2012年 01月 09日
コミュニティが広がっていくための条件
田舎にIターンして、強い思想を持って活動している方と飲んでいて、君の思想は中途半端だと、叱られることが今までは何度かあった。

その方々は、現代社会に強い問題意識を持ち、それだけでなく、例えば、飲み屋で語っているだけでなくて、あるいはイベントで理想を話しているだけでなくて、具体的に自分の生活を含め、実践していた。だから尊敬するし、基本的な問題意識も共感するものだ。

だけど、自分が第三者として関わるなら、別の視点も持つだろうし、そういう人は多いですよ。と、私は主張した。
あるいは、実践するのは、大変ですよね。とか。それは、一般的に「普通」と呼ばれる人が持っている、あるいは持っているであろう考え方だ。

しかし、マイノリティであること自体は、反対する理由にならないし、「大変」という言葉は、状態をさすものであって、理由そのものではない。何が大変なのか。そのことをちゃんと言わないと理由にならない。

だから、私が叱られたのはそういうところに問題があったのだと今は思っている。

しかし、多く人が持っている感覚をあり得ない、という前提に話すことには問題だ。

それまで普通だと思っている人に対して、いきなり全否定されてはいい気持ちはしない。そんな人しかいなかったら、居心地が悪い。その考え方が正しい(※)としても、段階というものがある。

普段はあまり問題意識を持っていなかった人がその場に来た時、居心地が悪いということは、その人はもう来ないだろうから、コミュニティにとっての損失となる。コミュニティが多様性を持つ機会を失ったとも言える。そういうことが続くと、コミュニティは活力を失っていく。

大切なことは、異なる考え方を持った人の立場に立って考える余裕であり、その人たちへのリスペクトだと思う。
これは心に余裕がないとできない。

場の雰囲気・習慣は、人数(割合)×  その人の影響力で決まると思う。10人の構成員がいて、9人がテキパキと片付けをする人であれば、だらけた性格の1人も大抵テキパキせざるを得ない。7人がテキパキ、3人がだらけていても、大抵は、
3人はテキパキすると思う。が、4人がだらける人だとあやしくなってくる。

ただ、人によっては影響力が強く、テキパキする人が1人、9人がだらける人であっても、テキパキした場にしてしまう。

魅力あるコミュニティは、核となる価値観を共有している必要がある。一方で、コミュニティが広がっていくためには、異なる価値観を持つ人のことを想像でき、かつリスペクト出来る雰囲気を持つことが重要だと思う。

※正しいとは、絶対的な正しさではなく、選択している本人が本当に望んでいることを達成しようとした時、最善な選択であるという意味で。
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# by taiji_nakao | 2012-01-09 12:03 | コミュニティ
2012年 01月 02日
自分の関心領域と今年の目標
書いているとあれこれ出てきてしまいましたが、自分の関心領域と今年の目標、2012年版

■仕事
DAノーマンの最近の著作を読んでいるけれど、面白い。

私はもともと農学部で、学生時代は全くと言っていいほど、プログラムを知らなかった。当時「西海岸」という町家コミュニティによく遊びに行っていたが、そこの主要メンバーである、NOTAなどの開発者である洛西さんが、「今のコンピュータは、インターフェイスが全く人間向きになっていない。」と力説していたのを何度か聞く機会があった。
それですっかり感化された。

アラン クーパー「コンピュータは難しすぎて使えない」、DAノーマンの「だれのためのデザイン」を読んで、私のプログラマとしての基本的な考え方が固まった。

真に人間のことを考え抜かれて作られたソフトウェアは少ない。人間が本来持っているアフォーダンスをうまく活用して、真に使いやすいソフトウェアを開発すべきである。

全くその通りだと思った私は、そういう目で身の回りの製品をみた。実際、酷いものが多いように思われた。そして、それは自分たちが開発するものにもむけられる。最初の会社では、同僚に呆れて「クレーマーだ」と言われたりもしたが、それを誇りと思っていた。

現在仕事で取り組んでいる業務用アプリの世界では特に、まだまだソフトウェアは人間に優しくないことが多い。本当にユーザーにとって使いやすい、そんなソフトウェアを世に出していきたい。

もちろん、ソフトウェアが優れていてもそれで使ってもらえるわけではない。そもそも使ってくださる方に価値を提供できなければお話にならない。そして、どうやって届けるのか。さらには、利益をあげる構造も必要だ。こうしたものがセットになって初めて普及する。今年は、その第一歩の年にしていきたい。

