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2006年 06月 29日
ギャル語でバトン
指定型バトンなるものが渡された。
バトンはあんまり好きでないけど、せっかくなので書いてみる。

最近、ギャル語変換というサービスを見つけて、気になっていたので、この際に利用してみることにした。

しかし、こんなんほんとに使ってるのかなあ。
変換の度合いが、ちょっと→そこそこ→とことん とあるので、徐徐にレベルを上げていくことにした。読めるでしょうか。ここまでくると、暗号に近い。

文字化けしてるわけじゃないです。
あ、でも、上の変換のサイトでは使うごとに文字化けでしたが。
「とことんを超える」と、文字化けなのでしょう。
案外、そんなもんなのかもね。

ちなみに、指定は[杉良]でした。

■■■[指定型★バトン]のルール■■■
◆廻してくれた人から貰った【指定】を【】の中に入れて答える事。
◆また、廻す時、その人に指定する事

◆最近思う【杉良】
すτきた〃

◆この【杉良】には感動!!!!
作業後にも、夜遅<まτ〃食∧〃飲み
みωな、個性的τ〃す

◆直感的【杉良】
某俳優K似τぃる
ゃま ぃも、・然派

◆好きな【杉良】
日中は、鎌を研き〃、草を刈り、
夜は、存在ッτイ可`⊂語ゑ

◆こんな【杉良】は嫌だ!
ゐωTょτ〃、≠〃ャ儿語τ〃⊃彡ュニヶ→ショ冫すゑ

◆この世に【杉良】がなかったら
今σ禾ムレ£レヽTょレヽ★`⊂レヽぅ人ヵゞ、結構レヽゑτ〃Uょぅ★

◆次に回す、5人(『指定』付きで)
ゃレ)T=レヽ人、ゃッτ<T=〃±レヽ指定レ£、[≠〃ャ儿語]τ〃
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by taiji_nakao | 2006-06-29 00:05 | にっき
2006年 06月 26日
クリエイターズミーティング
知り合いが企画したイベントに行ってみる。

京都大学町屋キャンパスというのを、情報学研究科がもっていて、なかなかにすてきなところに、主にプログラマーを中心に、なんだかよくわかならないくらい、すごい人、すごいんだろうな、という人が集まっていた。


ネットを介してリアルが加速すると以前書いたけれど、ここ数ヶ月でも自分自身、これをよく感じる。特に、mixiがすごい。
林業+ビジネスに興味がある人というのは、日本中に3桁いないだろう。
そのうち、mixiであれこれ書いている人は、だいたい名前と大雑把な印象はわかってくる。
そして、何か機会があると、メールして、「メル友」となる。
さらに、会える機会があれば会ってしまう。
今まで、こうした人たちが出会うまでには時間がかかっていただろうけど、この速度がものすごい速い。

**
世界の認識が変わってしまいそうだ。
NPOパンゲアは、世界の子どもたちがネット上でつながって一緒に遊べてしまう、ということをしている。
言葉 空間 背景 経済 この、壁を越えて、遊んでしまえる、という。
例えば、絵文字を使ってコミュニケーションする。

マスメディアは、ステレオタイプを繰り返す。
彼らは、意図的に、あるいは時間がないためにそういう枠組みでしか見られなかったりするために、ステレオタイプなものの見方ばかりで、そして、暗いニュースばかり。
人間が果たして、世界全体を理解できるのか、というところにはそもそも限界がありそうだけど、少なくともマスメディアはそうした視点を提供できない。

一度、インドで開かれたワールドソーシャルフォーラム(WSF)と、その前に水に関するNGOが集まるミーティングに参加したことがある。(どちらも、何も知らず、ろくに準備もせず、勢いで参加した)WSFには、世界中のNGOがおよそ50万人が集まるというなんだか、カオスなイベントで、ここには多くが参加するから、その前に水関係も集まりましょう、というのが、水のミーティング。
ヨーロッパ、アジア、アフリカ、南北アメリカ、世界中の人がそこにいて、一緒に同じトピックについて話す。(えいごづけ。なかなかに、伝えられない)
そのとき、WSFのメイン会場で、生まれて初めて「演説」というのを聞いたのだけど、(キング牧師の「I have a dream」みたいな)そこにあった世界地図を見る感覚が変わった。
そう、世界は「外国の集合」ではない、全体を認識することは可能なのだ、という感覚があった。
その基礎にあるのは、やはり、「人」だと思う。
クレイジーなイスラエルのヒッピーや、話し出したらいつ終わるかもしれないインド人の人たち、カナダのNGOで仲良くなったあの人、お世話になったおばちゃんとその付き人的なフィリピンの人たち。アメリカのおばちゃんは、あまりに無計画な私の様子をみて、二度めにあったとき「OH! Taiji, you are still alive!」
そういう人がいる国として、世界の国々をイメージしたとき、具体的な想像ができる、気がする。

