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2007年 05月 27日
クチコミの技術
人気ブロガーのコグレマサト氏といしたにまさき氏の共著。
面白いと思ったポイントを以下に列挙します。

●離れていても、つながっていられること

 那須のドミトリー式の宿、「カントリーコネクション」は早くからブログを運営リピーターを呼ぶもとになっている。「自分が泊まった那須は、あの宿は、あのマスターは今どうしてるのかなあ」というのを見ることができる。そういう物理的に離れたところとつながっていられるのが、ネットの強みだ。

 大学を卒業した後も、mixiなんかだと今何をしているのかを知ることができる。東京に行った人も、京都にまだいる人も、あるいは南米に行ってしまった人も。こうした、会社と離れたネットワーク、しかも距離を越えたネットワークが当たり前になった社会は、広告だけでない、ひろい可能性がある。

 商品でいうなら、当分は買わないけど、その会社とつながっている。ということになる。この例だからかもしれないが、重要な要素は「土地(あるいは会社)」、「人」でないかと思う。大阪の工務店「コア建築工房」の社長は、お客さんに会社に来て欲しい。ということで、いろいろなイベントをしていたし、会社にショップをもっていた。
 土地や建物というリアルなものに触れてもらい、それが今どうなっているか、ということを発信することで、お客さんとつながっていることができる。そこでは、土地、地域や季節がキーポイントになりそうだ。

●質が高くても広告費が少ない商品に有効

 映画「時をかける少女」、アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」の例が挙げられている。「涼宮ハルヒ」はyoutubeで見たことがあるけど、「話したくなるネタ」が計算されて盛り込まれていたらしい。

 広告費がもてないといえば、劇団が思いつく。ところで、劇団の場合相当ローカルになる。この本の2つの例は、営業は全国区なものである。ネット空間とは不思議なものだけれど、地理的な制限の問題も考える必要がありそうだ。

 すぐ思いつくのは、ローカルなSNSでのつながり。すでに、飲食店の情報はかなり充実してきているようだし。

●「感想を聞かせて」

 クチコミは、「商品の質」と「話題(ネタ)」で構成されるようだ。まず、商品の質に対するクチコミ、つまり感想について。ブロガーに、商品を送ったり体験イベントに招待する、というのがオーソドックスな方法だ。

 特に体験しないとわからないものが有効だという。この一説から想像するのは、家。木の家の良さというのは、説明したってわからないのだ。という話をよく聞く。家の良さというのも、ブログとの相性はよいということになる。(とはいえ、暮らし=プライバシーと直結するところに難がありまそうですが・・・)

●話したくなる「ネタ」

 クチコミを広げる人はどんな人か?まず、「人が知らないことを知っていること」である。

 これは2種類あるようだ。
ひとつは、誰でも気になる、直接内容と関係ないネタ。日産のブロガーを呼んだ新車のお披露目ショーでは、「リカちゃん」がいた。など。これは、ショーに来た人、あるいは商品を買った人しかわからないものをPR側が仕込んだものである。

もうひとつは、原作や背景を知らないと理解できない「不親切さ」を仕込むという手もあるらしい。前出のアニメ「涼宮ハルヒ」では、原作と順番を入れ替えて、何の説明もなく第一話が、登場人物の作った「映画」から始まった。原作を知っている人は、その仕掛けを理解でき、知らない人に伝えたいと思う。さらに、原作を読んでいない人は読みたいと思う、というわけ。

●知ってる人には「たまらない」 共通体験の確認

 ネタって、本質的でないと思うけれど、はやり遊び心がないと広がらない。それに、ずっと続けるなら、作っていくほうも遊ぶ余裕を持ちたいもの。
なんて、ほんとは悠長なものでなく、クチコミを広げるためには日々ネタを考えなければならないのだろう。これは、情報化社会で埋もれないためには必須の必要条件らしい。

