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2005年 05月 31日
緑のダム Ⅰ
 田中知事の脱ダム宣言をめぐる議論など、ダムと森林のはたらきについてはいろいろな意見がありますが、政治的な色合いが強くて、どちらの主張にも胡散臭いところがあって、実際どうなのかわかりにくいです。
 そんなとき、「緑のダム」の議論についてまとめられた本を見つけました。
多様な立場のパネリストが参加したシンポジウムの内容を基本に作られており、とてもありがたい本です。(「緑のダム」 蔵治光一郎 保屋野初子)

 しかし、いろんな人が、べつべつの立場・視点から意見を書いていることと、どうしても専門的な話にならざるを得ないことから、読むのに苦労しましたが。

**

 緑のダムといっても、多様な機能(水量調整、水質浄化など)がありますが、ここでは特にこの本において記述の多かった、洪水防止機能にスポットを当てます。

 ここで、問題になってくることは、

 「森林の洪水防止機能をどう定量評価するか」

 ということです。

**

 一つ確認しておかなければいけないことは、人間の手が入っていない、いわゆる原生林の状態でも洪水は起こるという事です。
 そういった攪乱が生物多様性の源泉になっているのです。でも、人間はやはりそれだと困ります。せっかく一生懸命働いて、ローン組んでマイホームが建ったと思ったら、洪水でやられてしまった。。ってのは、防ぎたいですよね。

  というわけで、ダムにしろ、堰にしろ、護岸にしろが必要になってくるわけです。

 ここで、どこまで(何年に一度の災害まで)を防ぐのか、何が何でも防ぐような人工物を作られなければならないのか、ということが問題になってきます。
 500年に一度レベルの洪水を全て押さえ込むには、コンクリートだらけになってしまうでしょう。

 いうまでもなく、ダムは洪水を防ぐ働きをしても、土砂を溜め込んだりと困ったことも引き起こします。それに、コストもかかります。
 実際洪水が起きたとき、どう対処するかといった話を含めた、トータルな視点での対策が求められます。ここでは、広い範囲の住民の合意形成が大切です。非常に難しいことではありますが。

 ただ、いずれにせよ、一定数の洪水を防ぐには、人工物は必要なことは間違いありません。
問題なのは、そこで、森林の洪水防止機能をどう評価して、人工物に必要とされる規模を算出するか、ということになります。

つづく




 
 
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by taiji_nakao | 2005-05-31 10:14 | 山と木材のお話
2005年 05月 29日
就職と学生団体
今日、CIAという団体主催の学生団体の交流会に参加していきました。

 衆議院議員の泉ケンタ氏など個性的な講師たちや、非常に意識の高い参加者に圧倒されました。
それから、ベンチャーをやってる系統の団体が多く、「山仕事サークル」というのはとっても異色でした。
 まあ、はじめからそうとわかっていたのですが。個人で話すときは、結局その珍しさには目を引かせても、深いところまで興味を持ってもらえず、興味のない分野のことに興味を持ってもらえるように話すのは難しいと痛感しました。

**

 ただ、違和感がありました。

 そりゃあ、分野・興味も、なによりタイプの違うので、あって当然といえば、当然なのですが、それだけでもない気もします。

 今日来ていた人はみんな成功者達で、つまりその紹介も、主張も、「やりたいことを見つけ、そのために熱意を持ってやっていけば、人はなんでもできるのだ」ということで、実際成し遂げた人たちなので、ほんと刺激になります。でも、えんえん続くとしんどいですね。

 それから、ベンチャーというのは流行ってます。学生の企業化というのがあります。

 これについては、自分自身、経営とか自己実現とかそういう本が好きだし、自分ももっともっと成長したい。それに、当たり前ですが、内定欲しいです。
 学生時代に人に、自分はこんなことやったといえることをしたい。

 以下は、それと矛盾するところ盛りだくさんますが、違和感があることを書きます。


 どうも、内定が学生生活の基準になってしまっている気がします。

 内定のためには、キャリアと実績(ともちろん、それによって高められた実力)が必要
だから、そのために、活動する。
 内定が取れると、時間があり、自信が生まれる。そして、残りの大学時代に何か大学時代にしできないことをしたい。