■暮らし
大学一回生の時、サークルの先輩の部屋入った瞬間のことを今でも覚えている。部屋に入ると、空気感が違った。シャンとした気を感じた。古いアパートで狭い部屋だったけど、綺麗に片付けられていて、物が少なく、家具も決して高級品というわけでもないが部屋に馴染んでいた。その雰囲気の生活感に憧れた。

物をできるだけ持たない、持つ物にはこだわる、できるだけ掃除をする(できるだけ・・)。一定以上まできれいにすると、あの「シャン」とした空気感を感じられるようになる。雑多でものに溢れた部屋とを比べると、それは心のあり様が変わってくると思う。

その先輩に、「近所に神社があるよね?」と言われた時、家の周りをほとんど知らなかった私は、「ありましたっけ?」と答えた。私は、一人でいるときは主にテレビを見ており、近所のことに関心を持っていなかった。「近所のことは知ってなきゃ」、と言われ、そうだよなあ、と思ったことをよく覚えている。

普段暮らしている身の回りを観察できるのは心の余裕だと思う。

テレビを持たないで生活して8年以上になる。テレビを持たなくなったことで、たとえば散歩に時間をかけられるようになった。テレビのことで学んだことは、文句を言うくらいなら相手にするな、ということ。8年以上前の話だけど、よくテレビに悪態をついていた。なんと馬鹿げたことをしていたんだろう。嫌いなことに自分の時間を費やすことはない。これは、マザーテレサのいう「愛情の反対は無関心」という言葉の裏返しだろう。

■エンターテイメント
SCRAPというフリーペーパーがある。

創刊の時から、ここの編集長(今は違うのかな?)の加藤隆生が好きで、5年以上ブログも読んでいる。http://keeponmusic.com/katotakao/
最近は東京で大規模な脱出ゲームを数々と仕掛ける売れっ子になっているようだ。この人が、どこかのインタビューで「大人のエンターテイメントは、カラオケ以来ずっと昔のまま進化していない。だから自分たちは、自分たち自身が楽しいと信じている脱出ゲームという新しいエンターテイメントを創っているのだ」というようなことを語っていた。この感覚に共感した。

学生時代から、山仕事サークルだとか薪く炭くKYOTOだとかいった団体、あるいはその他いわゆる環境問題に焦点をあてた活動に参加していた。こうした団体ではつねに「普段興味を持っていない人に感心を持ってもらうこと」が優先度の高いミッションになっていた。

大阪府吹田市で暮らす、会社員としてみるとこうした活動に参加するということは、数ある余暇の過ごす中から選択するということになる。それは言い方を変えると、エンターテイメントということになる。

だから私の今までの興味関心を総合すると、山で遊べるエンターテイメントの場を創ることなのだと思った。去年自分が体験したエンターテイメントで楽しかったのは、いろいろある。初めてのゴルフもなかなか面白かったが、お化け屋敷ワークショップは、本格的に仮装して面白かったし、知り合いの改装中の家の漆喰塗りもなかなか面白いし、水の飲めるくらい綺麗な鷹峯の小川での流しそーめんは最高だった。

今年は、それからいろんな人を巻き込んで、いろいろと遊びたい。コンテンツも豊富にあるので、愉快な仲間たちとあれこれ遊ぶ一年にしたいと思う。第一弾は、1月に鷹峯で、囲炉裏のある小屋での飲み会の予定です。

■食生活
昨年、いろいろな会に紹介していただいている方から予防医学の普及をされている方とお話するようになった。そうした中で、 こんな記事 「食改善で健康になれば、消費税増税は必要なし?」  を見つけた。
(2ページ目からは会員のみ) 実際、この活動をしている自治体では20億といった単位の支出削減効果がでているという。

記事の中で、「最近のコンビニなどをみると炭水化物と脂肪ばかりだ」、という記述がある。
今住んでいるマンションから会社まで、歩いて五分ほどだが、その間にコンビニとマクドナルドがある。どちらも24時間空いている。直ぐに、私は買って食べることができる。レジでほんの30秒待たされることに苛立ちを表明することが当たり前のものとして認識されている。

それで、もう一度みてみる。パン、お弁当、それからハンバーガーなど。見事なほど炭水化物と脂肪だらけ。後は、肉と、そして、食品添加物である。
こんなこと書きながら、週に何度もコンビニのお世話になっている。今年の目標は、脱コンビニです。(ビールを買うのもスーパーの方が安いし)

