2011年 10月 02日
物語を生きる(1)
人は物語を生きている

スティーブ・ジョブズの有名なスタンフォード大学での卒業式でのスピーチの中で、3つの話をしたがそのひとつに「connecting the dots」というテーマがある。入学してすぐ大学を中退したジョブズは、気ままに興味の湧く講義に潜っていたが、そのひとつにカリグラフィーの講義があった。そのときは思いもよらなかったが、その経験が後にパソコンを開発するとき、美しいフォントを生み出すことになった。だから、今はわからなくていいから、必ずつながると信じて、悔いなく生きろ。というような内容だったと思う。

これは「物語を生きる」ことのひとつの説明だと理解しています。

いろいろな経験がつながったと言えるのは、学んだことが自社製品のフォントに反映されるような直接的な、客観的な事実もある。しかし、個々の経験をつなげて意味付けするのは、個々の主観によるところが大きい。つまり、振り返って個々の経験を結びつけて物語を構成している、と言えると思う.

私は、人はそうやって意味付けして生きていくものだと思う。それが後付けだったとしても。
生なんて無意味だ、なんて嘯いていても、その場合、「人生は無意味である」という意味付けをしている。

サイゼリヤの創業者について書かれた「サイゼリヤ革命」の中で、母親のエピソードで以下のようなものがある。
母は後妻として正垣家に嫁ぎ、先妻の子供たちと実子である泰彦を分け隔てなく育てた。
「それだけじゃないんだよ。親父がいろいろなところで子どもをつくるんだけど、みんな引き取って僕らと同じように育てるの。それが楽しいと言い切るんだ」(中略)
「夫がよそに女をつくるなんて、妻としたら一番悲しいことじゃない。でも、それは自分の力が足りないからで、夫にも相手にも申しわけないと本気で思うんだ。そんなのおかしいって僕らは思っていたけど、おふくろは災難とか失敗とか目の前に起こる困難は、すべて自分のためにあるんだよって(略)

事実をどう認識し、どういう意味付けをするかはその人次第ということだと思う。
人には逆境だとしか見えない状況でも前向きに生きている人は、現状の認識とそれにつながる未来について、ポジティブな物語を持っていることが多いように思います。
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# by taiji_nakao | 2011-10-02 09:19 | 物語を生きる
2011年 08月 28日
歴史の中の江戸時代
明治の前が江戸ならば、現在は東京時代じゃないのか
という記事を読んだ時、なるほど、と思ったわけです。

明治の前は「慶応」なんですね。
明治維新でがらっと変わった、なんて認識しているんですが、そうでもない。少し考えればそんなわけがないのです。おじいさんのおじいさんくらいは生きていたんですから。

そんなことを考えているときに、たまたま図書館で見つけた本(「歴史の中の江戸時代」速水融編)が面白かったです。

以下引用が多くありますが、切り取っているため筆者の意図とズレている可能性があること、また対談形式から切り取っているため、話者は一人ではないことをご注意ください。以下は、あくまで私なりの理解です。

まずは、明治維新のころに京都に行った人の話題から
西松家の本家にあたる別の家の日記なんかにちょうど同じころのが残っていて、明治維新だというのに京都見物に行くんですよ。

恐ろしいじゃないですか。

初めのころはどうも様子がおかしいとか言いながら、平気で名所を回っているんですね。そのうち鉄砲の音なんかするものだから帰るんですけれども。そんなものじゃないでしょうかね。

庶民にとっては、天変地異が起きていたわけじゃないってことですね。
明治維新の下地は、江戸時代から少しずつ準備されていた、という具体例をいくつか。
ほとんどの領主は、秀吉・家康の時代に所領の移動を経験していますよね。(中略)
「織豊系大名」と言われている人たちは、領地を完全にシャッフルされて、在地性を失っている。文字通り、兵農分離しているわけです。
まさしく官僚制ですよ。

