2005年 02月 05日
生物多様性考(Ⅲ)
 3回目です。

いままで、

「1.意味不明な生物多様性議論」では、従来の生物多様性の重要性の説明が不十分であることを、

「2.人間の生活は生態系に依存している」では、普段は意識されることはないが、人間は生態系に依存していることを、

「3.生態系は奇跡」では、生態系は奇跡的に成立していることを、

「4.自分の問題としての生態系保全」では、生態系保全という問題は決して遠くの話ではないことを、

説明してきました。

これからは、生物多様性の意味の説明に入ります。

これ以降は、先に紹介した、「生物多様性の意味」 ダイヤモンド社 を参考にして書いたものです。この本には、豊富な事例が紹介されているので、興味がある方はぜひ読んでみてください。

**

5.生態系には「質」がある

 生態系の機能

*水
*土壌
*植物の生産
*土地を形成
*気候・大気を形成
*生物間相互作用

*植物の生産力

一年の生産量
 同じ条件の土地でも、生物が多様な方が生産力が高いことがある。極端な例だが、トウモロコシを単一で育てるより、クローバーと一緒に育てる方が、50%収穫量が増えるという。多くの研究の事例から、10種程度までなら、植物の種数が増えるほど確実に生産力は伸びるといえる結果が出ている。但し、10種を超えると頭打ちになるという。

安定性
 生物を取り巻く環境は変化する。例えば、降水量は年々変わるし、火事や地震などで大きな変動があるかもしれない。また、気候の変動は過去何度も起きている。(何万年という月日をかけてだが)
それに伴って、植物の生存を限定する要素、光、気温、降水量、土壌・・などが変化する。すべての要素に強い種というのはなく、ある種は光の弱いところでも成長でき、ある種は降水量の大きなところで他より早く成長できるかもしれない。
ある土地においては、その土地の環境の中でも今現在の状態に強い種というのは確実に存在し、その種が多数を占めることになる。しかしながら、人間が手を加えない自然の状態なら一般に、その中でも多数ではないが生きている種というのが存在している。これが、つまり生物多様性の一つの意味である。
環境が変化したとき、それまで多数存在していた種は生存が困難になることが多い。それは、それ以前の環境における、限定する要素のうちのどれかに特に強かったわけで、その分ほかの限定する要素には弱いからである。そのとき、生物多様性が高ければ、それ以前は細々と生き残っていた種が今度は多数になるのである。しかし、生物多様性が低ければ、その環境に適応できる種はいないかもしれない。

 例えば、ミネソタのシーダー渓谷のプレーリーではやせた土地で草原が広がっている。ここに、肥料を与えると生産量は増加するが、植物の多様性は減少する。あるシーズンに、旱魃が起きたが、肥料を与えていない土地(生物は多様)に比べて、肥料を与えた土地ではそのシーズンの収穫は4分の1になり、元の生産量に戻るまでに4年を要した。
 
 植物の生産以外の機能、水、土壌、土地を形成、気候・大気を形成、生物間相互作用においてもほぼ、同様なことがいえる。すなわち、10種程度までは数の増加ともに機能が上昇するがそれ以降は頭打ちとなる。しかし、多様なほど環境が変化したときに対応して、その機能を発揮できる種が多く存在することになり、その生態系は安定する。と。

6.どういうスタンスで生態系に臨むべきか?

危機はすでに進行している
 いまさら挙げるまでもないが、乾燥地域での塩害、砂漠化、熱帯林の減少といった土地の劣化の問題は世界で進行していて、人間が存続することが難しい地域がすでに出ているし、今後さらに増加することは間違いない。

自然は放っておけば回復する?
 破壊の程度によるが、例えば皆伐をしてもすぐに陰性の樹木が生え、数十年で元の極相林に戻ることもある。しかし、一般的には皆伐をすれば土壌は失われ、その土壌を回復するための、教科書的な遷移をたどることになる。土壌流出の量や、環境にもよるが、今一般に砂漠化といわれている土地でも、「自然に回復」するのだが、それは数百年~千年のオーダーである。発展途上国で、アグロフォレストリーを普及する際に、10数年間木が育つまで収入が得られないのを待てずに単一栽培を転換できないことを考えれば、100年近くかかるのでは、いくら回復したとしても、「放っておけばよい」ということにはならないだろう。

どんな状態がいいのか?
ある地域では草原化が問題になり、ある地域では低木の進入が問題になる。ある地域ではゾウが減り、ある地域ではゾウが増えて困っている。確実にいえること。多様であることがいいということ。人間が手をつける前の状態は、今まで何万とか場合によっていは億といった単位の結果成立している以上、それだけの意味があると謙虚になるべきだろう。人間が生態系について知っていることはあまりにも少ない。これは、外来種問題を考えるときの基本原則だと思われる。