■身体性と精神の世界
禅には昔から関心があったけれど、特に何もしていなかったが、去年、呼吸法の教室に月に一度くらい行くようになった。それから、モコモコカフェの朝座禅。 http://mocomococafe.jugem.jp/?cid=8 和尚さんDJもしているというユニークな方でとてもいい感じ。二回ほど参加。京都の朝からですが、今年も参加したい。昨年参加した、ダンサーの方が講師の身体のワークショップ、よかった。自分の体のことももっと知りたいと、思う。


いろいろ書きましたが、今年、一番力を入れたいのは仕事。
今年は、広げます。

そして普段は、集中力を高めて、密度の高い仕事ができるように。


それでかつ、ここに書いてあることを実践したいと思います。欲張りですね

ここまで読んでくださった方とは、何かの機会でお話しできれば、なんて思います。


今年もよろしくお願いします。
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# by taiji_nakao | 2012-01-02 17:10 | エッセイ
2011年 12月 10日
現代っぽいこと3首
近況報告を兼ねて、ちょっと気になったことを元に作ってみました。


秋の日の虫の音を聴いてポケットのスマホをさぐる現代人です

 ー アラーム音(コオロギ)を毎朝聴いて暮らしています。


くり返しくり返し見る待ち合わせ 場所と時間にスリル感なう

 ー 久しぶりに会う予定の友人が携帯が使えなくて、しかも直前に場所と時間の変更があって、そのやり取りをパソコンと携帯でメールのやり取りをしました。
そして、約束の時間になっても相手は現れないぞ、というときにツイートしました。という句。
携帯時代においてはレアな経験をさせていただきました。
結局20分遅れで相手が到着。どこまで待とうかなんて考えたのは、いつぶりかわかりません。

その時は11時22分頃まだ早い それいけ今だ! わっしょい!! バルス!!!

ー 時間はどなたかのツイートのうろ覚えです・・ テレビを持っていない私は、もちろん観ていないのですが、後からツイッターのタイムラインを読んで知りした。昨夜は「ラピュタ」が放送されていたようです。そもそも、その時間帯は「ブロガー飲み会」の最中で、リアルにタイムラインを見ていたわけでもないですが、これはなかなか興味深いイベントだと思いました。 なので、これはたんなる想像です。

宮崎アニメのラピュタの有名なセリフを、そのシーンの時にみんなでツイートする、というもののようです。古くは、にちゃんねるからあったようで、こうした状況を「祭り」というのは、うまく言ったものだと思います。最大1秒間で1万ツイート以上だったということなので、直接参加(ツイート)しなかった観客(その時間にツイッター見た人)を合わせれば日本でも最大規模の「お祭り」だったといえそうです。

で思い出したのが、本物のお祭りのことで、小中学校時代住んでいた栃木県塩原町(現那須塩原市)では、毎年9月中旬にお祭りがあり、この2日は学校は午前中で終わり、各地区ごとに山車を引きます。一日ずっとある、かなり熱の入ったイベントなわけです。で、山車を引いてるときに、テンションを上げてかけ声を出したりします。

「まだまだまだまだ!」「それそれそれそれ!」「まだまだまだまだ!!」「それそれそれそれ!!」「わーしょっい!」「わっしょい!」「わっしょい!」

みたいな感じです。

昨日のタイムラインを読む限り、祭りで「わっしょい!」というのと、「バルス!」とツイートする心境はかなり近いように見えました。

さらに、中には「みんなバルスとか言ってるけど、私は興味ないよ」みたいなツイートもあって、これもまた、「みんな学園祭とか言ってるけど、俺興味ないもんね」というセリフを彷彿させたのでした。
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# by taiji_nakao | 2011-12-10 20:24 | 短歌
2011年 11月 13日
情報収集ツールの整理(メモ)
Firefoxの重さが日に日に増していき、すぐにパソコンが唸りだし、URLを開けない、ということが頻発するようになったため、Chromeに完全移行することにしました。Chromeはサブとして、ちょくちょくは使ってはいましたが、その軽快な動きは気持ち良いです。