すでに官僚制の原型があったと。
役人登用システムや近代的な軍隊に関しても。
今日に至る学校制度と結びついた役人登用システムも、その元になるものは、江戸時代の半ば頃に作られてきます。それと共に江戸時代に生じたのは、いわば武士の「兵士」化ですね。
以前であれば、武士は、馬なり甲冑なりを自分の俸禄で用意していた。それが、江戸時代の半ば頃になると、そうした軍事手段が公有化されてくる。会津藩などは、立派な武士のものでも甲冑はすべて城の倉に回収して管理すると言い出す。これは近代的軍隊と同じです。そうした武具は、武士が自分で用意して、家の床の間に飾っておくものなのに、「ほっておいたら、お前らはすぐに質にでも入れてしまうだろう。だから倉で管理する」・・

行政機能にしても
行政や政府の機能の担い手にしても、一定の連続性が認められます。江戸時代を通じて地域ごとの行政機能を身なっていたのは、武士ではなく、むしろ大庄屋と庄屋ですね。彼らの行政能力によって地域社会が成り立っている。ですから明治維新は、大きな革命のように語られますが、明治に出来上がった議会の姿を見ると、大庄屋や庄屋がそのまま県議会議員になっていて、実質的に顔触れがほとんど変わっていない。

こんなものも。実は起源は江戸時代
吉宗が物価政策をやるのに業界の組合、カルテルを作らせるわけですね。カルテルの価格は、下方硬直性を持つんですから、米の相対価格をあげようと言うのに、こんなバカな話はない。(中略)あれはやはり行政指導をやってたんだ、というふうに理解すると、わかるんですね。行政指導をするためには相手集団を作らせなければならない。

その結果、
日本の株仲間と、イギリスとフランスのギルドを、比較研究してみようと試みたことがあります。(中略)ヨーロッパのギルドを見ますと、彼らの特権が侵害されると、王様に願い出るわけじゃなくて、裁判所へ訴えるわけです。
(中略)日本の株仲間を見ますと、まず裁判所じゃなくて、殿様へ願い出るわけですね。
(中略)問題は道徳的、人道的なことをいろいろ理由にして、願い出るわけですね。

今の医薬品のネット販売の規制に関してのやり取りの原型は、吉宗の時代からあったと。

他にも、都市への憧れとか、田舎から都会へ出てまた戻ってくることとか、興味深い話題は尽きないのですがそれは本書を読んでください。

そして、筆者は江戸時代に「勤勉革命」が起きたと主張するのですが、これは非常に鋭く、面白い。
ゆっくり100年くらいかけて、小農を基礎的な経済単位とする、江戸時代らしい経済社会が成立していく。それを端的に示すのが、世帯規模の縮小で、単婚小家族の小農民が経済主体となっていく。(中略)少しでもよく働くことで、少しでも家族の世帯収入を増やす。村落の中でのある種の経済競争が起きて、農業生産以外に販売目的の経済活動も行うようになる。これが、速水先生のおっしゃる「勤勉革命」ですが、旧来の隷属的農民は減少し、有配偶率が上昇(一生涯結婚しない人の比率の低下)していく。

そして、
ただし、この「勤勉」さは、一定の社会経済的条件の下で生じたものだとも言え、決して永遠不変の日本人の「国民性」とは言えない。それは現在失われつつあるとさえ言い得る、ここ300-400年間の特徴なのである。

ということなんですね。
私はどちらかというと、第二次大戦後にたまたま日本の製造業が世界で成功を収めたという認識だったのですが、その原型は江戸時代にあったようなのです。
15、16世紀あたりにひとつの変化があって、江戸時代から現代まで日本人というのは1つのマンタリテでとらえることができるのではないかと私は考えているわけです。その基本は要するに向上心なんですよ。それはいろいろ物質的な生活水準を上げたい。あるいは知識水準を上げたい。そのために一生懸命働くとか、寺子屋へ行くとか、だれに命ぜられるわけでもないけれども努力をするというマンタリテができあがるんですね。
マンタリテ(心性)・・長期間にわたって変わらない集団的なものの考え方

面白いのは、その成立過程の説明です。
結局、17世紀の日本は、20世紀流にいえば貿易赤字の大国なんです。そういう貿易危機が生じてきて、日本はどうしても、従来輸入したいた物を国産化せざるを得ない局面になってきたわけです。