7.自己の保全のための生物多様性保全

*人間は生態系に依存して生きている 
*生態系には質があり、それは生物多様性によって表される
 
よって、

生物多様性保全 = 現在危機にさらされている、人間の生存基盤である生態系の健全化 
→ 現実的に必要

ポスト自然保護主義を越えて
 IUCN(国際自然保護連合)の第三回会議が昨年の11月に行われ、約16000種が現在絶滅の危機にあると勧告した。過去400~500年で絶滅した種は約800種といわれているので、恐ろしい数字である。
このままいけば、生態系が機能を果たせなくなってしまい、人間が存続できなくなる日が来るのはほぼ確実といえるだろう。
こうした現状を考えると、やはり、現場で第一産業等にかかわる人間も、「結果的に自然が保護されればよい」といわずに、生物多様性保全を活動の第一理念のひとつに加えて、具体的な行動をとることが求められている。

**

これで、勉強会に使った資料は全部出ました。

しかし、この説明にも、実は限界があります。

したがって、話はまだ続いていきます。
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# by taiji_nakao | 2005-02-05 01:44 | 考え事
2005年 02月 04日
生物多様性考(Ⅱ)
  まず、*お詫び
一昨日のブログで、「日本のチップ消費量はなんと2400百万㎥!(つまり24億㎥)」などと書いていましたが、02年日本の木材消費総量は8800万㎥なのでそんなはずはありません。誤読です。正しくは、3400万㎥。勉強不足です。こんなミスをしてはいけませんね。

 さきほど直しました。一昨日来てくださった4人の方(少ない・・・・)すみません。

 さて、気を取り直して、昨日の続きです。

 これは、いわば、生物多様性への論理的なアプローチといえます。
 今の自分には、その限界も感じていますが、続けていきます。

**

3.生態系は奇跡

地球という惑星では、普通なら生物は生きていけない
 「水の惑星・地球」と言われ、地球に水があったことや太陽との距離が離れすぎず、近すぎずちょうどよかった、地球はそんな奇跡に恵まれた星。というイメージは一般にある。しかし、たとえそれだけ「好条件」であっても、まだ生物にとって地球というのは決して豊かな地ではない。堅い岩がむき出しであり、日照りは容赦なく照りつけ、たまに降る雨はなんのさえぎりもなく降りつける。やわらかい土があり、木々が直射日光や雨を遮り、水を蓄えることでやっと生物は生きていける。

生態系は一切無駄なく循環する
 先にあげた「人間系」では膨大なエネルギーを使って、やっとまわそうとしている。しかし、生態系は人間がこれだけエネルギーを使ってしていること、水、食料生産、温度調節、廃水処理・・の一切を太陽光のエネルギーのみでまわしている。
すべての生物は自分が生きていこうとするだけでこの精密なシステムが成立しているのを思うと、奇跡としか言いようがない。

4.自分の問題としての生態系保全

生態系の捉え方
 生態系を捉える範囲としては、地球レベル・気候区分レベル・流域レベルetc・・といろいろなレベルがある。
地球上にあれば、完全に閉鎖系というのはありえず、その多寡はあっても、どの生態系も外の生態系と影響を与え合っている。

生態系保全の捉え方(これまで)
 これまで、生物多様性保全というと、例えば、白神山地の場合、生態系レベルとしてこの一帯をしたのはいいが、あたかも白神山地を切り取り、天空の城ラピュタのように、「中に浮いた白神山地の生物多様性をいかに守るのか」というように考えてこなかっただろうか。

生態系保全の捉え方(これから)
 当然のことながら、白神山地は本州とつながっている。決して自分とは関係の途切れた空の上の話ではない。ある生態系の機能が衰えたとき、自分の住む地域に近いほどその影響は大きくなる。しかし、どんなに離れていようとも、たとえ地球の反対側であっても、必ず自分たちに響いてくるということを忘れてはいけない。

**

まだ、生物多様性という言葉が出てきませんが、明日に続きます。
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# by taiji_nakao | 2005-02-04 00:05 | 考え事
2005年 02月 02日
生物多様性考(Ⅰ)
 環境問題のことを考えていると、生物多様性という言葉はよく聞く。そして、確かに、多くの種が絶滅していくのはまずい状況だと思う。
 でも、例えば林業の現場なんかを見てると、そんなこと言われたって、気にしてる余裕ないし。

 農業でも同じような状況だと思います。

 もう少し過激に言えば、そんなこと言うのは、現場を知らないやつらだろ、なんて思ってしまう。

 というわけで、生物多様性について考えてみます。
 
 これは、前に杉良の勉強会で使ったレジュメです。

 まず、これから始めます。

 なお、このレジュメを作るにあたって、
 「生物多様性の意味」 ダイヤモンド社 藤倉良を参考にしています。

 というより、この本を読んで刺激を受けて書きました。

**
1.意味不明な生物多様性議論

生物多様性保全のイメージ=自然保護主義 
 → 非現実的

自然保護主義
 アニマルライト(動物にも権利をという主張)や自然の権利論(自然は権利を持っており、それを犯された場合、訴える権利を持つ、という主張。(もちろん、自然は訴えられないので人間が「代理」となる)といった考え方が基礎にある。
 これらの考え方には、そこに暮らしている人の実情や、他を犠牲にしなければ成立できない現代社会の事実に目が向いておらず、単なるノスタルジアな夢を見ているかのような安易さが漂う。
 また、生態学的に見て、ある機能を担う種は数種いて、いつも競い合っているのが現実で、その中の特定の一種を保護することは、別の種を排することであり、すべての生物を守ることなどできない。自然保護主義者は、得てして自分の好む生物=自然と捉え、その種を守ることが自然を守ることだと思い込んでいる。