Firefoxは、Firebugという開発ツールが秀逸なので、今後はデバッグツールとしてのみ、使っていくことになりそうです。

※あくまで私の環境・使い方でFirefoxが使えないレベルに到達してしまったという話です。
最近、急速にアップグレードを重ねているので、改善も進むと思います。


この機会に情報収集のやり方を整理したので、そのメモをブログに書いておくことにします。

*RSSリーダー
Google ReaderのデータをFeedlyというプラグイン(エクステンション)経由で確認しています。
最近、Google Readerもデザインが綺麗になりましたが、Feedlyのデザインはずっと素晴らしい。
非常に使いやすく、Feedlyを使うようになって、ウェブを見ているという雑誌を読んでいる感覚になりました。

大好きなアプリです。iPhoneアプリもあります。
TwitterやFacebookを始めとしたサービスとの連携も素晴らしいです。

RSSリーダーを見る時の自分ルールとして、一度みた記事はその場で必ず既読にする、ということにしています。時間が無い時は、いままではGoogle Readerのスターを使っていましたが、Feedlyと連携しているので、Instpaperを使うことにしました。

*後から読むサイトの保存
今読んでいる時間がないので、後でこのサイトを読みたい、というサイトのリストを作って置くと便利です。
今までは、Read It Laterというサービスを使っていましたが、Instpaperというサービスを使うと、FeedlyやiPhoneアプリのHootsuiteでも使えるので、こちらに乗り換えました。

Facebookは、FacebookのiPhoneアプリが便利なのですが、このアプリからは外部サービスとの連携がないので、NewsフィードのチェックはHootsuiteですることにしました。こうすれば、気になるページをすぐにInstpaperに保存できます。

今まで、Twitterのお気に入りにしたり、RSSリーダーでスターをつけたり、Read It Laterを使ったり、メールで送ったりとまちまちだったので、きれいに使えそうです。

*オンラインブックマーク
実は、これがあまり使いこなせていません。
数年前に、deliciousに登録して使おうとしたところ、ログインなどでなぜか上手く行かず、幾つか探してDiigoというサービスに落ち着きました。

ページ内にマーカーも引けるようで、これは便利そうなのですが。

が、このタグ付をいい加減にしたせいで、タグの数があっという間に膨れ上がって全く使えない状態になってしまいました。

今回、リセット。
何でもかんでも追加していくと、探すのに苦労するので、これからのやり方として、

 (1)大分類を作って、大分類のタグを全部に付ける。 
 (2)目的を持って調べるときは、そのテーマのページは、とりあえずは日付のタグにしておいて、後で適切な名前をつける。
 (3)diigoも「後で読む」ラベルを付けられるので、調べものの時は、diigoのあとで読むを使う。

でやってみる予定。
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# by taiji_nakao | 2011-11-13 14:00
2011年 10月 22日
迷子になった子供が家族と会えましたというアナウンスが好印象だった理由を考えてみる
今日こんなツイートをしました。
阪急の館内放送で、迷子のお知らせの続報をアナウンスしていた。無事に家族に会えたらしい。こういう放送は初めて聞いたけど、いいなと思う。

私にとってはなかなかの反応で、数人にリツイートされました。

正確に言うと、西宮北口のガーデンズ内の放送で、夕方から待ち合わせをしていて、15時から17時半まで時間をつぶしていました。最初、16時くらいに迷子の放送があり、その一時間後くらいに、家族に会えました、というアナウンスがありました。

そもそも、デパートなどにそんなに来ないのですが、こうした放送を聞くのは初めてで、なんだか、いいなあと思ったわけです。

なんでそう思ったのだろうと、リツイートされたというお知らせを見ながら、待ち合わせに考えていました。

一つ目の理由は、解決されたことを聞けた、という事実があります。

現代社会というのは、未解決の問題が山積みです。

多数の未解決の問題はそれぞれが複雑に絡み合っています。そしてたちの悪いことに、私たちもそのシステムに組み込まれています。被害者でもあるが、加害者でもある状況になっています。NHKスペシャルの環境問題のレポートを見ると、決まって最後に、問題提起で終わります。現実問題、問題は複雑で安易な処方箋はないのですが、しかし、暗い気持ちになります。

各種の自己啓発の本によれば、心理学的知見から、人間は未処理の課題を残すことは精神衛生上よくないらしいですが、これは実感からわかります。だから、そのように無数で、未解決の問題が積み重なるといのは、大変に生きにくいです。
※もちろん、だからといって安易な解決策を提示せよと言いたいわけではありません。

ツイッターでは、原発に関する各種の問題から、最近発表されたアプリのセキュリティの問題、政治記者の問題など、どんどん流れていますが、「迷子のお知らせ」を聞いたときの感覚は、ツイッター上に流れるもろもろの問題と同じく、私の頭の中を流れていきました。