地球回廊というプロジェクトは、日本にいながらにしてそれをしてしまおうという取り組みと理解した。なんと、造形大でやってるのね。すぐそばだ。今度行ってみよう。
***

プログラマーは、ものづくりをしている。
そんな感覚を知ったのは、ベンチャーフォーラムで、ドリコムの内藤氏の話を聞いたとき。
ウェブ上の様々な機能は、結局のところ全部「手作り」でつくられたものである。それが、例えば木を材料にして家具を作るのに対し、いろんな言語を駆使して作り上げるという違いがあるだけで。
プログラミングをしている人たちが、「おたく」な時代はとっくにおわったのだろう。昨日、後ろに座っていた人たちは、あまりに「普通」であったけど、みんな国の先進的な開発に対して助成する「未踏」の対象者だった。例えば、その中の一人の女の子は「雰囲気の視覚化機能とアバターの利用による合意形成のためのオンライン会議システム」を開発していた。

より、リアルに近い形で、というより、ミーティング本来に備わっていること、ロジカルな討論はもちろん、空気の伝達等もできるようにしよう、というわけ。

インターフェイス、という言葉は最近知ったのだけど、単純には「わかりやすさ」と理解しているけれど、洛西一周氏はそれを一番にもってきて、ソフトをつくると。NOTAなんかをみると、これはウェブ上にホワイトボードができるようなもので、使いやすいし、例えばこれを使いこなせば、運営は根本的に変わってしまいそうだ。

今、メーリングリストなしの運営は考えられない。
そんなふうに、どんどん変わっていく、それを感じる。
ただ、それを進めるのは、技術上の進歩も必要だけれど、なにより使いやすさなのよ、というのはまったく同感です。
****

こうした技術が、どんどん生まれ、人と人のかかわり方が、コミュニケーションが激変する。そんな時代。というか、例えば携帯電話などここ数年の出来事であり、今まさに現在進行形なのだけど、そのパラダイムシフトのさなかにいる私達の世代(つまり、携帯電話がない、インターネットがない生活を知っていて、さらに新たな時代にも生きていく)の果たす役割があるのよ、という話を聞いて、そうかもしれないと思う。

「にちゃんねる」と聞いただけで、あるいは「インターネット」と聞くだけで、「あんなもんは信用できん」と切り捨ててしまう、困った人は結構いるのだけれど、しかし、その人の生きてきた背景をみれば仕方ないかもしれない。そういう感覚に共感できるのは、そういう生活をしていた人でないと難しいだろうし、逆に、ネットでの危ういコミュニケーションばかりに浸っていると、失いがちなもの、をはやり伝えていく必要はあるだろうし。

小さいうちは外で遊べよ、っていう感覚とか。
もう、「古いおじさん」になっていくのだろうか。
携帯で、ネットをする感覚には、もう、すでについていけてません。
「めんどくさいだろ、パソコンでやれば済むし」って、おじさん感覚なのかな??
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by taiji_nakao | 2006-06-26 00:29 | 参加したイベント
2006年 06月 22日
淡白
初めて自分が淡白な人間だと認識したのは、大学に入ってから。
弟が、「兄貴は自分のことばかりを考えていて、人(この場合弟)のことはあまり考えてない」
と、「兄弟間のコンプレックス」という文脈で使っていたと別の家族から聞いたときだ。

確かに、私はずっと、自分のことばかりを必死に考えて生きてきた、と思う。
中学も、高校も大学のときも。
それは、例えば経済的事情とか、そういう問題に遭遇しないで済んだ(少なくとも意識しないで済んだ)、幸運な人間だったからであり、その幸運とは私に関わる人によってもたらされたものだ。
しかし、そういうこととは別に、人がどう考えているかということに、私の関心は低かったのかもしれない。


人が淡白か否かというのは、人が評価するものであって、相対的なものだ。
私は、「淡白でいよう」などとはついぞ考えたことがないけれど、おそらく次のような思考回路は「淡白だね」と言われるものかもしれない。
**