この時、生産能力を外部へ求める選択肢もあったようです。
ヨーロッパで海洋国家として発展した国、たとえばスペイン、ポルトガルなどは、どれも急速に伸びまして、ばったりと倒れるんですね。そして二度と甦らない。これが西洋における大陸国家と海洋国家の運命を大きく分けていると思うんです。

だから海洋というものは大変危険な誘惑で、もしもあのとき日本が海洋へ乗り出していれば、たぶん梅棹忠夫さんの言うように、インド海洋会戦ぐらいに持ち込めるほどの力を持っただろうと思うんですね。うっかりしたら、北米大陸の半分くらいまで日本は押さえたかもしれない。

・・しかし、それをやれば、まず日本の農業人口、それから日本の知的人口、つまり失業武士になる人たち、これが全部海外へ出て行った。そうすると、寺子屋の先生になる人間もいなかったし、仮名草子の作者になる人間もいなかった。まず知的に日本は衰微したでしょう。

三国志とか信長の野望といったシミュレーションゲームで例えると、江戸時代の日本というのは他国に攻めずに、優秀な武将を使って徹底的に内政をし続ける、というイメージなんだろうと思います。

そうやって、日本流の制度や教育文化が発達したと。
そして、その中で生産性を向上させる、20世紀の用語でいう「カイゼン」の精神が育まれてきたと。

しかし、歴史を知らないでいるなあ、と思いました。
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# by taiji_nakao | 2011-08-28 13:08 | お勧めの本
2011年 08月 06日
匿名と実名とネット
大きなテーマですが、いろいろと考えるところがあるのでまとめてみます。

■ネットは人間社会の一部

「ネットは便所の落書きであって、全く信頼できない」という考え方を持った人はまだいるようです。「便書の落書き」とまではいわなくても、「ネットは信頼できない」と考えている人は多いはずです。

確かに、ネット上には価値の無い「便所の落書き」のようなコメントにあふれています。特に、自分に対する単なる誹謗中傷のコメントを目の当たりにした人は、「ネットなんて信頼できない」と思うかもしれません。

しかし、私は、このような「便所の落書き」がたくさんあることは、自然なことだと思っています。相田みつをじゃないけれど、「人間だから」です。

例えば、世界中の「ノートに書かれたもの」を集めたら、どうなるでしょうか。
そのうちのかなり部分が、「落書き」で占められているのではないかと思います。だからといって、「ノートに書かれたものは価値がない」と主張するのは無理があるというものでしょう。

「信頼性の低い情報があふれているが、信頼できる情報もある。ネットにしかない情報も多い。」というのが実際のところだと思います。実名とか匿名とかを議論する前の前提として、「ネットは人間社会の一部」ということの確認です。

■実名と匿名

実名と匿名というのは、文字通り考えれば「本名とそれ以外」ということなのですが、本質は2つの観点があると思います。

一つ目は、「追跡可能性」です。全く匿名であれば、基本的には書き手が過去にどんなことをコメントして来たかわかりません。追跡できないわけです。常に本名を名乗れば、同姓同名をのぞけば発言をすべて追跡できます。もちろん、プロフィールだとかもわかるわけです。

二つ目は、「他者との利害関係の開示」です。本名を名乗った時点で、かなりの利害関係を開示することになります。会社名を明記すれば、会社名を知らせていない人もより多くの利害関係を知ることになります。このことで発言に責任がでてきます。だからこそ、発言が重みを持って受け取られます。一方で、会社にとって不利なことは書きにくくなります。

2軸なので、厳密にはマトリックスになるのですが、だいたい「公開レベル」というのは以下のようなになっていそうです。

1 アクセスログ(IPアドレスなど)

2  その場ごとのハンドルネーム

3  サービスごとのハンドルネーム

4  統一したハンドルネーム

5  氏名

6  所属組織名の公開
 (複数の場合、その一つ〜すべて)

■日本で実名は定着するか論

Facebookが日本でも勢いが出てきました。Facebookの勉強会に行ったりすると、その機能の多様さに圧倒されます。使用人口の多さからくるメリットと合わせて、今後も伸びることは間違いないと思われます。