 ただ、それだけでない。もうひとつは、すでに多くの人が知っていること、共感できるところに訴えるということもあるようだ。これは、知ってる人には「たまらない」ということではないか。
本では、「極魔界村」という名作ゲームが、15年ぶりに新作を出す際に、「主人公アーサーが15年間何をしていたか」という映像をネットで公開した。というもの。その俳優は、黒田アーサーが演じるというネタが仕込まれている。(知ってる人にしかわからない)

 だんだん、共通認識っていうのは薄れている時代ではある。
私の広めたい「杉良的暮らし」だと、椎名誠の「怪しい探検隊」あたりかな。とか。
それから、昨日読んだ米原万里の「旅行者の朝食」で、日本人は「ハイジに憧れる。」(しかし、その中でおいしそうに飲まれている山羊の乳はくさくて飲めたモンじゃない)というエッセイを思い出す。
ハイジをからめて、ハイジ好きには「たまらない」あるいは、「懐かしい」そういう心を呼び起こして、それを伝えたくなるように工夫する。もちろん、サービスではそれが提供される。とか。

●ネットの住民

 「ネットの世界は、便所の落書きに過ぎない」という人に、さすがに最近会わないけど、間違いなくたくさん存在する。そこまでではないけれど、ネットのこと、私も余りわかっていないところがあった。

 例えば、ブログを支えるサービスの多くは個人が作ったということが紹介されている。システム開発というのは、優秀な人間が一人で、高機能なものを作ってしまえるものらしい。そして、その人の人柄がでたコンセプトで運営されている。そういうサービスが多く存在している、ということらしい。しかも、その人たちは利益のためにやっているのではない。
 そういう、属人的な世界。

 もうひとつは、ネットの目線。これは、本書では「ブロガーは読者を裏切れないので、商品の紹介にうそをかけない」というもの。最初に書いた。「便所の落書き」云々、言っている人には信じがたいだろう。ただ、私も思うけれど、「権威を持った人たちの発言」の方がよっぽど胡散臭い場合が多い。これは、読者を意識している、ということ。

 「ネットの世間」といえるかもしれない。従来の世間とは、180度異なる。従来の世間は、村である。価値観が同じ人たちの目線を気にすること。ネットは違う。全く、どんな人がどんな環境で呼んでいるかわからない。そういう人を想定する、ということ。ある視点が抜けていると、指摘される。コメントやトラックバックがついたりする。そういうことに対応し、視野を広げながら「universal」になっていく。
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by taiji_nakao | 2007-05-27 10:15
2007年 05月 23日
口コミマーケティング
宣伝会議五月号

口コミマーケティングのお話。
今、広告で注目されている。ブログやSNSなどネットで話題を作ることでPRしようというものだ。
私は、いわゆるweb2.0が進み、参加型のコミュニケーションが進化することで、生産者と消費者がお互いに本音を語り合えるようになり、双方にとってメリットがで、最終的には両者が同じ世界で生きる生活者としての利益を追求できるようになって欲しい、と思う。

雑誌を読んで、広告を作る側から見れば「売れる」ということが至上命題である以上、とにかく売らねばならぬ。他の製品とさほど変わらなくても。なんだか、それがあけすけで読んでいてちょっとむなしくなる。

共感をもてたのは、さば寿司職人がさば寿司は作って2,3日で食べてこそおいしいからとはじめたネット販売「さば寿司」と、本物の宇治茶を販売する「京都おぶぶ茶園」。京都おぶぶ茶園の考え方は、とても共感できる。素直にいいと思ったものとそれを裏付ける技術と、労力。そして、文化、気持ち。そういうものを伝えながら、お金を払ってもらう。

口コミという以上、話題性が重要である。そのあたりは、京都おぶぶ茶園も相当工夫しているようだ。何せ、消費者は気まぐれだ。商品は溢れているし、別に今度またサイトに行かなきゃならない理由なんて本当にない。それでも、来てもらうって事は大変なことだ。