 これらは、内容的には共感できるのですが、。。

 自分で何が言いたいのか、この文章を書いていて、自分の中のもやもやがわかりました。

 これができる人って、ごく一部の人なんですよね。

 活動して、それが「キャリア」になるのはごく一部。

 それから、今のご時世、自分が納得できるところに就職できる人は限られてます。
その中で、よし、学生時代で最大の思い出をつくろうってことに、心から本気になれる中には、やっぱり、その後がある(納得のいく内定がある)ことが前提な気がします。

 だから、みんなができることじゃないと思います。


 学生のときはもちろん、就職しても好きなことをこつこつやっていく。

 自分の好きなこと・やりたいことと仕事とは、もちろん合わせたいけど、一致の度合いはまあ、運が決め、様々。そういうこともあるから、時間もあまりないかもしれないけど、仕事以外の活動として、途中止まったりしながらもちょくちょくやってく。

 むしろ、そういう形で関われるような活動が重要なんじゃないか、

 というより、自分はそっちに重きをおきたいと思っている、ということを確認したのでした。
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by taiji_nakao | 2005-05-29 00:45 | 考え事
2005年 05月 23日
木材自給率
日本の林業の現状はややこしいです。
全体の構造を理解しようとすると、とてもやっかいです。

 これからは少しずつ、その辺のことを書いていきたいと思います。

**

 日本の木材自給率は、18.2%(2002年)です。自給率が20%弱というのは比較的知られていると思います。

 ここで、現代では、木材の消費には、

  紙、合板、製材品の3つがあること

をまず押さえておく必要があります。

 そして、残念ながら、紙(丸太→ チップ → パルプ → 紙の順に加工される)と合板の原木としての国産材の競争力はほぼゼロです。*1

 というより、歴史的に見て、国産材がチップと合板の原木になったのは例外的な戦後の一時期しかないです。

 そのため、現在の国産材のことを見るなら、まず製材品に注目すべきです。国産材の7割は製材品位使われ、この分野では3割のシュアを持っています。
 
 自給率を見るうえでは、ここの数字が一番重要です。

 その製材品はほとんどが住宅用ですが、この需要も大きく変動してきています。

 *1 ここでややこしいのが、国産材チップも全体の12%を占めている、という事実です。
しかし、これは工場からの端材の有効利用が主な目的で(この採算性についてはわかりません)、チップのために国産材原木を調達してはまず採算が合いません。(チップは製材用に比べて、2分の一以下です)
 

 主要産品 3つのデータ
2001 (森林・林業統計要覧) ただし、紙の消費内訳は2003のデータから計算

 *紙  
 消費量 3870万㎥
     内訳 オーストラリア 20.9%
        アメリカ      13.5%
        国産        12.3% (そのほとんどが製材の端材)
        南アフリカ      9.2%
        チリ          8.6% 
 
 *合板
 消費量 1300万㎥
   内訳 製品輸入 800万㎥
        内訳 インドネシア70%
           マレーシア 30% 程度
      原木 輸入  440万㎥ 
         南洋材 176万㎥ マレーシア サラワク70% 他はちょっとずつ
         北洋材 177万㎥ ロシア
         ほか
      国産      18万㎥          
               
 *製材品 3700万㎥
      製品輸入 1430万㎥ 
        米材 44.7%(ほとんどカナダ)
       欧州材 28.3% *ここ10数年で、0からここまでシェアを伸ばす
      
       原木
        輸入  1090万㎥ 
         米材 70% (ほどんどアメリカ)
         北洋 25% ロシア 
        南洋材    
        国産   1170万㎥ 
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by taiji_nakao | 2005-05-23 00:58 | 山と木材のお話
2005年 05月 08日
木彫り
 チェンソーで彫刻というものがあるんですね。

c0043368_1275564.jpg


 初めて知りました。 チェンソーカービングというそうです。

 写真をみると完成度は高いです。

 ショーとして観るのも面白く、迫力があるそうで、これは一度観てみたいです。

 **

c0043368_126520.jpg


 こちらは、杉良メンバーの作品。
 
 彫刻刀で彫って、こんなんができるんです。

って、自分はまだ作ったこと無いんですが。
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by taiji_nakao | 2005-05-08 01:29
2005年 05月 05日
住宅の例
 主観的、間主観的側面が疎かにされていることこそが大きな問題だ、と考えるようになった時の事を書こうと思います。
 2年前に、日本の林業の問題の勉強会をしたとき、住宅の変化が大きな影響を与えていて、ここに触れないではいられない。ということに気づき、ちょっとかじりました。