ポスト自然保護主義
 自然と直接かかわっている人たち、特に第一次産業に携わる人たちは、当然ながら自然保護主義は非現実なものとして考えていることが多い。また、環境問題を深く考える人なら、こうした疑問を持つことはむしろ一般的になっているようである。
 「ポスト自然保護主義」とでも呼べるだろうか。特徴としては、仕事としている人なら、「生活を成り立たせる」(経済的に成り立たせる)ことが一番であり、市民活動なら「自分たちが楽しむこと」を一番に据える。そして、「結果的に自然は守られる」、と捉えている。極めて自然な考え方で、このことは大原則だろう。

当たり前というスタンス
 変化が激しく、人々の経験、価値観が多様になった現代では、「あたりまえ」という言葉は一切通用しない。自分が当たり前だと思っていること、例えば使う言葉の定義などは、これから話そうとする人と自分とはまず食い違っている、という認識を持たなければ、文字通り、「話にならない」だろう。
 しかし、生物多様性の重要さを訴える人のほとんどは、「生物多様性が重要なことは当たり前」と捉えている。ストレートに「なぜ?」と問い、答えようとする姿勢がかけていることが多い。

従来の答え
 生物多様性の重要さを説明する答えとしては、1.「人間だけの都合で他の種を絶滅させることは許されない」といった倫理的見地からなるものと、2.「まだ未発見の生物の遺伝情報が失われる」といった医療的・育種的見地からなるものの2つと決まっているようである。
 しかしながら、これらの答えでは「ポスト自然主義者」は到底納得できない。例えば、進行するデフレと後継者不足に悩まされる第一次産業従事者に、これらの言葉が響くとはとても思えない。

でも、これだけ声高に国際的に問題になってる
           「生物多様性って、いったい何なんだ!」


2.人間の生活は生態系に依存している

自然保護から生態系保護へ
 「自然」という言葉は極めて抽象的で、人それぞれによってイメージする内容も多様である。「自然をどう捉えるか?」という問いは哲学的であり、難解である。この問いかけも重要であるが、もう少し具体的な「生態系」という言葉を使う方がイメージを共有しやすい。

生命維持サービスを提供する生態系
 きれいな空気、水、食料、住処など、生命が生きていくために不可欠なサービスのすべてを生態系が提供している。他の生物と同じように、人間もこれら基本的なサービスの恩恵を受けて生きている。この生態系が正常に機能しなくなれば、人間もまた生きていけなくなる。

現代人は「人間系」に住んでいるのか
 しかし、都市に住む人間はそんなことを少しも考えない。むしろ、それらのサービスはすべて人間が担っているように思える。
 例えば、水。水は人間が作ったダムから運び、人間が上水処理場で飲めるようにしているものだ。食料。野菜は人間が作ったものだ。温度調節。人間が作った服を着て、人間が作ったエアコンを使っている。排出物。人間が処理場で処理してくれる。
どうやら、人間は生態系とは別の「人間系」に住んでいるようである。実際、私たちは熱帯林や里山の生態系といったとき、自分たちとは別のものとして捉えている。

 「人間系」の内実
 しかし、実際はどうだろうか?
 水を例にとってみる。巨大な土地にエネルギーを使って作ったダムに水をため、上水処理場でエネルギーと塩素等の資源(これもエネルギーを使って作られる)を使って飲めるようにしている。これをはやりエネルギーを使って作り、維持しているパイプを通して運んでいる。また、下水に流した水はやはり、その過程でエネルギーを使って処理される。しかも、人間は有機物を完全に分解することができない。
こうして、水ひとつとっても、その利用の過程で多くの資源を使い、一方で排水は処理し切れていない。石油利用においては過去の生態系の蓄積に頼り、排水処理は今の生態系へ回している。

**

ちょっと気になる表現もあると思います。
現在の自分自身も違和感をかじるところもあります。しかし、こうした感覚をもっている人はけっこういるのではないでしょうか?

次回に続きます。
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# by taiji_nakao | 2005-02-02 19:40 | 考え事
2005年 02月 01日
再生紙と間伐紙
 先日、林業者のつどい(27日のブログ参照)でお会いした、グリーンコンシューマー東京ネットの秋庭さんが、「再生紙と間伐紙、消費者はどちらを選ぶべきか」という話があって、林野庁に問い合わせところ、資料が送られてきた」というお話をしていて、「ぜひそれをもらいたい」と言ったんですが、秋庭さんは今日、忙しい中、送ってくださいました。

 ただ、そこでは再生紙100%と間伐由来100%の紙の性質を比較していて、量的な比較でもなく、とても満足できるものではありませんでした。(秋庭さんもそうおっしゃってました)

 古紙100%でできるなら、その方がよいのでは?