もうひとつのオーガニックストアは、もう少しターゲットが広く、サイトもチラシのようだった。
安い理由を説明している点が重要だという。面白いと思った。やはり、本音を言って欲しいのだ。もちろん、これはどこまで本当かわからないし、ちょっと胡散臭いけど。
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それから、ブログで商品を紹介するっていうことを仲介している会社がいくつかあった。
だいたいは、所定の用件をクリアすると報酬がもらえ、さらに「いい文書」を書いたら追加報酬やランキングなんかにのったりする、という仕組みだ。ブログを読んだ感じでは、ブログに「CMが入る」というものか。
もちろん、CMにも「あからさまで読む気も起きない」ものもあれば、「CMとは思えないほど面白い」というものもある。

ただ、これは口コミとは言わんのではないかな。
CM作りに素人も参加できるようになった、という方が近い気がする。自由な口コミになれないのは、制限があるからで、突き詰めれば企業は広告に投資する以上、効果を測定しなければならない。もちろん、費用以上を回収できないなら、やめなければならない。

本当の口コミをしたいなら、本当の意味でのコミュニケーションをしたいなら、結果を測定することはともかく、必達の目標を設定してはならないのではないか。

ブログでの口コミっていうのは、今のままではつまらないと思った次第です。
単純に企業からお金もらったら、正直なこといえなくなって本来の意味を失ってしまう。

もうひとつ。
何かの記事で関連して、アメリカのSNSのmyspaceなんかでは頻繁に様々な話題作りをしているという。何かが当たるとか、有名人と握手できるとか。
あるいは、バナーもゲーム付だと見てもらえるとか。

そうやって、興味を持ってもらうと。
消費者のことを考えてるし、面白いと思うし、自分の乗ったりするんだろうけど。
やはり、一番疑問なのは、そういうことに巨額のお金が動いていて、それが、ご飯を作ったり、服を作ったり、木を育てたり、子供の教育をしたり、という人間にとって必須のものの多くよりも大きなお金が動いている、というのは、どうなんでしょうかね。

もっと、大地に足の着いたこと、食べ物とか家とか、そういうことを大事にする方向にいかないものかと。。
ちょっと、論点がずれてしまいましたね。
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by taiji_nakao | 2007-05-23 23:01
2007年 05月 19日
フラガール
この映画は、地域活性化を目指している、まちづくり・村おこしに関わる人への応援歌だと思う。

事業自体がニーズと合致しているか、ということはもちろん重要だが、まちづくりで難しいのは推進派と保守派の対立である。新しい価値観と古い価値観の対立ともいえる。
大雑把に言えば、都会の人と田舎の人の対立。
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田舎は、自然が溢れ、人情があっていい。という、どっか北欧の絵を切り取ってきたようなイメージの「ロハス」がそのままが転がっていないにせよ、確かに、都会ではなくなってしまった自然や、近所づきあいがあるのは事実。一方で、排他的で保守的であるのも事実。

しかし、そういう表面だけを見ていると、お互い、分かり合えない。

「都会のやつらは、ただ雑誌のイメージを求めているだけだ。」
「田舎は排他的で、あれではいつまでたっておダメだ。」 など。

一番大切な根本は、炭鉱に生きる人たちが大事にしてきた想いと、プロのダンサーが大切にしてきた想いは、実は両立しえるし、それは多くの人を魅せるものだ、という点である。

私の中での映画のハイライトは、保守派の重要人物であった主人公の母親が、革新派に協力をしだして、他の仲間に問い詰められるシーン。

ここで、まず、彼女は炭鉱で生きる人々が大切にしてきたことを確認することから始めた。
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革新派は、現状のままでは先がないことを憂い、なんとかしなければならないと考える。
これが、外の人間の場合は特にだが、変わらなければならないことを説くのはたやすい。
そして、それは正しい。