迷子のほとんどは無事に見つかっていることでしょうから、さほど心配することでもないでしょう。

それでも、素直によかったねと思ったし、やはり、すっきりしたのだと思います。

単純な事実として、××が問題です!というニュースの数に対して、○○が解決しました!というニュースの数は少ないということもあります。


もう一つ。アナウンスは、「みなさまのご協力ありがとうございました」と言いました。
実際は、この迷子の問題解決に関わった人は数えるほどしかいないはずです。私も全くタッチしていません。ただ、私は少し心配したことは事実です。それは、迷子のお知らせを聞いたとき、比較的静かな場所、ートイレ、にいたため、鮮明に記憶に残ったからですが。だから、そういう心配をしてくださってありがとう、というメッセージにも受け取れました。

私は、毎回の迷子のアナウンスをちゃんと聞いているわけではないです。そういう自分の経験の延長でいうと、少しでも心配した人さえも、全体からみれば半分くらいかもしれません。

でも重要なことは、運営側はある程度本気で、「お客様は協力してくださる方」と思っていることです。

これは、最近よく見る、トイレの「きれいにお使いいただきありがとうございます」という張り紙とは全く違います。この種の張り紙をつけた人は、そんなことを思っていないでしょう。

この張り紙をしたモチベーションは、明らかにきれいに使ってもらいたいからです。本当は、「きれいに使ってね」、もっといえば、「ただで使うんだから、せめてきれいに使えよ」とか思っているはずです。少なくとも、初めて張り紙をした人はそう思ったからわざわざ張り紙をしたのです。それが、ちょっと表現がストレートだから和らげようと思って表現を変えた結果なのでしょう。そして、最近ではそれすら考えず、「とりえあずトイレにはこれ」で決めているのがほとんどだと思われます。

なぜそう言えるかというと、張り紙になんと書こうと労力は同じだからです。
さらにいえば、昨今では「きれいにお使いいただきありがとうございます」は「トイレはきれいに使ってください」よりも意思がないといえます。
なぜなら、今になってストレートな表現の張り紙をするためには、ある程度の、顧客から、あるいは本部からのクレームを覚悟しなければならないからです。

でも、二度目のアナウンスはそうではありません。これをするためには、解決した後に放送室へ報告する手間をかけ、放送係はわざわざボタンを押して、放送しなければならない。そして、このことを始めたときの責任者は、「なぜそんなことをわざわざ放送するのか」という反論を説得し、もしかしたらあるかもしれないクレームに対応する覚悟を持ってこの話を通したはずなのです。

ちょっと大げさですが、そういうコストを払ってまで、「お客様は協力してくださる方である」という性善説に立って、そのような人として扱っています。これは気持ちいいものです。

今の世の中では、そうでない前提で扱われることが多いです。
たとえば、何ページにも及ぶ利用規約を読めとか、正当な理由があってコールセンターに電話しているのに、毎回「音声は録音されます」と聞かされるとか。つまり、私はクレーマー候補として扱われているわけです。
※企業がそうせざるを得ないのもわかりますけれども。
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# by taiji_nakao | 2011-10-22 22:25 | エッセイ
2011年 10月 07日
物語を生きる(6)
おおきな存在の物語

吉野は、平安時代は特殊な意味を持つ場所として認識されていらしく、当時の物語では、そのような場所として登場する。

中将はハンサムで行動力もあり、多くの女性と関係を持っている。かれはこの世界を自分の力で支配していると思っていたかもしれない。しかし、彼は一番大切なトポス、吉野のことを全く知らないのだ。この物語は、何がどうなっているかわからなくなって困り果てている中将の姿を描くことによって終わっている。実に素晴らしい終わり方だ。物語のなかで、縦横に活躍し、物語のプロモーターであるかのように見えた男の困惑しきった姿を最後に描くことによって、ものごとは、才気煥発な男の意思や欲望と、まったく異なる動員によって進んでいることを明らかにしている。この中将を近代自我の姿としてみれば、本当に良くわかる。

特定の意味を持つ場所、トポスという考えは、近代になって個人を中心とする考えが強くなるにつれて、急激に薄れていった。個人の在り方、性格が大切であり、それがあちこちと場所を移動しようとも、中心的性格は変わらない、と考える。