  という気もして、すっきりしません。

 というわけで、仮にも3年間も森林のことを勉強してきた(はず?)のものとして、未熟な知識であるけれでも、現時点での結論を出してみようということで、調べてみました。
(以下は、その返信のメールの一部を変えたものです)

 **

 まず、再生紙と間伐紙の目的を確認します。

*再生紙

1・今も続くタスマニアなどの熱帯林等の原生林の破壊の代替
        91年     →   03年
パルプ消費 15百万トン → 12百万トン
古紙消費  14百万トン → 18百万トン

というデータから明らかに再生紙は森林への圧力を緩和している
( 財団法人古紙再生促進センター 紙リサイクルグラフ )

2・ものを大切にする心の啓発活動

古紙回収をしている地域は多く、こうした行為をすることそのものが啓発活動にもなる。


*間伐紙

1・国内の森に対する興味の喚起
 現時点ではここに一番の意味があると思われる

2・不健全な人工林の改善
 定義にも、人にもよるが人工林の8割は手入れが不十分といわれる

3・再生紙の1・に同じ

4・地域雇用の創出


□□比較□□

1・LCA評価
2・消費拡大の可能性
3・グリーンコンシューマーが考えるべきこと

1・LCA評価

 容器間比較研究会のようなデータがパッとでたらインパクトがあるのですが、今のところ見たことはありません。

 注意として、全てを一元的に評価するというLCAには限界があることは認識する必要があります。

(例えば、国内の森林の健全化と省エネルギー化の比較など)

 ちなみに、容器間比較研究会では、次元の異なる問題(大気汚染とエネルギー消費など)は、アンケートによって重み付けをしているようです。
  
 ただ、国内の場合、ロットが非常に小さいので、エネルギー的にも効率が悪くなるだろうと、僕は思っています。

2・消費拡大の可能性
 
□□資源量□□

*再生紙
現在古紙として回収されているのは、新聞紙、雑誌、板紙で全体の8割を占めているようです。(データは前出)

しかし、紙の60%を占めている印刷・情報用紙はここに含まれていません。つまり、回収はまだできるわけです。また、00年から古紙の輸出も始まり、現在2千トン近くが輸出されていることからも古紙があまっていることがうかがえます。

*間伐紙
02年のの国産材のパルプ・チップ消費量はおよそ4.4百万万㎥
木材の供給構造より

(ただし、素材の針葉樹を直接チップにした消費(間伐紙はおそらくこのカテゴリーに入る)はは1.3百万㎥のみ)
農林水産省木材チップ統計


一方、藤原敬氏の持続可能な森林経営のための勉強部屋では、

**7月12日のグリーン購入ネットワークセミナーの準備過程で、昨年林野庁が公表した、「森林資源現況調査結果」に基づき、日本の森林の供給力の可能性を検討してみました。**

に続いて、日本の森林では、毎年116百万㎥の成長量が見込めるとしています。

上のパルプ・チップと同じ要領で製材丸太の02年の国産材消費量を出すと、11百万㎥なので、

森林の生産した量全てを利用することは現実的でないにしても、その一割も利用されていないことになります。

従って、日本にはまだまだ紙に使える資源量は十分にあるようです。

もう少し確認すると、

03年のパルプ消費量は、34百万㎥
日本製紙連合会

(このグラフを見るときは注意が必要です。国産チップは、「日本でチップにされた」という意味だと思われます。(そうでないと、上の計算と合わないので)おそらく、外材を加工している工場からの端材由来のチップもここに含まれているのが、ややこしくしている原因と思います。)

この計算によれば、消費をまかなうだけの成長があると言えそうです。

□□需要□□

*再生紙
日本の古紙利用率は65%にもなります。

これは世界一であり、誇れる数字のようです。
そして、これは限界に近いと聞いたこともあります。

しかし、紙というのは、紙と板紙(ダンボールなど)に分けられるのですが、
板紙の古紙利用率が92%であるのに対し、紙は36%に過ぎません。

ここがポイントです。

したがって、まだまだ再生紙の入り込む余地はあるのです。

 500枚入りの印刷用紙も、一般に売られているのはバージン100%の方が多いのはその表れでしょう。

 上の印刷紙の例では、若干再生紙の方が高かった気がします。しかし、ノートなどを見ると、再生紙であろうと、あんまり変わっていないです。

 ですので、再生紙は一般の紙と同じかやや高いというマーケットに入り込んでいる、と言えそうです。

*間伐紙
 まず考えなければならないのが、そのコストです。

 間伐をして、市場まで出すのにかかる費用は、1万~1万5千円/㎥。先進的なところで、条件がよければ、7,8千円程度/㎥。ところが、針葉樹のチップの価格は、例えば15年岩手県では6200円/㎥。これは、木を出してきて、さらにチップにしてこの価格です。まず、採算割れ。

 となると、どうしても付加価値商品としてのマーケットになると思われます。

3・グリーンコンシューマーが考えるべきこと

*再生紙
 
 グリーンコンシューマー的に言えば、今後印刷・情報用紙の再生紙が普及するには、

白色度がやや落ちるということを受け入れること
当面は若干値段が高いのを受け入れること
 
が求められているでしょう。

また、バージン100%はタスマニアの原生林の大木を伐って作られたかもしれないということを忘れてはいけないでしょう。

*間伐紙
 現時点で、間伐紙を売っている企業は相当の頑張りやさんです。

 その心意気と、想いを受け止め、その商品を買い、周りの人に、何らかの形で広めていくことが大切だと思います。具体的には、日本の森林・林業の現状とそこに関わっている人たちのことを。