2回生の後期、私はサークルの運営に熱中した。
そのとき、その運営のコアメンバーは4人いたが、 熱中度は私一人が突出していた。考え方も違った。こういうとき、おそらく多かれ少なかれ、世の中に数あるサークルの中に存在する問題が顕在化する。

「モチベーションの差」

私は、全力投球していた。
事務のことについて、人に呼びかけ、カリカリやっていた。
そして、後の3人がすべきことも、だんだんしなければならなくなってきた。
一つに私の理想が高い、といことがあって、それを実現するには任せていられないというものだが、客観的に言って、他の3人がサボっていたという分も多々あった。

私は苦しくなったし、一度そんな話をしたりしたけど、まあ、そう変わるものでない。
そのうち、私は彼らを非難する話をあちこちでするようになる。
おしゃべりな私は、だれかれかまわずそれをした。
私の言っていることは、だいたい正論であったし、こうして特に3人とはなんだか遠慮する関係となった。

私がこの関係の修復を完全に終えるまでには、かなりの時間を要した。
びっくりするくらい、私はそのことにこだわっていた。「かわいそうな私を慰められたい」という欲望は、深くしみこんでいた。

けれど、一緒にカラオケいったり、あれこれするうちに、どうでもよくなってきた。
それは、私が運営に熱中している間、彼らは授業や遊びを選択していただけの話なのだ。
それは、例えば私が疎い音楽に造形があったり、無能学部と揶揄される農学部でぎりぎりの単位をやっととっているのとは別に、ちゃんと授業に出、レポートを書いていた、というだけの話である。これは、皮肉で書いているわけではない。本当にそう思う。
契約があるならば、それは果たす義務があるが、自由意志であるものに関しては、あくまでそれは本人が決めることなのだ。

こうした思考は、「意図的に淡白でないふるまいをすること」に強い拒否反応を示す。
(まあ、やっぱり無理してそんな振る舞いをするのはよくないと思う)

もう一つは、もっと単純な話で、自分ですでにたくさんのことにコミットメントしているので、新たなことにコミットする余力がないので、それを求める人からすれば淡白にみえるということだ。

こないだ泊めてもらった先輩が
「(その人や俺のような)趣味も仕事も一緒な人間は、結局のところ、生活全部がそのテーマに関わることになるんじゃないの」
と言ってたけど、ああ、やっぱりそうなのかもね。

でも、淡白、という言葉には、どうして、こんなに悲しい、複雑な気持ちが含まれるのだろう。
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by taiji_nakao | 2006-06-22 06:44 | 考え事
2006年 06月 20日
東京
今日、明日と日程調整が合わず、日が照っている間にとくに予定がない。
こんなんでいいのだろうか。

朝実家を出て、お昼ごろに東京入り。
まず、森美術館へいくことにする。
恵比寿から歩いて、途中で定食屋的な店を探すがあれこれしている間に六本木通りに来てしまう。まずい。

なんとか、庶民的な店を見つける。中華料理 「ミッキー」
渋いおやっさんのラーメン屋なのに、だ。
ミッキーラーメン、ご飯、焼きそばがある。

ミッキー焼きそばにする。
炒めている様子を見ても、手際よく、うまそうだ。そして、なかなかおいしい。
が、これ、地方なら700円未満だよなあ。

今回の企画展は、「アフリカリミックス」

前、就活のときにも来たけど、森美術館は、量が圧倒的。(もちろん、質もすごいんだろうなと思う)京都では、これだけの分量は考えられない。って、どこでもそうか。

その後、恵比寿の東京都写真館に行き、そのそばのexicteが持ってるコーナーでネット。
それで、exicteに投稿しているのだから、なんとエキサイトloveなユーザーなんだろう。
だからお願いします、blogpeolpeの表示を出来る設定にしてください。
アマゾンにリンク張るくらい許してください。
**

移動時間が長いから、本も読むことになる。
内田樹(これ、なかなか読みが覚えられない。たつる)、いい。
ブログは以前から読んでいたのだけど、今回買った「ためらいの倫理学」、いいです。

全体的なスタンスがすき。
また、あとでこの辺のことも書きたい。
**

それにしても、エスカレーターに乗るたびに思うのが、「一列は、急ぎ用」の弊害。
えっと、関東は右をあけるのか。

これはいつだかの新聞で誰かが書いていたけど、不合理そのものです。
だって、早くつくなら、みんな早く着きたいでしょ。

半分がかっぱり空いた、長いエスカレーターを見てるとやんなります。

「日本のエスカレーターの半分はやさしさでできている」
のかもしれないけど、
半分がまるっきりあいてるのに、下では詰まってるって、どうよ?

