶対おんながつよいにきまっている。」

* * *

こないだバイトで一緒だった、院生のおとこが、
「最近のおんなは、おだてるのが下手だ」
と断言していた。そんなもんかと思ったが、確かにそうなのかもしれない。

俺はいつも、おとこ・おんなを問わずにおだてられていて、あまり感じないのだけれど・・
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by taiji_nakao | 2006-04-11 09:34 | エッセイ