 しかし、コスト的に、日常なに利用は困難だと思われます。

**

とまとめましたが、今、この説明自体意味があるのか疑わしい気がします。

要は、再生紙はもっと広められるし、
間伐紙もほぼゼロの今からいくらでも広められる。

まあ、当面は「再生紙か間伐紙か」という機会は来ないだろうし、
来たとしても、そのときは、その商品の魅力と、その目的(このブログの最初の方の)を考慮して、その人が判断、ということですね。

これからは、「再生紙か森林認証の紙か」という選択肢は考えられます。

感覚的には、まず古紙を使おうと思いますよね。
この辺は、やはりLCA評価が欲しいところです。
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# by taiji_nakao | 2005-02-01 23:59 | 山と木材のお話
2005年 02月 01日
炎礼賛
 今日は杉良の木工でお世話になっている方のところへ行ってきました。

 この方は、今作業場の近くの小屋を改装して、囲炉裏などを作って、一種のエコツアーを受け入れて仕事の一つにしようという、とっても素敵な構想を持っています。

 そんやらかんやらの話を完成したばかりの囲炉裏に座って話していたのでした。

 いつも思うし、森林バイオマス関連の人はみんな言ってますが、

 「炎を見ていると落ち着く。和やかな会話が弾む」

これは感じます。


薪ストーブを購入する人の動機のひとつとしても大きいようです。

 先日、バイオマス産業社会ネットワークの泊さんもそんな話をしていました。

 泊さんは、その「炎の良さ」を知ってもらうために、ろうそく(もちろん、植物から作ったもの)を広めようという構想を持っているそうです。
 これも面白そうですね。

 僕自身、ろうそくだけの火の明かりだけでで友達と話し込んだことがあります。
(別に怪しい話じゃなくて)
 なんか、こう、しんみり、深い話ができましたね。そのときは、11時くらいから始めて、朝までやってました。(まあ、話し好きのメンバーだったこともありますが)
 ろうそくが途中で消えちゃうもんで、何度も足したりして。

 間違いなくあの炎には、人を安らかにする力があります。

 でも、最近じゃ、なかなか炎に触れられない。
昨日の、スポーツ少年団の人も言ってましたが、最近はいろいろうるさくなって、学校では焚き火もできないから、子供が炎に触れるのは、キャンプの時くらい。

 なんかかわいそう。

 でも、経験があろうとなかろうと、こどもは火遊びが好きです。
いや、大人も好きです。炎は見ていて飽きない。
また、今風の言葉で言えば、「癒し」の効果もあるでしょう。

 とにかく、

山には文字通り腐るほど木があるのだから、木を燃やして、生かすということをもっともっとやったらいのに。
それは、環境にプラスなだけでなく、その炎を見ること自体のが楽しいんだ、

ってことは言えます。
 
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# by taiji_nakao | 2005-02-01 00:13
2005年 01月 30日
教育論Y(yakyu-kantoku)
  今日は、(京都)森林インストラクター会の安祥寺の森づくりの活動に参
加しました。今回は、瀬田南のスポーツ少年団が間伐体験に来ました。

 野球とサッカーをやってる子供とスタッフが来たんですが、野球の監督と思しき人、自分の中学時代の監督に、体格(ふとっちょでおなかが出ている)、雰囲気(いつも怒った感じ、すぐに悪い言葉でどなるなど)そっくり。

 小中学時代は野球少年だったので、んもう、毎日野球をしていた。
 部活は野球。終わって帰ってきて、時間があったら、友達と野球。休日はもちろん野球。朝早くおきて弟とガムテープボール野球もしたりした。ピンポン玉で室内野球もよくやった。野球の盤ゲームもよくやった。(これは違うか。)

 で、その監督(担任でもあった)は気分屋で、矛盾したことをよく言ったし、何より言い方がいやらしいので、ほんと嫌だった。練習試合に行くというのは、すなわち怒鳴られに行くことだった。

 彼が、熱心であること、その意味は卒業以来理解しているが、彼の価値観を押し付けられたことは、自分にとってあんまりいい経験じゃなかったと思っていた。

 ただ、最近ある人に、私が「だって、気分屋でいつも怒ってて、もう最悪だった」といったら、「でも、人間なんだから、そんなもんでしょ。人間はそういうものだって、学んでいくんじゃないの」みたいなことを言っていて、そんな見方もあるかと思ったことがある。

 今日のスタッフは地域の人なのだが、やはりいちいちチェックして、たたいたり、怒鳴ったりする。保護者にも、「近所のうるさいおっさんたち」と思われているそうである。

 しかし、こういう人が子供を育ててるんだなあとしみじみ思った。いちいちうるさいが、それはちゃんと言うべきことを言っているからでもある。いわく、挨拶をしなさい、ちゃんと聞いているか、どこ見てる、わかってるのか・・

 そのおっちゃんの一人が、「俺らが学校に行くと、子供は恩義を感じてるから口答えできんのじゃ」ということを言っていた。

 それじゃあ、学校の先生は、・・・
 おそらく、ますます価値観が多様になっていること、加えて、教育委員会とPTA(というより一部の神経質な親)の監視を受け、なおかつ仕事が増えて忙しく、子供の信頼を得るのが困難になっているのだろう。この辺は詳しくないですが。