中将の活躍の物語より、吉野の持つ物語の方が「一番大切」というのだ。

ここで説明されていた吉野の物語の中身については、あまり理解できていないが、浦島太郎の竜宮城のような異世界がこの世界には存在していて、実生活に影響を及ぼしているという物語だと思う。中将と同じく、現代人には素直には受け入れがたく、ちょっと理解できない。

ただ、ここで重要なことは、一般化して言うと、世の中にある相対的なもののすべて、お金、権力、名声、測定可能な才能・・・より、存在、精神、命、神といった絶対的なもの、「おおきな存在の物語」の方が人間にとって重要である、ということだと思う。別の言い方をすると、人間はそういう物語を必要とする生き物だと思います。

しかし、吉野が特殊な意味を持つという物語や、あるいは唐の国つまり中国が特殊な意味を持つという物語は現代の日本では受け入れられない。

グーグルストリートビューでパソコンから道並みを確認できる時代では、昔のように離れた土地を異世界と認識されない。あるいは、宇宙ステーションになら、未知への憧れとともに、そこにいる自分は今ここの自分とは違うという物語は持てるかもしれないが。

では、現代人は、「おおきな存在の世界」をどのような物語として持つのだろうか。

近代になって、ゲニウス・ロキが死に絶えたので、人々はトポスではなく、人間のなかにゲニウスを探し出そうとつとめるようになった。異界をどこかの場所に求めるのではなくなると、人間としての異性ということが大きい位置を占めてくる。従って、西洋の近代においては、男女のロマンチック・ラブということが至上のこととなった。男も女も異性に魂の姿を見る。

この説明はなんとなくわかる気がする。現代でもこの残滓はあると思う。
確かに、たまに小説などで見られる極端な異性への憧れの傾向は、不自然につくられている感がある。異性間では、いろいろと違っていて、深いと思うけれど、同じ人間であり、根本的に違う異界として捉えるのは無理がある。

では、どんな物語を、ということになるのですが、それはまた別の機会に考えてみようと思います。

※「物語を生きる」シリーズはこれで最後です。
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# by taiji_nakao | 2011-10-07 08:34 | 物語を生きる
2011年 10月 06日
物語を生きる(5)
心性のタイプ

復讐についての引用。落窪物語を論じている。
復讐などしなくても、自然や神仏にまかせておけば、というのは貴族の考えではなかっただろうか。武士階級が台頭してくるにつれて、仇討ちという個人に意思による行為が称揚されるようになり、後世には多くの「仇討ち物語」が生まれてくる。しかし、これらは武士の道徳観を反映し、仇の方が強いのに対して、仇を討つ方が艱難辛苦して目標を達する話となる。

このような武士の仇討ちと、「落窪物語」の復讐はまったく味が異なる。後者の方が明るくて面白い。そこには強い「個人」に対する信頼があり、運命や神仏などの介入を許さない。おそらくこれは、貴族社会ー特にその情報ーにはなかった人生観であり、阿漕のクラス、これを庶民とは言いがたいが、家柄や身分よりも個々人の能力によって相当に頑張ることのできた層の人たちの考えだったのではなかろうか。

※引用が足りないので少し補足すると、河合隼雄によれば、阿漕(「落窪の君」に幼い頃から仕えている、機転のきく賢い侍女)たちによる、主人の落窪の君をさんざんいじめて来た継母への復讐とその後、一転して大切にする描写にはユーモアと余裕があり、武士の復讐とはずいぶん趣が異なるということです。

落窪物語より。貴族と武士と、阿漕のクラスの庶民の考え方の違いについての考察。これは興味深い。落窪物語を読んでみたくなった。

確かに現在においても、あるいは自分を省みても、「復讐などしなくても、自然や神仏にまかせておけば(解決する)」という心性はあるし、「仇の方が強いのに対して、仇を討つ方が艱難辛苦して目標を達する」話は大好きである。

一方の、落窪物語の「強い「個人」に対する信頼があり、運命や神仏などの介入を許さない」というのはどうだろうか。私の持っている印象では、現在においてまっとうに生きている人というのは、この心性を大切にしているように思う。なんだかんだ言っても、やるべき仕事をきちんとこなし、家庭のこともする。