 ちょっと調べてみると、戦後は、合理化の歴史です。

 いかに住宅が合理的に建てられるようになったかがわかります。

 庶民が家を買うなんて事はまずできなかったのは、そう昔の話ではありません。短期間で格段に安くなりました。そして、建てる工期も格段に短くなりました。

 耐火についても、江戸時代に火事が多かったのは事実であり、明治以降、多くの研究者が防火のための研究を重ねた成果が生かされています。耐震についてもそうです。

 耐火・耐震については、伝統的な工法にもその性質はあるのですが、合理的にそれを高めたり、証明するという取り組みが足りなかった。

 また、2000年にできた、住宅品質確保法は構造の主要部分の10年間保障を謳い、これによって、数値で性能を保証するということのなかった国産材は大打撃を受けることになります。

 こうみていけば、まさに理にかなっているのです。

 実際、勉強会もまず、こういう事実を並べました。
そしたら、ちょうど私の英語の外国人の先生も来てくれていたのですが、痺れを切らし、「so what?」と聞いてきました。まあ、焦らそうと最初から思ってたんですが、今思うとあんまりよく無かったですね。

**
 調べていくうちに、まったく合理的だ、と納得している自分がいます。

 でも、自分の中には言いたいことがありました。

 それは、まずそれまでに国内で山づくりに関わっている人たちをみて来て、その人たちの考え方や思いには共感していたということ。

 それから、この場合、必ずしも国産材でなくてもいいのですが、腕のある大工と一緒に伝統的な建て方で、しっかりした小屋をたてるというワークショップに参加したときに、大工の腕に感激したこと。

 また、例の2000年の法律ができてから、工務店は過剰にクレームを恐れるようになるのですが、本来、木って、伸びたり、曲がったり、(構造には影響のない程度に)割れたりするものなんで、それを調整できるものでもある。
 木っていうのがそうであると知っていれば、なんとも思わない。

 例えば、上からの重みが長年続き、襖の上の木材が少し沈んできて、襖が閉まらなくなったら、木の襖ならカンナで削れば問題なく使えるようになる。

 日本人はそういう、木の性質をわかって付き合ってた。

 それが、ちょっとでも割れたらだめ。だからしょうがなく絶対に割れない、板状にして、0%まで乾燥させてから、接着し、表面を合成塗料でコーティングした集成材が出回っていく・・

 こうしたことは必ずしも合理的に説明できません。

 例えば、シックハウスとか、環境とか言っても、そりゃあ、多くの企業は一生懸命がんばってるんですから。シックハウスにならない(といっても人それぞれですが)、少なくともどんどんなりにくい接着剤は日々研究されているはずです。外国から木材輸入=環境破壊 という時代も終わりつつあります。

 私は、「美しいものの消失」と書きました。
(相変わらず、くさい言葉を、、)

 とっても合理的だけれども、美しいものを失っていないですか? と。
副題に~失われてゆく見えない幸せ~と銘打って。。

 これを考えたときは、かなり自分の中ですっきりしまいした。
そうだ、と。

 あとから考えると、これこそ、主観的、間主観的側面をもっと大切にしようよ、ということに他ならないです。
 
 以後特に、何かを人に訴えるときは、「~は問題だ」ではなく、「~によって、~という美しいものが失われようとしている。それをもっと大切にしていきませんか?」というほうが有力だと思っていますが、同じですね。

 ただ、今の私では、単なる、うぶな人間の独り言でしかないですね。
それを踏まえてどうするのか?ってとこですね。

 結局、現実から入るしかないですよね。(そりゃそうです)
現実的な客観的なところでちゃんと結果を出しつつ、いかに「美しいもの」を大切にできるか。

 最近、抽象論が多かったので、これからはもっと具体的にところに入ろうと思います。 
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by taiji_nakao | 2005-05-05 17:48 | 山と木材のお話
2005年 05月 05日
自主的な組織(Ⅱ)ぷらす
前々回の「自主的な組織(Ⅱ)」にはいろいろとコメントをいただきました。