「石炭の時代は終わった。新しい仕事を探さなきゃダメだ。炭鉱にすがっていてどうする!」

というのは、外部の人間が言うのは簡単である。
だが、この言葉は重いのだ。
小さいときからずっと、炭鉱一筋だった人の想いは、重いのだ。


まず、そこで生きる人たちが古いと批判されてばかりいる人たちが(今は失ってしまっていたとしても)、大切にしてきたことを確認する。それが踏みにじられていることが、いかにつらいことで嘆かわしいかを。

考える上で大切なポイントは、「共感すること」と「現実に行動すること」は別物ということだ。もう、炭鉱では無理だ。それらは変えなければならない。
しかし、その変えていく中でも、その人たちが大切にしてきた想いを尊重することはできる。
別の形で引き継ぐことができる。むしろ、引き継ぐ必要がある。
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ダンサーをみんな地元の人から育てた、ということも重要なポイント。
結局、事業は人がつくるのであり、人をつくらない限り、成功しない。
そして、技術は買えても、心は売買するものではない。

地域にある、一番の資産は人である。
そして、人には、技術や知識といった客観的側面と、精神の側面がある。

組織が、みんなでその両方を共有してわかりやすく表現できたとき、きっとそれは価値あるものとなる。
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地域の自立は、世界中での課題。
その、大きなヒントになるのではないでしょうか。
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by taiji_nakao | 2007-05-19 11:06 | 考え事
2007年 05月 05日
(あたらしい教科書シリーズ) 11 民芸
あたらしい教科書シリーズは、本のデザインがかっこ良くて、前から好きでしたが、内容は期待の割にイマイチ、というところがありました。
が、本書のできはすばらしい、と思います。
民芸(ホントはこの文字ではない)運動には以前から興味があった。
使いやすいデザインが美しいという、「用の美」の考え方には、共感します。シンプルがいい。
そして、柳宗悦の「手仕事の日本」を読んで、庶民の暮らしに親しまれてきた道具は、
*「用の美」をもって美しい
*職人が手作りでよいものを作り上げてきた
という内容に、うんうん。とうなずいた。
職人、地域活性化に興味があって、日頃から、ちまたに溢れている民芸品が観光土産となったり、京都の伝統産業のように、超高級化・豪華絢爛になって、「用の美」を失ったことにがっかりしているものとしては、柳宗悦の「民芸運動」にはずっと興味を持っていた。
しかし、去年、東京の民芸館に行ったとき、展示されている道具が、ちっとも庶民の暮らしの道具でなく、むしろ、豪華で高価なものばかりだったことに違和感があって、納得できなかった。
そんな疑問に、本書は正面から答えてくれる。
民芸運動は、相当大掛かりな運動だったのですね。
日本の工芸の広い分野を一変させる力を持った、大きな、歴史の1ページだったと。
では、なぜ大きな流れになりえたのかを拾い出してみる。
思想的な面は(用の美など)、今回は、パス。

(1)時代をリードする一流デザイナーの受け皿となった
 緻密な技巧を追い求める工芸界の主流に不満をもつ、新進気鋭のデザイナーが集まった。中心人物その人たちの能力も高かったし、人材の発掘、コーディネート、育成にも積極的だった用だ。 棟方志功などは、本書を読む限りでは、運動を推進したというより、運動によって世の中に出て行ったという感じだ。