あと、人多すぎ。
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by taiji_nakao | 2006-06-20 15:17 | にっき
2006年 06月 17日
糸井重里がすき
糸井重里がすきです。

「ほぼ日刊イトイ新聞の本」を読んだあたりからは病み付きです。
ほぼ日刊イトイ新聞のウェブサイトにいったこと無い人はぜひ。
わかりにくいですが、下のほうにコンテンツがたくさんあります。

このメルマガはお気に入りで毎回よんでます。
**

「経験を盗め」という本(糸井さんと、さまざまなゲスト2人の鼎談集)の中で、さりげなく言ってますが、

「何人ということに関係なく、自分たちがいちばんやりやすい方法、楽しい方法を選んでやっていく時代が、もう来てるんじゃないかって」

という言葉に代表される彼の感覚に、そのまま共感してしまうのです。
うんうん、そうだよなあ、と。

**
「話を聞く技術!」  永江 朗 はかなりお勧めですが、この本に出てくるインタビュアーはみんな、自分で創意工夫を重ね実績を上げている人ばかりなわけですが、自分のことをプロじゃないから、、というんです。じゃあ、プロってなんなんでしょう?

それは、「一定の時間内に一定の質の仕事を確実にこなす」ということを第一定義とする人、だと思います。なにしろ、それでお金をもらっているわけですから。
それは、大変なことなのです。

「一定の時間、一定の仕事」を第一に持ってくるなかで、一定の優れたプロセスが完成していきます。標準化です。これは必要な工程です。
そして、一般的に、それらの各工程の仕事を習得する時間もわかってきますし、そうすると、何年めはどの仕事、とかいう分業が進む。そして、階層も生まれる。
そして、権威ができて、そこに認められた人がプロ、ということになる。

前述の「話を聞く技術!」にでてくる人たちは、つまり、自分はそのような中にいないですよ、といっているわけです。
これは、結構大変なことです。
なにしろ、「一定の時間で、一定の仕事をこなす」かどうかわからないという、リスク。
そして、自分で開拓する努力と創意工夫がいる。
**

言うのは、簡単ですが、それを実践しているから価値があるわけです。
糸井氏の場合、コピーライターとして売れっ子だった。
もう、番付にでるくらい。

それなのに、その仕事をするよりも、新しいウェブサイトを立ち上げることに全力を注いだ。
それが、楽しい方法だったから。

ぜんぜん、最初はお金にならないのに、とにかくそれを続けた。
そのあたりが、すてき。
**

権威ができて、分業が進むと、その標準化されたプロセス本来の目的ではなく、そのプロセスを動かすこと自体が目的となってしまう。
そして、本来の目的を失う。

ここで、よく使われる言葉は「ねばならない」

でもさ、もっと素直に、まず目的をみようよ、というのである。
そして、そこに向かって、無理なくやって、できるんだぜ。
というのだ。
繰り返すが、それを仕事にするのは、簡単ではないけれど。
**

森林ボランティアというもの、自発的な活動にさえ、「ねばならない」があると考えている人が結構いるようだ。

杉良にはじめて参加する人も、
「自分は知識が無いし 技術もないし 体力もないし・・」
と心配する人が多い。

まあ、初めて活動に参加する人が何かと心配するのは当然のことだ。
でも、もし運営している人が、「ねばならない」をたくさん持っていたらどうだろうか。

もちろん、「ねばならない」が必要なこともある。
というより、何かをしたいなら当然何かを「しなければならない」
が、あくまで、「何かをしたい」ありきだ。

別に、何でもいいんですよ。
**

逆に言うと、「何かをしたい」が無い人はこないほうがいい、
という言い方もできる。

親戚の結婚式に、いかにも商工会議所の若者が「動員」されていたが、
彼らに「何かをする」という意図はなかっただろう。
上の人に言われたから、きたのだ。

こういうことをたくさんやっていると、組織が腐る。
組織とは、何か目的があるから集まるのだ。
それが無いことが当たり前になると、「今日の会議はなんだったんだろう」になるし、
ひどくなれば、そう考えることすらなくなる。
**

その「何かしたい」は、「日本の森林をなんとかしたい」だけである必要は無い。
きれいな空気のもとに行きたい、メンバーに会って話したい、
木を伐るのが好きだ ect・・・