 自分で読み返しても、無理の多い文章だと思います。
しかも、言いたいこともわかりにくいので、ここで書き直してみます。

 まず、前提として、この前のエントリーに書いたように、私の問題意識として、

 客観的側面ばかりを強調し、主観的、間主観的な側面を疎かにしていることこそ、現代の問題の根底にある

 と考えています。
(ケン・ウィルバーの説明がぴったり来るので、これを好んで使っています。こう考えるきっかけについては次回に)

 ただし、現実とは客観的結果の積み重ねのわけで、これを否定したり、軽く扱ったりするのは、ナンセンスです。この3つの側面はどれも互いに還元できないものですから・・

 このブログでは、軽く扱いがちですね。それをコメントで指摘されました。

 自分が「うぶ」なことにきていると思います。

 親のすねかじって、生活しているんですから。最近特に、「自分がうぶ」であることを感じます。
ただ、もうしばらくうぶなところからでも、主観的、間主観的側面を強調することについて書こうと思います。

 本河さんのコメントに、
どんな組織もミッションを持っているはず とありました。

 その通りです。ミッションとは、
 今の問題にスポットを当て、それが解決された理想の状態を示すものです。
それは、客観的側面です。

 今の状態と理想状態のギャップをみて、それを埋めるためにはどうしたらいいのか?

ということです。
しかし、じゃあ、なんで今の状態を問題だと思い、理想状態が理想だと思うのか?

 というところをみていけば、最終的には主観的美、間主観的善に行き着くはずです。
だから、(客観的側面とは別に)主観的にその美を大切にしたいから、その活動に参加しているわけです。間主観的善にしても同じように。

 活動の中で、こうした、美・善を大切にすることが、非常に重要だと思うのです。

 本来、客観的な結果がないところに美も善もありません。
自分たちの、自分・自分たちの行為の及ぼす現実に気づかなければ、あるいは直視しなければ、ありえますが、これはまさに「自己満足」です。
 また、美・善を追求するからこそ、結果になる、そういう、お互い関係しあうものです。

 一方、一つの結果にこだわりすぎたために、美や善に反することになることは、残念ながらよくあることです。
 というより、今の社会全体が、客観的結果ばかりを強く要求するために、美や善がわきに押しやられてしまいがちです。
 
 それでは自発的な組織としての意味が薄れてしまうだろう、というのが私の意見です。
 
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by taiji_nakao | 2005-05-05 16:37 | 考え事
2005年 05月 05日
お金とは?儲ける事は善悪で評価できるか?
 「お金って何でしょう?儲ける事は善悪で評価できますか?」

という問いをtarudattebaさんからいただきました。

 コメント欄では書ききれないので、ここで書くことにします。

 お金とは、

 「現在の社会において、価値を生み出したことに対する対価」
だと思います。
 
 儲ける事は現在の社会に一定の価値を生み出し、それが評価されたということです。

 これ自体は善くも悪くもないことです。「価値を生み出し、評価された。」それだけです。
 
 ここで考えなければならないのは、

 第一に、あくまで「現在の」社会においてであることです。その現在の社会システムには問題も多いので、必ずしもフェアな評価でなはありません。

 第二に、評価の基準です。

 物事は3つのアプローチ、客観的、主観的、間主観的 があること。どのアプローチに対しても、他のアプローチの側面は持っているが、それら全てを他のアプローチに還元することはできない。

という、ケン・ウィルバーの考えを援用すると、
 評価も、客観的評価、主観的評価、間主観的評価があるわけです。

 したがって、生み出された価値の評価もこの3つの基準からバランスよく評価されれば問題ないのですが、実際はそうではありません。
 
 そもそも、普遍的な価値をもつお金は、客観的であることが求められます。

 とはいえ、お金の価値を決めているのは、人間なので、客観的評価だけでなく、3つの基準が幾分か統合されて、評価されています。

 しかし、グローバリゼーションの進行は、「客観的」評価だけにしてしまおうという圧力をかけています。グローバルスタンダードと呼ばれる、この「客観的」も、実は恣意的なのですが・・