 まあ、とにかく、そのおっちゃんはそれを誇れるくらい、ボランティアでがんばっているのである。地域の人だから、例えば、「○○は幼稚園のころから悪がきだったが、最近はよくなってきたな」なんていう会話ができる。やはり、地域が子供を育てるのだ、なんて思ったりもした。

 こうした文脈で見ると、中学校の監督はそうやって熱心だったんだから、自分にとってよかったんじゃないの?と再評価する気になってくる。

 しかし、、やっぱり、監督と担任が同じなのは問題だなあ。この二つで中学時代の人生ほとんどを占めてたから。
 それにさ、毎日、先生の気づかいをせんならんなんて、やっぱり異常だ。
 いや、もっと自分が強ければよかったのか。

 ああ、でももっと広い視点でみて欲しいなとか。要望は尽きない。おそらくこれは無限。だって、理想の人間像の要素ってほとんど無限。

 先に出てきた、あるときはなした人は、そういう、無限に出てくる要望を全て教師に求めるのは非現実的という趣旨で話しており、それは間違いなく真実だろう。

 とまあ、今日は論点をたくさん残して終了です。



 
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# by taiji_nakao | 2005-01-30 21:35
2005年 01月 29日
林業者のつどい(Ⅱ)
 27日の続きです。

 午後は分科会で、僕は「里山活用分科会」に参加しました。
 里山活用、それも森林ボランティア受け入れを通して、という内容です。まず始めに、3人から話題提供がありました。最初は、いつも杉良(すぎりょうと略しています)がお世話になっている、雲ヶ畑の方の発表でした。地域への想い、山への想い、そしてありがたいことに、杉良が来るようになってから地域に新しい風がふくようになったということを熱く語りました。

 雲ヶ畑との渉外をもう2年もやっていますが、こうした想いを聞くのは初めてでした。うれしいですね。そして、これからの活動がいっそう面白くなりそうで、わくわくします。

 2人目は大文字の送り火を続けている、地元の大文字保存会の方の発表。自分の考えをしっかり持っていて、これだけ有名になっている大文字の送り火なのに、「別に明日からだってやめられるんだ。今の若いもんには、何でやってるんだ?と問い続けている。」という話は印象的でした。
 つまり、別にやらなくてもいいのにやっているんだから、その意義は、自分で問い続けなさいよ、っていうことである。

 たぶん、これは組織にとって一番必要なことだと思う。一昔前のように、経済的、社会構造的に、「こうしなければならない」というものは、現代においては少なくなっている。だからこそ、「なんでその組織にいるの?」という問いは重要なのだと。

 自分の所属する団体にとってもそれは当てはまる。これは、自分自身がこれまで考えてきたことでもあった。だが、あの送り火をしている大文字保存会にいて、こう発言するには、強い覚悟があるのだと思う。

 3人目が、山代町森林組合の代表理事。
あとから、話題として出てくるので、話はここでいったんストップ。

**

 今日(29日)、法然院の善気山での森づくりという、
フィールドソサイエティーという会の活動があって、府の林務課の方(Tさんとします)の紹介で、去年の6月ごろに一度ここに参加して、それ以来毎月案内状をもらいながら参加できていなかったのですが、今日、久しぶりに行きました。

 作業の内容はおいおい紹介します。楽しかった、と書いておきます。

 Tさんは、これまで府内の森林ボランティア団体のネットワークづくりに向けてのワークショップや交流会などを企画していて、今回の「林業者のつどい」の第3分科会の担当でもありました。

 正直なところ、今回の分科会に対しては不満だらけだったので、今日はちょっと言っとこうと、生意気な思いを持っていました。

 それで、さほど話す機会がなかったのですが、帰り際、自分の習癖ですが、長く「語り」だしたのでした。

 不満な点

1.「この分科会は、森林ボランティアを広めることが目的」といいながら、森林ボランティア団体の参加はごく一部。しかも、今回3人目に紹介された、森林ボランティア団体サンフォレスターは、森林組合から独立して長にも拘らず、肝心のサンフォレスターからの参加がないこと。
 杉良にしても、自分たちが紹介されるということを一切知らされていなかったこと。

2.話し合いの流れ全体で、ボランティア団体を「所有」しているかのような発言がめだったこと。ボランティア団体の運営関係者の努力に対する理解が見えないこと。

3.質問するにしても、何を聞きたいのかが明確でないなど、会議のやり方が非常に非生産的であること。商工会議所などのプロに相談すれば、もっと効果的なものにできたはず。

をまあ、生意気に言ったのでした。

 小一時間、ずっと話してました。

 断っておきますが、決してけんかしてたわけじゃないですよ。
私だって、林務課の立場は理解しているつもりです。今日話して、いっそう事情がわかりましたし。

 一言で言うと、まだ始まったばかりなんだということでした。
こうして、林業者の間でボランティアの価値を認めるようになったのも進歩だと。

 そして、これからなんだということ。

 私としては、コーディネーターはもっとおっきな理想を持ってもらわないと困ると(これまた生意気に)何度も言ったのでした。

 でも、間違いなく私が思っているより、「田舎の論理」は堅固なんだろうなと改めて理解しました。

 それから、3.に関しては、「そういった街のやり方はなじまない・・」と始まったので、
これまた(生意気にも)そうじゃないんだ、と反論しましたが、これも書くと長くなるので後ほどに改めて書きます。