肩の力を抜いて、したいことを素直に言ってみる。
そして、もちろん、組織でやるなら調整は必要だが、

「自分たちがいちばんやりやすい方法、楽しい方法を選んでやっていく」

そう、選んで。
選択して。そこには、創意工夫があるから。
**

このような考え方は、現代ではさほど珍しいものではないと思う。
いろんな人が言っているような気がする。

だけど、そういう感覚を20年以上前から持っていて、表現していたイトイ重里という人物を、
もう、とんでもない怪物だと思うのだ。






 
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by taiji_nakao | 2006-06-17 16:19 | エッセイ
2006年 06月 14日
「それを信じている方がよい<うそ>」なの?>京都議定書
 前回の永井均の「<子ども>のための哲学」の中で、道徳を

** たとえうそであっても、まやかしであっても、みんなが信じているほうが世の中がよくなるような、そういう<うそ>というものがあるのだ! **

という記述を読んだとき、ふと思い浮かんだのが、「京都議定書」である。

日本は6%の削減義務を負っているが、その3.9%は「森林整備」によって実現できるという。不思議なものである。日本には、(先人の努力によって)ほとんど植林を必要としている土地などないので、「森林整備」とは「木のないところに木を植える」ことを指すのではない。
そうではなくて、すでに植えられた森林を「適切な管理」をすれば、それが吸収源として認められるらしい。
そして、どうやら「適切な管理」とは間伐実施を指すらしい。
しかし、温度・降水量・養分・光といった植物の成長を決める要因は、間伐をしたからといって、さほど変わらないのだから、どうかんがえてもこじつけとしか思えない。

森林関係に携わり、ちょっと考える人なら誰でもそう思うはずである。
しかし、今「温暖化防止」の名のもとに巨額が投じられており、森林関係の研究も潤っているのは間違いない。
だから、そこに関わる人の多くは上にあげた引用のようなことを考えているのではないか、とふと思った。

***

温暖化の問題は重大な課題であるが、現在の議定書で問題なのは、温暖化が他の問題を差し置いてダントツでトップになっていることである。

森林問題で一番重要なのは、よく言われるように「持続的可能な管理」である。
しかし、京都議定書の力は強大で「二酸化炭素をどれだけ吸収できるか」が森林に第一に求められるものになってしまっている。
巨額がここに投入されるからだが、これには問題が多い。

まず第一に、そもそも森林は本当に二酸化炭素を減らすものなのか?という問いである。
単純に考えて、それまでまったく木のなかったところに植林するなら、その木が育った分は二酸化炭素は減る。しかし、一度育てば、そのあとは循環する(=植物が固定した炭素はやがて分解される)のだから、基本的にその森林が二酸化炭素を吸収しているとは言いがたい。
そして、現在巨額を投じてどれだけ吸収するか、という研究が行われているが、それがどれほど意味があるものか疑問である。

第二に、森林の質は問われず、とにかく「植林」という言葉が賞賛されるべき、お金を集めるべきものとなってしまう。
現在、製紙会社は海外にたくさん植林している。そのほとんどはユーカリのプランテーションで、言ってみればとうもろこしなどと同じ畑である。その行為自体を批判するつもりはない。土地利用に関して合意形成があるならば、当然ながら製紙会社は持続的、効率的に原料を得る方法を開拓して当然だから。
しかし、どうしてそういう営利行為にODAが使われたり、まして「排出権取引」などといってお金が与えられたり、「温暖化防止に役立ってます」と美しいイメージを獲得できるのか。
それより、本質的に環境活動に貢献している企業はたくさんあるのに・・
(製紙会社がそういう活動をしていない、といっているのではない。例えば廃液対策には巨額を投資してきている。)

***

森林問題に限らず、環境問題の次元として、「循環型社会の実現」が第一にくるべきであって、「温暖化防止(=CO2削減)」はその下にあるべき課題である。
つまり、「循環型社会の実現」という目標に「温暖化防止」は含まれる。
にも、関わらず「温暖化防止」が一番前にやってきているのが現状なのである。

これは様々な問題を引き起こすし、わかりにくい。
循環型社会の実現=化石燃料をできるだけ使わずに、最終処理までできる社会 
と考えれば、もっとシンプルでわかりやすくなるはずだ。