 つまり、客観的評価である、お金の評価「だけ」を求めるという行為に問題があります。

**

以上を踏まえて、

 「お金って何でしょう? 儲ける事は善悪で評価できますか?」

「お金とは、現在の社会において価値を生み出したことに対する対価」であり、

 *1
「ある行為に対して、対価を払う、現在の社会システム自体が善か悪か」という評価はできる。

例えば、何もしないで、利子だけで莫大なお金を手にするのは、悪だと考えます。


次に、仮にそのシステムはそれでいいとするなら、
*2
「その方法で儲けるという行為を選択したことが善か悪か」という評価ができる。

 そこでのポイントは3つの側面、客観的、主観的、間主観的側面をバランスよく勘案したか。もっというと、主観的、間主観的側面はお金としては評価されにくいが、それでも選択する上で尊重したかということです。
 
**

 客観的、主観的、間主観的という言葉はわかりにくいので補足です。

 例えば、私は今日だんのういちに行って、そこで京大の院生がお世話になっているという農家で今日取ってきたと言う、大根菜という野菜を買ってきました。

 この野菜の評価を上の基準に従って分けると

*客観的評価

 新鮮である、量もまずまず、見栄えも悪くない、珍しい

もっと小さなレベルまで還元すれば、

 ビタミンX、~(よくわららない)が~グラム含まれている
 食物繊維~ エネルギー~カロリーなど

*主観的評価

 私は大根の葉っぱが好き 

*(間主観的と主観的ははっきりわけられない)

 同じ大学の同じ学部 話していて、何か買いたい気に 
 地域の野菜 こうしたイベントが盛り上がって欲しい

ちなみに100円だったので、私の中でこの評価を総計するともう少し払っても良かったです。
(って、どれくらいまで払ったかとなると・・難しいですが)


 
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by taiji_nakao | 2005-05-05 01:29 | 考え事
2005年 05月 03日
自主的な組織(Ⅱ)
 前回の続き、自発的な団体は「成果を第一に重視すべきか」ということに対する考え方を書きます。

*2 成果に責任を持つということを重視しすぎると、成果が見込まれなければできなくなりがちになって、活動が限定される。

私の考えでは、自発的な組織全てのミッションとして、「コミュニティの自立」が一番にくると思います。コミュニティというのは、地域もそうですが、ここでは「同じコンセプトを共有するものの集まり」という定義で使っています。

 グローバリゼーションが進行するに連れ、カネ、モノ、ヒト全てが一極へ集中しています。都市であり、大企業であり、資本であり。。

 そうした中で、人の生活が踏みにじられていく。というのが、大雑把ですが、現代の大きな構図です。

 そうした、力ではなく、人の想いを軸をおくコミュニティの自立こそが、そうした一極集中に対する、オルタナティブとして期待されます。

***

 とみたとき、コミュニティが現金収入を得ることは非常に重要であり、成果を追求することは必要なことではあります。
 しかし、自発的な組織にそれを一番に求めるのはナンセンスだと思います。やはり、商売とボランティには求められるものが違います。もちろん、はっきり分けるべきでもないのですが。

 私の考えでは、こうした組織(簡単に言うとNPO)が一番力点を置くのは、前回のエントリーに載せた、メンバーの幸せです。これは、その組織のコンセプトを大事にする、ということともいえます。(ここで、そうした事業体もあり得るのはその通りで、実際これからの時代はそうした企業・NPOが増えていくと思います。しかし、商売にならないNPO、組織の方が多いでしょう)

 さて、*現金収入を得る ことを目的に考えたときに、自発的団体(以下NPOと使います)と企業の役割はどうかを考察します。

 まず、企業は生産者であるわけですが、私はNPOは「生活者」という定義するのがしっくりすると思っています。まず第一にNPOのメンバーはほとんどボランタリーに片手間で活動しています。そこには、プロと言うより、「生活者」として参加しています。

 生活者は、NPOでの活動が商売として成り立つかどうかに責任を負うことはしません。(できないです。ほとんど)それより、生活者として、生産にも消費にも両方にかかわり、どちらにも商売のような厳しさを課さない。いわば、マーケターの役です。

 ちょっとわかりにくい書き方ですね。間伐材利用を例にとって見ます。

 今、日本中の森には人工林が溢れ、その大半は間引きにあたる、間伐がなされていないことが問題になっています。行政はこれを何とかすべく、間伐材の利用促進を進めています。そのためには、新たな間伐材の需要を創る必要があります。

