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2009年 05月 30日
しずかな電車の中で
電車の中で本を読むのが好きだ。

今日は、覗いた書店で村上春樹の新刊が売られていた。
本屋を覗けば、本を買ってしまうのだからやめておこうと思いつつ、でも、これは買わなきゃ
と言い訳して買う。最初手に取ったのが、「2」だったので、棚に戻して「1」を買う。

やれやれ。
緑地公園の駅の中の本屋と、新大阪の地下の本屋、改札中の本屋。
それから梅田のブックファーストとジュンク堂。
ささやかな私の給料の数パーセント以上が、これらの本屋の売上げに貢献している。

電車の中は、とてもしずかだった。
たぶん、おしゃべりな人は飲み屋にいるのだ。
いつも金曜日の電車の人数はこんなものなのだけど、今日はほんと静かだった。
電車の中で小説を読むのは久しぶりで、
この前に読んだのは、ゴールデンウィークに直島に行ったときで、その時は「ロング・グッドバイ」だった。
救いようのない話だった。帰りは高松から鈍行だったので、本を読む時間がたっぷりあった。

それで、集中していたから、でもないと思う。
たまたまかな。ふと見上げると、半分くらいの人が本を読み、もう半分のほとんどが携帯を眺め、2割はイヤホンをしている。

電車の蛍光灯がちかちかしている。今日はもっと着くのが遅くても良かったのに。
こんなときに限って、朝、やや出遅れて、自転車で京都駅に来ていたりする。
朝微妙に遅れた時は、ダイヤの都合上、自転車で行くとうまくいく。
早起きなので、遅くなるとかないはずなのに、油断する。
今日は、洗濯物を干していたら、自転車利用が決定。

本は、これは一気に読めそうですね。
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by taiji_nakao | 2009-05-30 00:24
2009年 05月 23日
OST(オープン・ソース・テクノロジー)
場とつながりラボ home's viのお結び庵で借りてきて読む。

ミーティング手法というのだろうか。
考案者のハリソン・オーエンという人は、250人が参加するある国際会議の準備をして開催した。丸一年かけて準備し、内容はまずまずだった。だけど、参加者の意見は一致していた。
内容はまずまずだった。だが、もっとも良かったのはカフェの時間だったと。

この感想はわかる気がする。
長時間にわたる講演やパネルディスカッションは確かに、知的であり勉強になり、刺激にもなるけれど、こういうカンファレンスではいろいろな人と話せるのが一番の魅力だろう。

で、ハリソン氏のすごいところは、
「ならば、会議の企画そのものをカフェの時間のようなものに出来ないか」
と考えた。そうしてOSTという手法が開発されたという。

やり方は非常にシンプルで、参加者がその場で興味のあるテーマを出す。
25~50人なら30個程度、100~200人で75個程度のテーマが出てくるものだという。

出てきたテーマの中で、自分が興味のあるテーマのセッションに参加する。
セッションに参加する人は、途中で違うと思えば移動する。
移動はむしろ歓迎される。
もっとも自分が興味をもち、コミットできるテーマに参加することが求められる。

そうやって進行する。
ファシリテーターは基本的に何もしない。

4つの原理
・ここにやってきた人は誰でも適任者である。
・何が起ころうと、起こるべきことが起きる。
・それがいつ始まろうと、始まったときが適切なときである。
・それが終わった時が、本当に終わりなのである。

1つの法則
主体的移動の法則

参加者を信頼し、今そこに起こっていることを認め、受け入れる。
ファシリテーターは、何かをするというより、その場に安心感を与える存在であることが最も重要だという。

そういう場を創ることに専念する。

コントロールしない。
参加者がコミットしたいと思っていることを話してもらう。
いくら正しくても、コミットする人がいなければ、それはなされない。
という考え方である。

ちょっと考えてみれば、500人とか1000人とかいう人数をすべてコントロールしようとしたら、いかに大変かはわかる。
しかも、それぞれが情熱と知識を発揮できるような会議を設計しようとしたら、気が遠くなる。
それで、成功するかどうかも怪しい。
ならば、それを中央で管理するということ自体に無理があるのではないかというわけだ。

**

新型インフルエンザの対応で、国がグダグダしているから、それで現場が現実的な対応していくっていうのは、それはそれでありなのではないかというレジデント初期研修用資料さんの「グダグダ」駆動型の問題解決手法はなるほどなあ。
と思った。

そして、この考え方の根底にあるのは、まさに、はOSTや学習する組織といった考え方の根底にあるもの、現場の人・情熱を持つ人がその自発的にその問題に取り組む、という考え方と同じだと思う。

ただ違うのは、OSTや学習する組織では、そういう状況を創りだすのがマネジメントの役割である、と考えることである。

今までコントロールしてきた人がそれを手放す、というのはなかなか大変なことらしいが、
組織のパラダイムシフトは確実に進行していくと思う。
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by taiji_nakao | 2009-05-23 14:07 | 学習する組織
2009年 05月 19日
新型インフルエンザ
すごく騒がれているらしい