(2)新しいことに意欲的に取り組んだ
 (1)にもつながるけれど。分業から1人で全体をデザインする一貫制作など。この辺は、拾い読みの知識。

(3)パトロンの存在

(4)積極的な全国啓発活動
 柳宗悦は、全国の民芸品を認定して回った。民芸館を全国に建てていった。このあたりは人材育成ともからむ。

(5)消費者運動として推進
 東京銀座に、出店など。「たくみ」(行ってみたい。)
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時代背景をみると、「都会の消費文化の急成長」に「民芸なるもの」がのっかっていった。
ということらしい。
芹沢ケイ介のデザインは、「民芸なるもの」を象徴するものとして定着した。
都会人が、「田舎的なものに憧れ」、それを消費する、という構図が出来上がった。
それが、具体的には観光ブームを巻き起こした。
観光ブームは、地域にとってろくなことがなかったようだ。
(磨き丸太も観光ブームで、全国に旅館ができて、和風なら床の間があって、そこに「和風なイメージ」な人工絞り丸太が使われたから、爆発的に需要が拡大して、まあ、北山は驕り街道、転落街道への道に踏み込んだわけですが)
暮らしに使うものより、「土産用」が断然高く売れたため、みんなそっちに流れてしまった。
こうして、「用の美」は失われてしまった。
民芸運動とは、失われた用の美を取り戻す運動と思っていたら、失わせた原因だったとは・・
工業製品がどんどん使いやすくなっていく中で、地域にある道具は、どんどん「土産化」していった。
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興味深いコラムとして、「ディスカバージャパンと民芸なるもの」(p121)
1970~76年に、当時の国鉄が、行ったキャンペーン。
国鉄は、ライバルとして、テレビを想定した。
娯楽の時間にテレビじゃなくて、旅に出よう、というわけ。
で、「自分らしさと日本らしさの発見」というのがコンセプトだったらしい。
ところで、最近のポスターでも、似たようなものになって、驚いた、というコラム。
ここで筆者は、「長い時間を経てもなお影響を与え続ける感覚を作り出した」民芸運動、ディスバージャパンがすごい、と言っている。
私の感想としては、いまだに、田舎には、「今の私の忘れているもの」がある、という「憧れ」を求め続けているのだな、と思った。
1970年からずっと、求めていて、ずっと手にすることができていないもの。
思うに、もともとそんなものは幻想だからだ。
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民芸運動が、消費の急拡大の中で大きく広がって、やがてはその結果、「民芸」が陳腐なものになってしまった。
なるほど。生まれて、物心ついたときにはすでに陳腐なものになっていた世代にはわかりにくい。
その運動の核心についてちゃんと整理して、理解しないであれこれ書くのもなんだけれど、ここまで全国的に広がることができた理由は、「成長している流れ(消費の拡大)」に乗った、というのが一番大きい。
では、今の時代成長している流れ、とはなんだろう?
と考えると、あまりにステレオタイプだけど、ウェブ2.0と呼ばれるもののような気がする。
今は流行という面が強いけれど、生産者と消費者が深いところまでコミュニケーションをする、ということが非常に合理的なことで、重要なことだから。
いかに、多くの人とローコストで、コミュニケーションを深め、新しいものを作っていけるか。
デザインという面で見ると、民芸運動の芹沢(といっても今日初めて知ったのだけど)にあたるのは、google的なあのやわらかいデザインを思い浮かぶ。
インターフェイスが機能的で、使いやすいもの。
そういうデザインを通して、情報が隅々まで浸透し、嘘はつけなくなり、いいものが、あるいは、それをいいものを思う人によって、評価されるものが、作られる。
そういう方向にいく。ってことは、まあ、よく論じられていそうなので、この辺で。
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これまでは消費者運動がどこまでも進んだ。
その極限は、アメリカ的な、風呂敷に、
「このマントでは空は飛べません」
とただし書きがされる、というところに見られる気がする。
そうやって、「消費者は神様」という考え方が突き進んだ結果、確かに多くの改善があったのだkれど、問題もある。
というのは、誰しも生産者でもあるから。
こういう状況では、生産者は奴隷になってしまう恐れが常にある。
一方で、前近代的な生産者は、未だに、消費者運動の波を知らずに胡坐をかいていたりする。
こういう状況で、人はみな、消費者であるとともに、生産者である、どちらか一方ではなく両方であり、
消費のために生産するのではなく、生産のために消費するのではもちろんなく、
消費し、生産する「生活者」として生きている、という認識のもと、
生活者がより豊かになるにはどうしたらいいか、
という追求が必要なのではなかろうか。
***

というような、ことやらを、
日曜研究家として、ちょびちょび考えることにしました。
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by taiji_nakao | 2007-05-05 20:49 | お勧めの本