 が、ほとんどうまく行っていません。
 当然だと思います。公共事業に使う材料ならともかく、林務に関わる人が一生懸命考えたところで、そんな需要を生み出せるとは思えないからです。そういうことを、大企業は大きなお金と専門の人材を使って、日夜やっている。それでも、なかなかうまく行かない。それを素人が、ちょっとがんばったところで、売れるものができっこないです。
 
 ここで、NPOなりの出番だと思うのです。とにかく、木を使ってみたい人、使いそうな人に呼びかけ、そういう「場」をつくり、材を提供し(あるいはその仕入れから体験してもらい)、自由にそれで「遊んで」もらう。そこに、「生活者」がからむことが重要です。

 もしうまく行けば、まず、作った本人が使う。それで、いいなと思ったら、友人にプレゼントしたり、ちょっと活動のPRを兼ねて(儲けにはならないが)、売ってみる。
 なんてことを、楽しみながらやる。儲けがでるとか、は後回し。
 プロセス自体を楽しんでいるので、成果(例えばできた商品)があまり実用的でなくても許せわけです。

 それで、「これは行けそうだ」というのがあったら、それを商売にすればいい。それだけの組織基盤を持っているなら、そのNPOがやってもいいが、そのNPOの掲げるコンセプトを共有した事業体が本格的な商売をすればいい。
 
 おそらく、今の時代でもっとも難しく、お金儲けで重要なセクターは、マーケティングでしょう。そこを、これだけ変化の激しい時代に小さな企業が自力でやるのは、大変なことです。

 そこにNPOが入っていく。というのが、「いかに(コミュニティが自立するための)*現金収入を得るか」という切り口で見たときの、NPOの役割だと思うのです。

 したがって、そのNPOに対して、「成果を出すこと」を第一に問うことは筋違いだと考えるわけです。

 ただし、ここでも触れていますが、もし有望そうな(事業になりそうな)活動を見出したとき、
(それまでが大変だと思うのですが、、)「そのNPOの掲げるコンセプトを共有した事業体がないとき」・・
 そのNPO自らが商売をしないと、「コンセプトを追求しつつ」(これがコミュニティの存在理由)、「現金収入を得る」ということができなくなります。

 この辺は次回のテーマになってきます。

 さて。。結論。

 コミュニティの自立を目指す以上、現金収入は欲しいし、できることならそういったセクターをもてればいいが、それは「商売」であり、必ず目指すものではない。
 できればやりたいというもの。

 あくまで一番大切なのは、コンセプトを大事にすることであり、メンバーの幸せである。
商売に関しても、最も重要な役割は「生活者」として関わる部分であり、運営・流通・販売といったすでにあるものをうるための働きより、商売にならないものを発掘し、評価し、広めるところに重きを置くべき。

 というのが持論です。

(でも、これ、専門家集団のNPOはこうではないですね。
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by taiji_nakao | 2005-05-03 02:06 | 考え事
2005年 05月 01日
自主的な団体に大切なこと
 先日、神戸市で行われ、主にまちづくりに関わる(主に)学生団体が集まった交流会がありました。主催した、3団体は非常に活発で、中には賃貸の事務所を持っているところもあり、刺激をたくさん受けてきたのですが、そのなかで、お金に関する議論があり、

*しっかりした活動をしているなら、お金は、取る気になれば取れる。しかし、その気がないように見えるがどうか?
*人件費も支払い、継続性がある活動でなければ、活動の恩恵を受けている人たちにとっては、むしろ迷惑になるのではないか?