 でもとにかく、いろんなことを話せました。

 別れるとき、T氏は手を出してきて、それで握手をしました。

 熱い男ですね。

 この他に少なくとも5人の熱い公務員をよく知っています。

 公務員だっていろいろですね。

 まあ、何だってそうなんでしょうが。
「近頃の若者」という個人はいないように・・



 
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# by taiji_nakao | 2005-01-29 22:22 | 山と木材のお話
2005年 01月 28日
コピーの重要性
 これからの時代、コピーライターの重要性が増す。間違いナイ。

 現代は変化が激しく、新しい概念が次々に現れてくる。そして、情報の山。伝えたいことを伝えるためには、いかにわかりやすくするかが重要なのはいうまでもない。

 昨日のブログで「木づかい円卓会議」について触れたが、この会議は、木づかい円卓会議の提言5つのポイント~もっとやってみよう~を発表している。
 例えば、
1 国産材製品を使うと、日本の森は元気になる。もっと使ってみよう。~まずはカートンとプランターカバーから~

 この提言ができた経緯として、まず林野庁の担当者が文を作ってきたのだけれども、委員会メンバーは「難しすぎる。こんなんでは一般の人は理解できない」と一蹴。

 それで、これになったそうである。

 しかし、僕に言わせれば、これも甘い。これは、コピーを作る経過の一段階である。こうしたコンセプトをいかにわかりやすく、すっと理解できる表現にするかが大切である。

 広告コピー概論には、こんな例がある。

「自然の味を100%生かしたことをコンセプトにしたトマトジュース」
→水は一滴も加えていません

「他製品に比べてサイズの大きいことをコンセプトにした冷蔵庫」
→ちょっと大きめ

「現代人には自動車保険は不可欠であるをコンセプトにした自動車保険協会」
→せめてもの償いが保険です

 どうですか?うまいもんでしょ。
って、僕が作ったわけじゃないんだけど。

 コピーの力を少し理解できましたか?

 キャッチコピーというと、浅はかというイメージがあると思いますが、決してそんなことはありません。本物のコピーは、「何を伝えたいのか」というコンセプトを深く理解したうえでなければ作れないのです。

 この点、新しい言葉を作ることと同じです。

 例えば、英単語を調べると、意味が1、2,3,・・とあって、これらを読むうちにその単語の持つイメージが少しずつ明らかになってくるわけですが、コピーを作るというのはその逆なわけです。

 伝えたい意味が、1,2,3、・・とある。そして、これらをうまく伝えるためにはどんな表現をしたらいいのかと考えるわけです。

 日本語というのは、二千年以上続いているわけで、やっぱりぴったりする言葉というのが、大抵はある。

 ただ、そのぴったりする言葉を真剣に探すことを現代人はあんまりしないですね。

 巷にあふれるコピーもそう。大抵が、自己満足。言いたいことをあらかじめ知っているときは、「違うだろう!」って突っ込みたくなります。

 今の世の中どうでもいいことであふれていますが、大切なこともたくさんあります。
それを伝えなくちゃいけない。そのときには、やっぱり、コピーの力が必要なのです。
 
 



 
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# by taiji_nakao | 2005-01-28 22:04 | 就活
2005年 01月 27日
林業者のつどい(Ⅰ)
 今日は「京都府林業者のつどい」に森林ボランティア山仕事サークル杉良太郎(すぎよしたろう)として参加。

 京都府内の林業関係者の相当数が参加していていた。京都・森と住まいは百年の会でお会いしている人たちがやっぱりすごい人たちなんだと改めて認識。(この会についてはいずれ触れます)

 午前中はグリーンコンシューマー東京ネット理事の秋庭悦子さんの講演。
グリーンコンシュマー運動の高まり→ 森林・木材製品への関心の高まり → でも林業界はそれに全く対応できていない → みなさんもっと積極的に発信を。マーケティングを。
という話で、さすがにこの人たくさんの肩書きを持つだけあって、とてもわかりやすい。

 そして、二言目には「補助金くれ」の林業界への対応としてお手本だと思いました。

 昨年、木材学会は、「日本の森を育てる木づかい円卓会議」を主催しました。この委員会のメンバーには多分野からの参加があり、例えば学識経験者では、経済学部の教授や、経済界からはトヨタ自動車専務取締役なども参加しています。

 秋庭さんもこのメンバーの一人です。ここで話されたことは、企業としてもSR(社会的責任)を求められている中で、温暖化への関心の高まりもあいまって、日本の森林への関心は非常の大きいこと。
 しかし、戦後の一時の材価の高騰期に形成された、林業界の各部門の相互不信と、コミュニケーションの停止(つまり、山の人はとにかく山の立木を売るだけ。素材業者は、伐って市場に出すだけ。市場は売るだけ。製材所は「昔ながらのやり方を続けるだけ」と、どのファクターも消費者のことを考えていない)により、まったくマーケティングも行われておらず、また、コスト削減の取り組みもほとんどなく、20年前とほとんど同じやり方を続けている今の状態では、とてもじゃないけど、市場にはでてこれない。という話です。