そこで、「日本で実名は定着するか?」というテーマが話題になります。日本以外のことをあまり知らないので間違っているかもしれませんが、「日本で実名が定着するか?」という問いは少しズレている気がしています。

私は、インターネットの可能性を信じていて、ネットを通じて新しい、人的ネットワークが生まれ、面白いことがもっと起きてくるはずと期待しています。まだまだインターネットは実社会との結びつきが弱く、模索段階だと思っています。実社会とインターネットの結びつきを深めていく過程では、実名同士がつながっていく、ということがひとつのテーマになるはずです。

しかし、実名を開示することには負の側面もあります。そして、実際のところ、実名は必要ないというシーンが多いように思います。必要がないのにリスクを負うのは馬鹿げているし、不自然です。そのあたりの感覚が、「日本で実名が定着するか論」に不足している気がします。


■実名は、実社会での人と人、人とコミュニティーのネットワーク化を加速化させる。

1年以上たちますが、サークルの後輩が中心になって林業女子会なるものを立ち上げました。
林業女子会
ツイッター上で、「林業コミュニティ」が形成されていて、そこで農業の「ノギャル」の林業版みたいなのがあったらいいね、というつぶやきからじゃあやろうよ、という流れになって、とりあえずまずは集まって、という風にとんとん拍子で進んでいったそうです。

林業というカテゴリだけでも十分数が少ないです。その中で女性というさらに少なくなります。そんな人たちが短期間につながり、広告をとってフリーペッパーを出したり、イベントをしたりして、他地域にも広がったりしています。そういう様子を見ていると、新しいネットワークの可能性を感じずに入られません。

そして、ツイッターでやり取りしている人がみんな匿名だったら、このように進んでいないように思います。

■ヨハネスブルグのメリーゴーランド

少し前に、ブログ「レジデント初期研修用資料」の「砂場としての2ちゃんねる」の表現にはっとさせられました。
以下はそのときの紹介ツイートです。

匿名掲示板に比べれば優しげな、実名ベースのソーシャルサービスは、一見すると優しいけれど、転ぶと大怪我をすることになる。()ヨハネスブルグのメリーゴーランドと、豊島園のホラーハウスと、どちらが「子供向け」でどちらが「恐ろしい」のかhttp://feedly.com/k/ogaLDE

やや誇張気味な気もしますが、Facebookが「ヨハネスブルグのメリーゴーランド」というのはかなり的を得ているんじゃないかと思います。

一言で言うと、「全員に全部見せるのが幸せなわけは無い」ということだと思います。

■実生活でも匿名はよくあることだ

私は、一人で飲み屋に行って他のお客さんやお店の人と話すことが好きです。
名前を名乗るかどうかはケースバイケースですが、いきなり名前から入るのはあまりありません。それはそうでしょう。その場の話題に参加するか、聞くとしても「よく来られるんですか?」とかでしょう。

いきなり、氏名、さらには会社名、勢いで出身大学を名乗られたら正直引きますし、そんな人ばっかりだったらもうそのお店にはいかないと思います。

もちろん、交流会という場なら話は別です。そもそも名刺交換しますから。

その他にも、IT系の勉強会なら、ウェブ系なら特にハンドルネームでの自己紹介になります(本名も一緒に言うことが多いですが)。聞いた話では、PTAなら子供コミュニティなら、まずは××くんのお父さん|お母さんとされるし、犬の散歩コミュニティなら○○ちゃんの飼い主と認識されます。

だから、「ネットの情報は全く信頼できない」という誤解と同じように「匿名性はネット特有のもの」というのも誤解だと思います。そして、同じ人間社会の一部である以上、それが自然だと思うのです。

まだ論点の積み残しはありますが、今回はここまでで。
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# by taiji_nakao | 2011-08-06 12:40 | 考え事
2011年 06月 19日
原発について考えたことのまとめ
今、日本に住んでいたら原発のことを考えずにいられないのは宿命かもしれません。
私なりの、今考えていることのまとめです。
ご意見、歓迎です。