らしいというのは家にはテレビがないからよくわらない。
でも、今朝の電車のマスク率は昨日よりぐんと高まっていたのはまちがいない。
あれは、噂話とか個々人が気になって変わる変化ではない。

でもよくわからない。
主に情報源は日経新聞とヤフートップのニュースといくつかのブログと、ちょっと検索した程度だけど。
なぜ、今こんなに騒がれなければならないのか。

インフルエンザの変異の確率が今年になって増えるとは考えられない。
なぜ、去年とか一昨年はなんもなかったのに、今年なの?
いえ、SARSはありましたけど。
でも、こんなんではなかった。

日経新聞なんて、毎日「世界の患者数」が出ている。

長期的に考えれば、人間が増えすぎたことが原因の1つなのは間違いないと思う。
それは思想的な意味じゃなくて、草食動物が増えればそれを食べる肉食動物が増えるのと同じことで。
人間という似た「環境」が膨大になれば、その環境で特に強く増殖する生命(?)が大繁殖する可能性にさらされるのは自然の摂理だと思う。

でも、もちろん、人口増加はここ数年の話じゃあない。

もう1つは、ペニシリンなど強力な抗生物質に耐えうるウィルスが現れ始めているということだ。
こないだ読んだ「生物と無生物のあいだ」(これはよい本でした)にも書いてあったし、いろいろなところで聞きます。薬が効かないインフルエンザが流行したら、それは恐ろしい。

だが、今回のはどうも効くらしい。

とすると、専門家はこれから流行しそうなウィルスを予測できて、その予測されたウィルスが今までにないほど感染力のある、恐ろしいもの、ということなのだろうか。

こないだ、セキュリティの勉強会で、ウィルスはウィルスでもコンピュータウィルスの話で、今世界のウィルスのほとんどは-まだ世に出ていないのも含めて、巨大なセキュリティ会社(S社とか)が持っているらしい。
世に新しいウィルスがでてから、そのワクチンがでる速度があまりにも早いので、そうでないと説明できないという。

「リアル」のほうのウィルスでも、同じような話はアメリカ映画とかにありそうな話だ。
だから、いよいよ今度はやばいのが(実物?をすでに持っている??)来そうだ、とか予測しているのだろうか。

スペイン風邪以来の、とかウィルスが特定される前から騒いでいたことに根拠があるなら、そういうことでないと説明は付かない。

でも、鳥インフルエンザが警戒されていたところに、豚は意外だったとかいうところからすると、そうでもないらしい。

結局よくわからないけれど、あれこれ考えて、やはり、「今年だけが特別」ではない
というのは確かな気がする。

今回のウィルスが想定したウィルスと違っているなら、現在は今回の新型ウィルスが現れる前と同じ、すなわちいつ(今回とは別の)新型ウィルスが新たに現れ流行してもおかしくないという状況なはずだ。

そうすると、次のどちらかの結論しかない気がする。

1.実は今年は特別でないし、今回のウィルスもそう騒ぐほどでもない
だといいですね。

2.今後、ウィルスが現れるごとに同じ状況に晒される
でないといいのですが。

で、どっちにしても、今の対応は合理的でない気がする。
初めてだから仕方ないのかもしれないけど、もう、「対策をしないでいて、何かあって責任取らされるのだけはごめん」がどんどん際限なく連鎖しているように思う。

2.だったら、どうするの?
医療現場はただでさえ疲弊していると聞く。
こんなことを繰り返されたら、現場はたまらないと思う。


でもやっぱりわからないこと。
新型インフルエンザが今まで騒がれず、今年になって騒がれている理由は何なのでしょうか??
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by taiji_nakao | 2009-05-19 21:30 | 考え事
2009年 05月 09日
茹でガエルと植えた木を飛ぶ忍者、根太の腐った床
茹でガエル状態とは、カエルを鍋にいれてゆっくり加熱していくとカエルは状況の変化に気づかず、そのまま茹でられて死んでしまうが、急に熱湯に入れると、慌てて逃げ出す。
だから、外部への応答性にかけ、情報の風通しの悪くなった組織は茹でガエル状態なんていう。

子供のころ、忍者が修行の為に苗木を庭に植えて毎日その木を飛び越えていると、やがて大きく育った木をも飛び越えてしまえるようになる・・と聞いて、いくらか(飛び越せるくらいの木を)ジャンプしていたことがあった。3日も続かなかったけど。

実際のところ、かえるを水のときからいれて熱すると比較的早い段階でかえるは逃げ出すし、熱湯に入れれば逃げるまもなく死んでしまうらしい。そして、当然ながらジャンプ力は木の生長と正比例しない。