これらの要素をうまく組み合わせた物語がよいのかもしれない。日々の生活では「強い「個人」に対する信頼があり、運命や神仏などの介入を許さない」一方、自分ではどうしようもない現象(死など)には「自然や神仏にまかせてお」き、人生の中でも重要な要所においては、「仇の方が強いのに対して、仇を討つ方が艱難辛苦して目標を達する」というような。
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# by taiji_nakao | 2011-10-06 08:06 | 物語を生きる
2011年 10月 05日
物語を生きる(4)
人の物語に思いを寄せる

紫式部などはその典型と思われるが、おそらくこのような物語をつくった女性たちは、経済的には安定しているが、当時の出世コースから外れている、という特徴を持っていたと思われる。当時の男性はそれなりに、その時の体制の中に組み込まれていて、その中での上昇ということに関心を持っている。つまり、体制の物語を生きているので、自らの「物語」を作り出すことなど考えもできない。これは現在も同様で、体制の物語を生きている人たちは、自分たちは「現実」を生きていると信じていて、物語の必要性を感じていないか、その価値を低くみている人が多い。


人間はそれぞれが物語を生きている。しかし、ある時代において一般的な性質をもつ物語というものがある。現在であれば、東大を卒業し、官僚になって、政治家になって、大臣になるとか、有名大学を出て一流企業に就職し、重役になるとか、おきまりの物語がある。この道をまっしぐらに生きている人は、他の物語にあまり関心をもたない。このような人は小説などあまり読まないだろう。


後半は、ややステレオタイプではある。2002年出版の割にはちょっと古い考えの気もする。
2つのテーマについて考えたい。一つは、この社会を超越した、おおきな存在に関するもの。これは最後の投稿のテーマです。もう一つは、世界は多様であるということ。

小学校のころの世界はほんとに狭い。学校と家。最近だと、それに塾が加わるのかな。でも、ほとんど中心は学校だけ。そうなると、生きている物語の視野も極めて狭い。そんな時にいじめられたら、悲惨なわけです。もう、世界の終わりだと思ってしまう。

小説か何かで読んだ話のなかで、いじめられている子供が公園でおじいさんやらおじさんと仲良くなるなかで、元気になっていく、というようなのがあった。おじいさんたちは、「あんたは悪くない」「とんでもないやつらだ」「じきに卒業して、会わないで済むよとか」とか話す。話す内容もさることながら、彼らには余裕がある。それは、世界はとても広くて、子供の通う小学校なんてその一部に過ぎないということをよく知っているからだと思う。

自分が生きている(と信じている)物語とは別の視点もあるということを理解できた方が豊かな人生であると思う。東京から栃木に向かう車窓を眺めていると、もうそれは凄い数のマンションや家がある。その一つ一つに何人かの人が住んでいる。膨大な数の人がいて、そして、みんな、それぞれの物語を生きている。まして世界にはもう、たくさんの国があり、地域があり、いろんな人たちがいて、それぞれの物語がある。

人はそんなにたくさんの物語を生きることができないから、たくさんの物語を知っていることよりも自分の物語をちゃんと生きることが一番大切だ(自戒をこめて)。でも、限られた物語だけがこの世界だと思ったり、別の物語を理解しようとしなかったり、価値がないと決めつけることは本人も周囲も幸せにしないと思う。
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# by taiji_nakao | 2011-10-05 07:29 | 物語を生きる
2011年 10月 04日
物語を生きる(3)
うつろう美/亡びの美学/無常観

ここから、著書(河合隼雄 「物語を生きる」)に入っていきます。
かぐや姫は帝の気持ちにもかかわらず、月の世界に帰っていった。なんとしても、絶世の美女は男性ーたとえ帝でさえーとは結ばれず、この世から立ち去らなければならないのだ。そのことによってのみ、当時の日本人の美意識は完成した。そして、そのような美意識は実に長く日本文化の底流として流れ続ける。どうして、そのようなはかないもの美を体験しようとしたのだろうか。
うつろう美を特に評価している。というよりも、この世ならぬ美を追求すると、それは限りなくしに近接していく。つまり、美の陰には死が必ず存在しており、それは移ろい行くことの自覚を促すものとなる。
そのような滔々と流れる流れの中で、仲忠と貴宮という好ましい男女の恋が語られる。しかし、それも、所詮、人と人との間における、個人の意思であって、底流に流れる流れに逆らってまで成就されることはない。それが成就しないことを、せめて悲しく美しい話として物語ることくらいが、人間のできることではなかろうか。