 林業は厳しい。これは間違いない。なぜなら、例えば、州が山を持っているカナダでは、立ち木価格は0と設定されている。こうした木が、巨大な船に乗って日本に運ばれ、市場を圧巻する。当然ながら、まじめに木を育てていれば、立ち木価格が0ではやっていけない。

 という状況で、いまや林業は、「産業でない」といわれている。

 しかし、それでも「日本の森を育てる」ためにはどうするのか?
最終的には消費者に一定額を負担してもらうことになるだろう。しかし、だからといって、マーケティングもしない、コスト削減もしない、そのくせ、「補助金をくれ。」これじゃ、どうにもならんでしょ。

 というのが秋庭さんを取り巻く状況で、当然ながら秋庭さんもよくわかっているはず。
しかし、あくまで「私は林業の専門でないので、よくわかりません。でも、消費者は求めているのです。(マーケティングを。市場に国産の木が出回ることを)」というスタンスを取るわけです。

 「マーケティング」・「コスト削減」
こうしたフレーズを言えば、決まって林業関係者は
「あなたは現状を理解していない。現場は厳しいのだ」
と言う。実際、今日の講演の後の質問でもまさにこの言葉がでてきた。

 「私はわかりません。なにしろ、最近まで、木を使うことが環境にとっていいことだとは思っていませんでした。私の周りには、今でもそう考えている人がいます。でも、使うことが必要ならば、私たちは、より地球に優しい消費活動を進めるために、もっと国産材を買っていきたいし、そのためには、生産側の整備を進めて欲しいのです。ただ、今まで全くコミュニケーションがなかった消費者側と生産者側が、このようにして話し合う機会を持てたことをうれしく思っています」

 がちがちに固まっている林業界に「市場の風」を内側から通そうとするなら、こうした姿勢をとらなければならないのだろう。

 そういう意味でお手本。

 でも、やんなっちゃうね。
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# by taiji_nakao | 2005-01-27 22:36 | 山と木材のお話
2005年 01月 26日
ぐるぐる
 前からずっとホームページを作ろうと思っていたが、書きたいことがたくさんあり、そのくせなかなかスタートできないので、まずブログから始めることに。

**

 「ぐるぐる」という店は、東大路を百万遍より北へ行き、東鞍馬口をちょっと西へ行ったところにある。ちょっと変わった感じの店。一度だけ行ったことがある。自分ではまあまあ好きな方。インド音楽の演奏会なんかもやってるらしい。帰るときに針金で作った、「ぐるぐる」をくれた。

 ではなくて、道に迷ってしまったという話。

 最近、毎日夜はバイトか何かしらのミーティグで過ごすという暮らしをしていて、今日は、農学部に張ってあったビラを見て前から気になっていた、「マクロ生物学ゼミ」に参加しようと理学部へ。
 いったいどんなやつらがやってるのか、期待と不安を抱えながらビラにある「理学部2号館5F 西側 生物学生控え室」へと向かう。こんな夜に、ほとんどいったことのない理学部。しかも5Fなんてもう、研究室の集まりしかない。

 しかし、、「生物学生控え室」がない・・
ここで、5Fを「ぐるぐる」回るのだが、それはともかく、担当の代表に電話。出ない・・
おいおい。

 仕方なく、帰る。流れたのか。それともどこかでやってるのか。ビラで案内するなら、もうちょっと配慮が欲しいな。しかし、この代表、個性的だ。留守電は自分の声。思わず、「今日のゼミに参・・」と話しかけてしまった。
 もし、「ゼミが始まったので電話などには出たくない」という主義なら好きだが、そうでもないなら、ちょっと、ね。

 それで家に帰ってくるが、なんかしゃくだ。せっかく緊張して行ったのがばかみたいだ。

 そういえば、「VIVA LA MUSICA!」という、白川通り沿いの店で無料のコンサートがあったことを思い出す。行くか迷うがいってしまう。
 「ピアノとバイオリンのデュオ」ということ。(実際には、ピアノじゃなくてキーボードだったが)
 ビールをいっぱい頼み、雑誌に目を通す。ここにおいてある雑誌はなかなかいい。

 さて、音楽の方もやっぱり生演奏はいい。しかし、ちょっと疲れているのか、ビールいっぱいでうとうとしてしまう。

 いい感じの気分になってきて、心ばかりの(ちょっぴりの)おひねり(って実際は箱に入れる)を出して、帰る。

 それで、高原通りを下っていく。prinz、かっこいい。でも高そうだ。なんて考えながら。
他にもなんだかんだ考えながら。

 叡電の踏み切り。左右から来て、ストップ。右から来たやつは駅で止まる。みんな降りたのに発進しない。くそ・・
 待ちきれず、右へ進む。

 そして、進む。しかし、周りの様子がいつもと違う。あそこが、東大路のはずだから・・
などと考えながら進むのだが。

 気づいたとき、高原通りを下っている・・・・ prinzはやっぱり素敵だ・・・
って、おい。

 京都でこんなに見事に、気づいたらぐるぐる回っていたというのは初めてで、
ちょっとショック。



 
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# by taiji_nakao | 2005-01-26 22:28 | にっき