カーボンニュートラル(木材は、最終的には分解されてしまうが、また育つときに二酸化炭素を吸収する)などという、ややこしい概念を持ち出す必要はない。

まあ、「石油をできるだけ使わないように」とストレートにいえない政治事情があるのだろうけれども・・
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by taiji_nakao | 2006-06-14 00:54 | 考え事
2006年 06月 09日
しあわせ論
某先輩一押しの人ということで、永井均の、「<子ども>のための哲学」、この本を紹介された。
二部構成になっていて、前半のぼくと<ぼく>の議論、<子ども>の疑問はおそらく筆者と共有できていると思われ、なかなか面白かった。

それに、これはどんあ分野でもいえるような気がするが、「自分はプロでない」という人には面白い人がいる。
プロとか、その世界にいると、そこには伝統もある一方で、プロであるための定義がつらつら並び、自由な発想を奪っているからだろう。

ここでは、後半の道徳論に対して、自説を書いてみたい。

哲学的な問いを多くの人が問わないように、道徳というものは「いかがわしいもの」であるにもかかわらず、それが守られていた方が世の中うまくいくため、多くの人が疑うことなく、あるいはおかしさを感じながら、それを守るように呼びかけている。
しかし、そうではなく、利己的に生きるために仮に守っているに過ぎない、というのだ。

この辺は時間もないし、正確でないかもしれませんが、ここで指摘したいのは、道徳の本質は虚構ではない、ということである。

虚構の道徳は、世の中に溢れている。
建前の道徳とでもいえるかもしれない。例えば、なぜだか不明だが、今日百万遍には4人の交通整備のおばちゃんが、一生懸命笛を吹いて、
ピピッピ!ピー!「自転車は、自転車のラインの中だけを走ってください」
と一生懸命怒鳴っていた。まったく、うるさい。

どのくらいあれを続けるのか知らないが、お金と労力を無駄にしてそこにいる人に不愉快な思いをさせているだけだと思ってしまう。
だって、自転車の方が圧倒的に多いのだし、自転車のひとにだって都合があるのだ。
それを、守ってくださいの一点張りでは。。
こういうときに、もし罰則がつくことを私が知っていれば、もちろん、守る。

そういう、「道徳」はもちろん、社会には溢れている。
しかし、道徳の本質はそこにはない、と思う。

* * *

人生の目的とは何か?
という問いの答えはなく、それを問い続けることそのものかもしれない。
ただ、「幸せでありたい」という点では共通しているだろう。

では、幸せであるためにはどうしたらいいのか?

私のその答えは、「(できれば自分が好きな)人のために一生懸命働くこと」である。

アクセンチュアの最終面接で、「圧迫面接」の面接官は、

「人を動かすものには、
*名誉欲 *権力欲 *金銭欲 *異性にもてたい
のどれかである。あなたはどれか?」

と聞いてきた。
はあ?というもんだが、しょうがないから、
「異性にもてたいです」
と答えたら、
「異性にもてるためにはどうしたらいいか、戦略的に説明してください」
といわれる。
「まず、センスを磨くこと。センスとは・・(省略)
それから、相手を思いやること・・」
と言っていたら、
「あまり切実さがありませんね」
「・・・」
というわけで(それが原因かしらないが)落とされた。

この人は、外資系コンサルのパートーナーであるから、大企業の取締役クラスであり、業界を牛耳る(引っ張るともいう)ような人物である。
そのなかで、どろどろもある競争を、強い欲を持って勝ち抜いてきたのだろう。
そして、私にはそのような欲はないと判断したのだろう。

だが、それこそ聞きたい。
「その欲を満たして、何がしたいのか?」
と。答えられるかな?

幸せの話に戻す。
欲に引っ張られ、一生懸命働いているときは充実していて、成果もでるし、楽しいだろう。このときは幸せであるといえる。
そして、成果を認められ、それが、名誉か権力か金銭か異性かは知らないが、それを手に入れれば、そのときは幸せだろう。
そうやって、そのときにいる取り巻きに敬意を払われ幸せだろう。

だが、その欲が満たされて、名誉と権力と金銭と異性、すべて手にしたとして、例えば、その広い家でふと、月を見上げたとき、本当に幸せだろうか。
何か、やるせなさを感じるのではないか。

しかも、そういう欲を満たすためには、人を蹴落とさなければならないから、数々の人にうらみも言われようし。それも、さらなる欲を満たすことで補うのか。

人のために働くことは、もちろん、人を蹴落とさなければならない場面もあるだろうが、そういうことが少ない。

一生懸命、働いているときも充実し、幸せである。
成果が出れば、もちろん嬉しいし、感謝される。
そこで、もちろん、もらうものは最低限もらうが、特に名誉も権力も金銭も異性も(って、それりゃあ、相手はほしいけど、彼が言ってたのはそういうのじゃないよね。きっと)、そんなにいらんでしょ。