竹取物語とうつほ物語の章から。うつろう美、ほろびの美学、そして無常観。

この心性の影響について考えてみる。

自分で自分の将来に関与できる余地が少なく、望まない現実を受け入れなければならないことが多いのなら、このような心性をあらかじめ持っていることは特に有効である。そんな現実を、自分の物語として「納得」しやすい。

現代においても、自分ですべて決め思うようにできるわけではないから、有効である。泰然としていて、無駄に騒がしくもなく、困難に対応できる気がする。

でも、人生のほとんどをそんな風に捉えるのは、ひねくれているようにも感じる。
本当は自分で、もっと建設的な道を選択することができるのに、その選択肢を放棄している、ということにもつながりかねない。安易なあきらめ。このことは、統治者に都合よく利用されてしまう可能性もある。

それと、今あるものを積極的に評価する、ということに価値をおかないことにもつながる。
たまにプロフィールなどで、高杉晋作の辞世の句「面白きこともなき世を面白く」を挙げている人がいる。しかし、これだけ豊かで自由も保証されている今の日本は、面白きことがたくさんあるのでは?とつっこみたくなってしまいます。もっと素直に現状を評価して、楽しんでもいいんじゃないの、って思ってしまう。

高杉晋作の辞世の句を持ち出す人は、明るい未来をイメージしている人なんでしょうけど、根底には現在に対する、こだわりの薄さが共通していて、それはきっと無常観とかそういう心性が影響しているように思います。

いずれにしても、最古の物語から受け継がれているこの心性、自分で振り返ってみても染み付いている。たとえば、そこ抜けの明るさがずっと続いていくというような物語は、ちょっと受け入れられない。
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# by taiji_nakao | 2011-10-04 07:47 | 物語を生きる
2011年 10月 03日
物語を生きる(2)
現代人はどんな物語をもち、共有するのか

図書館で「物語を生きる」(河合隼雄)という本を見つけました。主に平安時代の古典の物語を分析している本です。

本の中で、自分の仕事はクライアントに現状を「納得」してもらうことだ、と言っています。
過去から今に至る諸処の経験を一つの物語と認識し、それを受け入れること、と私は理解しました。
けっして合理的な説明を求めているわけではない。辛いことや理不尽な出来事をその人なりの物語で認識し納得することを手助けすることが仕事だと。

人は物語を生きているものだといっても、もちろん現実と無関係でいられるわけはありません。
現実とうまく折り合いのついたものでなければ、その人も周囲の人も幸せになれません。
いくつになってもモラトリアムを続けてしまう人たちの問題の1つには、自分が現実に実現できる力量と自分の物語の中の自分とのギャップが大きいという言い方もできるかもしれません。 

しかし、巷には歪んだ物語があふれています。
サプリメントやダイエット食品、人口減が確実なのにどんどんマンションが建っていたり、デジタル放送云々で大騒ぎしていたり、どこが「エコ」なのか理解できないエコポイント・・・・
その売り場文句で、あるいは企画段階で語られているであろう物語の中身を想像するとげんなりします。一つ一つの歪みは大したことがなくても、それが占める割合が大きくなってくると、その影響も大きくなる、ということもあると思います。

今の日本では、需要と供給のギャップは年間で20兆円くらいあるそうです。で、それを埋めるために財政出動が必要なそうです。具体的な経済の議論は私の手に負えるところではありませんが、素人思考で考えて、まずは供給が大きすぎることを問題と考えるのが道理というものです。

「20兆円の需要を創出し、需給ギャップを埋めることで経済が回復し、人々は豊かになる」という物語を生きていこうとすれば、無理をしても消費してもらう、ということにならざるを得ない。産業をうまく転換できれば、違うかもしれませんが。しかし、現状のままでは、それを実現させるための物語はどこか歪んだものにならざるを得ない。

ただし、マーケティングの大家であるコトラーのマケーティング3.0では、マーケティングの目的を企業は世界をより良い場所にすることにあり、そうしなければ生き残れないということが書いてあります。企業が語る物語は消費をあおるものという認識はすでに時代遅れなのかもしれません。

組織も物語を持っています。未来に向けてはビジョンなどの言葉で語られます。組織の物語と個々人の物語のベクトルが一致している組織は、強いでしょう。

どんな物語を持つのか、共有するのか、ということは大きなテーマです。巷に歪んだ物語があふれているなら、自覚的に持つべきだと思うのです。
そして、日本に住んでいる以上大きな影響を受けている日本の古典から学ぶものが大きいはずです。
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# by taiji_nakao | 2011-10-03 07:32 | 物語を生きる