という問題提起がありました。

*お金のこともきっちりしていきたい。
*自分たちがどこまでできるかを事前に知らせることは大切だが、必ずしも人件費の払えるような活動であることより、自分たちが楽しむことが重要だ。
*スタッフの費用(交通費等)は、自己負担にしている。それは、スタッフ自身が自分のため(成長、楽しみ)に来ているからだ。

といった意見がありました。

私はその場では答えられませんでしたが、このあたりの議論は日ごろからよく考えているところなので、

*1 自主的な団体(市民団体。学生団体)にとって、「その成果」も大切だが、むしろ「活動のプロセス」の方が大切である。

*2 成果に責任を持つということを重視しすぎると、成果が見込まれなければできなくなりがちになって、活動が限定される。

*3 こうした団体(以後団体)には、発達段階があり、いきなりお金の話をするのは適切でない。また、学生団体には発達に限界がある。(そして、本当に最近、この壁を越えようという動きが活発になってきているが。)

という視点から書いてみようと思います。

===============

 まずは、*1 つまり、成果よりプロセスが大事だということです。

 別の言い方をすると、お金で評価されうる、客観的な結果よりも、
必ずしも客観的には評価されないかもしれないが、メンバーやそこに関わった人たちにとって意味のあること(楽しかったり、充実していたり)であることのほうが大事だ、ということです。

 おそらく、上の*1~3で一番、議論の余地のあるところでしょう。

 今の世の中の大きな問題として、現在お金で評価されることしか大切にされない、ということがあります。

 これを解決するにはまず、現在お金として評価されていないものに金銭的な価値を与えるようにしていく、というのがあります。
 社会的企業、NPOというのはそうしたアプローチでしょう。
 今回の問題提起も、そうした観点からのものと言えるでしょう。

 しかし、もう一つのアプローチに、「お金でどうかはともかく、そのもの(団体の活動や製作物など)に価値を認める」というものもあります。
 活動が楽しい、自分が大切にしたいものを大切にできる、とか、そういうことです。
 
 お金に換算することそのものが不可能なものもあります。あるいは、本来換算すべきではないもの。

 現代人はとかく、「客観的評価」を気にします。それが、いくらの価値があるかということを第一に気にします。(お金を全て否定する気はありません)

 が、例えば、趣味の話とか、自分の時間、自分の服・車などが、「いくらの価値があるか」ってのは、一番重要なことではないはずです。

 一番重要なのは、本人がそうしたいか。それで満足かということでしょう。

 団体にとっても、まずはそこに参加している人が幸せか、というのが一番に来るべきだと思うのです。

 そしてその場合、これは個人差(ある人は、とにかく仕事をバリバリ進めたがり、ある人はゆっくり楽しみたいなど)があるのですが、その際、プロセスが大切だと思うのです。

 結果、一日3本の苗しか植えられなかったとしても、そこに来た人が自分の手で植えたこと、その木のことをちょっと学んだこと、植えてから深呼吸して目の前に広がる景色にうっとりしたこと・・・

 もし、結果しかみなければこうしたものは全部そぎ落とされてしまいます。


 「それは自己満足ではないか?」  という問いも当然あるでしょう。
 
 文字を素直に読めば、その通りを意味しています。本人が満足しているのです。それは大切で、素晴らしいことです。

 でも、もちろん、ここには、「他人に迷惑がられて」という前提があります。

 難しい問題ですが、

 関わる人と、コミュニケーションを重ねていき、自分に非があると思ったら、素直に認め、改善することを続ける。

 しかないでしょう。広義には、お金をもらうこともコミュニケーションの一つです。

 自分たちが、良かれと思ってしていることが本当はそうでなかった、ということもありうるでしょう。そのときは、素直にそれを認めて、改善する。
 
 コミュニケーションの例としては、「誰かのためにしている」団体の場合、「私たちはここまでしかできないし、あるいは、するつもりはない」ということも含まれます。やや、冷たい印象を与えそうでも、ちゃんと伝えるべきこともあります。

 私の所属している、山仕事サークル 杉良太郎ではいつもこのことに気をつけています。私たちの活動は作業ですから、山主としても助かるわけで、期待されてしまうところがあるのですが、あくまで、「作業を体験すること、より多くの人に体験してもらうこと」を目的としていることを、伝えています。

 期待させて、その気にしておいてから、「やっぱり無理です」というのはやってはいけないことです。
 

 結論として、

 自主的な団体にとって一番大切なのは、メンバーが幸せであるということ。
そのためには、プロセスを重視する必要があるということ。
 その場合、自分たちが良かれと思っていることが本当はそうでない「自己満足」に終わってしまう恐れが常にあるけれども、その対処法としては、常に関係者や幅広い人との対話を続けることしかないと言うことです。

今日はここまで。
 
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by taiji_nakao | 2005-05-01 19:36 | 考え事