そんなものいらないさ。
それより、幸せになったひとびとが周りにいて、感謝されるほうがよっぽどいいではないか。
ふと月を見上げたとき、そうやって(おせっかいにも)面倒をみた誰かの顔を思い浮かべて、どうしているかなとにやにやしている。
根本的な理由としては、人間はどういうわけだか、人から感謝されるとエネルギーを受け取れるからである。

この場合、いつも幸せなのだ。
(裏切られたら悲しいけど。世の中そんなこともあるだろう)

* * *

「できるときに できることを 人にしてあげなさい」

ほぼ日刊イトイ新聞語録
監修:糸井重里

智慧の実のことば の中で一番のお気に入り
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by taiji_nakao | 2006-06-09 17:41 | 考え事
2006年 06月 05日
無人島に生きる十六人(お勧めの本)(× 愛国心を問う看板)
十五少年漂流期(二年間の休暇)、神秘の島、ロビンソンクルーソー・・
無人島にたどり着き、そこで、自分達で工夫を重ねながら生きていく、、
そんな小説は大好きだった。

海洋小説は好き。

その日本版。
明治時代に難破した船員たちが、何もない島で数ヶ月暮らす。
たまらない一冊。
**
で、海洋ロマンな話をつづってもいいのだけど、この16人の組織の雰囲気が気に入ってしまったのでその辺りの話を書く。
船長をはじめ、とってもすがすがしい。未練たらしいことをぐちぐち言うこともなく、てきばきとやるべきことをやり、楽しくやり、そして常に成長を志向している。
理想的だなあ、などと思う。

てきぱきさ、楽しさ、成長志向というのは、その構成員全体の割合によって、組織全体が決まる。リーダーを中心に、てきぱきした人が多ければ、みんなてきぱきするし、だらける人が多ければ、全体にだらける。
これは、日常でも感じる。おそらく、日本は明治から一貫して、だらける向きに進んでいるのではないか。

そして、成長志向であるけれど、ここでは「お国のため」を合言葉にしている。
そう、(ほとんどの)人というのは誰かのためでなければがんばれない。
難破しても、時間があればいろいろなことを学ばせようとあれこれ船長が考えるのも、「お国のため」なのだ。
思うに、何かを意図し、人を動かすのはおせっかいである。人生とはそんなものなのだろうけど、やはり、そこには理由がほしい。あるいは、アイデンティティとも言うべきか。

どれだけアイデンティティを確立できるか、ということが重要なのだけど、そんないつも強いアイデンティティを持っている人などいないだろう。何かにすがりたい。
100%すがるのは問題外だけれど、そういうものが必要なのは間違いない。

それが「お国」になると、どうなのか?
なぜ多くの日本人が、若者達がお国のためにと心から思えたかという議論は多くあるだろうし、そこには各種の国家的な「洗脳」があったのはここで議論するまでもない。

ただ、明治に入ってから一定期間機能したのは、結局のところ、自分の最も身近な尊敬できるリーダー(先生、(この場合の)船長、など・・)が、「お国のためを思っているから」ということなのではないかと思う。

**

愛の強要すんな!と、取り壊されずに残った石垣に看板が立てかけられている。
まったく同感である。
が、そこには、「愛を持たないことを強要したい」(*1)という意図が感じられ、あまりすがすがしくない。

++++++
♪ 愛は奪うでも 与えるでもなくて 気がつけばそこにあるもの

ミスターチルドレン 「名もなき詩」
++++++

                                  
しかし、、重要法案の審議より選挙対策を優先する人間がリーダーの国(*2)を、
愛せなんて言えやしないだろう。



(*1) 少数派は、多数派に埋もれてしまうがために戦略的に声を大にしなければならない、ということにはうなづける。しかし、相手と同じ目線で批判を展開するのではなく、より普遍的な主張をスマートに提示してこそ未来が開けるのでは。

(*2)現在の政府と、国そのものを一緒くたに考えてはいけない。しかし、(今)「日本を愛せますか?」という問いの日本がさすのは、現在の政府ととるのが普通だろう。

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by taiji_nakao | 2006-06-05 08:14 | お勧めの本
2006年 06月 02日
コアー建築工房 吉瀬さん
 おととい、コアー建築工房へ聞き取り調査に行った。
OMソーラー協会のパンフで存在を知り、ウェブサイトを見て、「ここは最も進んだ工務店だ」と思った。