だけど、いわゆる茹でガエル状態の組織は存在するんだろうし、苗木を飛び越すような、ガラパゴス的な進化っていうのはあると思ったのは、今住んでる家の流しの床のこと。
根太が腐って、手前は支えがなくなってしまった。
だから、今は流しのすぐそばの方に足を置き、体重は常に前におかなければならない。
そうしなければ、落ちる。

去年は、そうじゃなくて、多少は床が柔らかいなと思うくらいだった。
それが、気づけばいまや落とし穴である。
で、こないだ、その落とし穴が正真正銘の落とし穴になっていることに気づいて、
でもそこで何気なく足の置き場を確保している自分に気づいて、驚いた。

何気なく。朝、歯を磨いたりとか。

とはいえ、さすがにそこでバランスを保つのも一苦労になってきた。
そろそろ苗木が育ちすぎて飛び越えられなくなってきたらしい。
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by taiji_nakao | 2009-05-09 09:28 | エッセイ
2009年 05月 05日
直島
昨日まで、直島に行っていた。

直島は、岡山から宇野港に出てフェリーで30分くらいの香川県の島。
ベネッセがお金を出して、安藤忠雄が建築した地中美術館や島中で芸術の作品がある。
いったことのある人たちみんなが、いいところだと言ってたからいつかは行きたいと思っていたところ。

やはり、すごく良かった。
おととい、丸一日じっくり・たっぷり回っていた。
すごかった。
ほんとに不思議な一日だった。

贅沢な場所だった。
それから、いわゆる観光地化的な要素がなくて、それが良かった。

ドミトリーに泊まったので、そこでいろんな人と話せたのも良かった。
また行きたい。

行きに倉敷に寄った。
ここも良かった。
あと、桃太郎からくり館よかったですね。

大原美術館は圧倒されました。量がすごすぎる。
いったいどれだけお金を持っていたんだろう。

革製品のお店が気に入ってしまい、お財布を買ってしまう。
それから、木のスプーン。

最近、
「人が多く訪れる観光地にはいろいろな役割がある。」
という思いが強いです。

どこ行っても同じようなお土産屋さんとか、似たような旅館とかじゃなくて。
以下、こじ付けかもしれないけど、メモ。

*人が集まるので広告費が抑えられる。
*人がやってくるので、物流コストが要らない。
*みんな一通りの物は持っているので、ちょっと特殊なものでなければ既に足りている。
そして、ちょっと特殊なものを買うのに適している。

*連休は増えている。
*地方にとって、観光は最も有力な産業。
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by taiji_nakao | 2009-05-05 18:30 | にっき
2009年 05月 01日
新型インフルエンザ・リスクについて
新型インフルエンザがはやるかもしれないという。

警戒レベルが上がったらしい。
インフルエンザが大流行したら大変だ。

かつてスペインで流行ったみたいなことになると何万人も死ぬかもしれないんだと。
よくわからないけど、そういう確率が1割弱くらいあるかもしれない、というところなのでないのだろうか。数字はまったく適当だけど、言えることは、起きるかもしれないリスクは絶対防ごう、という、反応だ。
当然な話だ。そのような危機がありあえて、対策が考えられる以上、その立場にいる人たちは対策を打たねばと思う。

だが、こういうリスクの話をするときに良く出てくるのは、車で、インフルエンザより交通事故の方がよっぽど死に易い。また、素人考えだが、そのスペインで流行った時代より医学も政府の対応も衛生面も格段に良くなっているのだから、万という単位で死ぬ確率といのはより低くなるはず。

交通事故とは偶然によるものだから仕方がないとされている。
逆に、大変そうだといわれることに対しては、ナンとしても防ぎたい、と思う。
これは当たり前の話で、昔から村にいろいろなうわさ話がやってくるとみんな動揺して、お払いしたりなんだかんだしていたんだとおもう。その、コワイ話を聞くと「怖いねー」と話して、恐れるのは、それは今でもかわらない。

変わったのは、
まず、何が怖いかを発信する側は、かなり恣意的になりうるという点。
それから、お金さえあればたいていのことは出来てしまうという点。

たぶん、いろんなことがわかってしまうから、そしてお金さえあればなんでも出来てしまう現代においては、ほんとはリスクに対する費用対効果を考えなきゃならない。
もしかしたら、人間に害がある可能性が否定できない、というレベルのBSE対策とかみてると。

でもそれは、突き詰めると「助けることも出来たのに助けられなかった」否、助けなかったという現実に行き当たり、誰もその当事者になりたくないし、そして、うらまれたくない。あるいは訴えられるかも。

でも、その時は、しょうがないよな。
運が悪かった。

っていう余裕もひつようなんじゃなだろうか。

自分はできれば、そんな当事者にはなりたくないけど。
でも、そうやって、リスクを全部全部なくしていこうとしたら、かんじがらめになって何も出来なくなってしまうよ。

そう、「責任論」ですね。

「監督責任」

生活まで監督されるのはごめんですよ。
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by taiji_nakao | 2009-05-01 21:28 | 考え事