国産材を使った家作りをしているというのもあるけれど、「最も進んだ」と思うのは、「地域密着。真のコミュニケーション」に尽きると思う。
まず、本社にエコショップという、これはOMソーラー協会が全国の加盟工務店内への設置を進めているものだが、自然素材のよさや解説があるものを置いている。
そして、喫茶店や雑貨屋もあり、部分的な家でなく、全体的なコンセプト、暮らしの提案をしている。地域のNPO活動にも参加していて、そういうつながりなどから毎年会社が主催する感謝祭には、600人以上の地域住民が参加するという。

こうした記事を読んで、これは聞きに行かなければ、、と確信した。
こういう、本質を追求しているところで地域材は売られるようにならなければ、林業に生き残る道はないだろうと思うからである。

メールでアポをとった直後、確認の電話が鳴る。
これは、上の方と会えるのだなと思ったら、そう、社長とお話できた。

とにかく、感じたのは、「未来への強い意志」である。

例えば、情報をオープンにし、お客さんの要望をどこまでも聞く、ということを、普通の工務店は避ける。なぜなら、クレームを恐れるからである。
「~してほしい」ということ、「~と考えていたのに、~だった」ということを一つ一つ聞いていけば、費用はかさむが、それで売り上げが伸びるわけではない。

地域密着とうのも、今となってはこれを標榜しない会社の方が少ないくらいだが、本当に取り組んでいるところは少ない。
吉瀬さんは、自ら地域の環境活動(リサイクルなど)を行うNPOの役員を務めたり、地元の子供にバスケットボールを教えたりしている。あるいは、地域の雑誌やCATVへの協力など文字通り実践している。

また、国産無垢材を100%利用するというのも、同じ文脈で説明できる。
国産の供給体制は未整備なため、規格化された輸入集成材を使ったほうが楽である。そして、どちらもぱっと見では同じ木材に見える。
(別に集成材を否定しているわけではなく、ここでは無垢材を扱うのは何かと面倒だ。ということ)

これらに共通しているのは、短期的にはまずしたくない躊躇してしまうことばかりということである。お客さんに突っ込んでいかなければ、避けて避ければ、追加の要望は聞かなくて済ませることはできるし、地域活動なんてしている企業人の方が珍しいし、木材でも外材の方が扱いやすい。

では、なぜわざわざ実践するのか、あるいは、実践できるのか。。

真のコミュニケーションをしなければ、信頼を得られないということ。それほど大きくない工務店では特に、地域に受け入れられなければ商売はできないということ。これからは日本の森林を整備していかなければならないということ。
これらを実践しなければ、長期的には生き残れないと確信し、強い意志を持って、その理念に向かって進んでいるのである。

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一方で、そこには矛盾を多く内在している、という話も何度も出てきた。
国産材の生産性を向上させれば、必然的に人件費削減に向かい、林業労働者は減る。とか、いくら地域貢献は必要とはいえ、本業あってのもの。しばらく、バスケットボールの指導は休むなど。。

こうした話を聞くほど、この人の語ることが響いてくる。
世の中は矛盾している。時に理不尽である。これは、大前提だと思う。
だから、全てを言い切ってしまう人は必ずどこかでうそをついている。
言い切ってしまえることなど、この世の中には言い切ってしまえることなどない、ということくらいなものだろう。

それでも!
未来を志向するのである。

雑誌住まいの空気まわり(PDF)の記事の中で、月の受注が0の時毎晩、夢でもうなされていたが、あるときから「自分達のしていることに関心をもってくれ、信頼してくれる人のために仕事をすればいい」と考えるようになり、以後ふんぎりがついて進んできたという。
来年から、新卒も採るというお話。

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 危機が人を創り 人が歴史を創る
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コアーのような工務店が集まって、国産材利用を推進する全国組織
地球の会が昨年から発足した。

コアー建築工房はぴか一だと思ったが、その吉瀬さんにとっても、とてもかなわない人たちが、あるいは会社が役員をしているという。
世の中は、広く、上には上がいるのだ。。

条件が悪いとか、だれそれが悪いとか、時代とか消費者が悪いなどと言って逃げず、それでも国産材を普及させるんだという強い意思をもった主体がいない限り、国産材利用を広がりえない。研究対象として、そうした主体を探していた。

ついに見つけた。
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by taiji_nakao | 2006-06-02 16:08 | ひと