1 日本で安全に原子力を管理するのは無理と考えるよりないでしょう

今回の事故で日本の原発の運営者である電力会社のずさんさが随所で露見し、安全を検査すべき立場である国の機関は全く機能せず、さらに、それらの現状を世間に知らせる立場にあるマスコミも偏った報道をしている。どれもが、住民の安全を守ることを優先していないし、優先しようとする動機を持ちにくい構図にある、ということがはっきりしてしまった。

その構図をこれからは一新します、というなら、例えば震災直後にメルトダウンが起きているのではと言っている人たちをキワモノ扱いしたメディアは、しっかりをお詫びをするべきだが、それが事実だと発表されてなんら反省している様子はない。

例をあげるのもきりがないけれど、日経新聞には放射線のデータが毎日載っているが、今週になって地上1mでの測定値が載るようになった。今までは、2m〜80mだけだった。80mって、鳥のことを心配しているのだろうか。しかも、未だ値の高い福島市では1mで測定されていない。

客観的にいって、この状況で信頼しろというのに無理がある。

経産省が安全性を確認した、と発表しているけれど、信頼できない機関が安全を宣言したって何にもなりません。


2 脱原発と自然エネルギーは別の話では

2008年のデータですが、火力66.1%、原子力24.0%、水力7.1%、その他2.8%
ということです。
現時点で火力発電が最も、発電能力があるのでしょう。
 今年原発を止めたら代替エネルギーとして最も有効なのは火力発電のはずです。でも、不自然なくらいそのことが話題にならない。

東電が計画停電をせざるを得なくなったときも、地震の影響で火力発電でも動かせないところがあったようで、それも停電の大きな要因だったはずです。でも、全くと言っていいほどそのことに触れない。

そして、逆に2.8%しかない自然エネルギーで今年とか来年とかのエネルギーをまかなえるとは思えません。やろうとしたら、相当無理をしなければならないでしょう。

少なくとも数年の単位では火力に頼らざるをないでしょう。
その後、別のエネルギー源を開発し、代替していくことになるのでしょう。

でも大事なのは、ドイツやイタリアのように方針を先に決め、短期的、中長期的な方針を決めていくことです。

なんだか今の議論の多くは、
「自然エネルギーと原発」の二元論になっていて、時間スケールが考慮されていなくて、特に短期的な火力発電についての言及がないものが多いのがとても不自然です。


3 世界にとって原発が最も有力な発電方法であったとしても反対する

例えば、原発は数ある発電方法の中で最も死者の数が少ない、という主張があります。
私は最近までこの事実を知りませんでした。考えさせられる視点です。
また、ドイツとイタリアで脱原発が国民投票で決まったが、原子力の割合が大きいフランスから輸入している、ということをどう考えるのか、ということにも同じようなジレンマがあります。
 
ただ、そうした批判の一つの、皮肉で書いた記事
「全国の原発を即時停止せよ」
http://agora-web.jp/archives/1333634.html
を読んで、気づいたことがあります。

それは、人は、まず自分の暮らしのことを考える。次に、自分の大切な人たちの暮らしを考える。それが第一である、ということです。
その範囲をどんどん広げていこうということが、人類の大きなチャレンジなわけですが。

自分の外部のことはどうでもいい、などとは言ってはいけないと思います。しかし、自分や自分の大切な人の暮らしが脅かされている中で、その状況を生み出す元凶を無くして欲しいと主張する権利は誰しも持っていて、そしてそれは人間の根本的な権利ではないでしょうか。

上記のブログの、「いのち」というものは、無機質な数字に成り代わってしまっている気がします。

また、この種のロジックを展開する人は日本経済への影響を懸念しています。
その点は私にもわかります。

しかし、前述のロジックを適用すれば、経済が停滞すればもっと失業者が出て自殺者が増えるというけれど、経済活動は基本は競争ですから日本が強くなれば相対的に負ける国があるわけでしょう。その国の失業者が出るのはかまわないのですか。「日本経済が繁栄することが世界経済にとって有益か」というような反論も可能になるはずです。

日本の経済を憂う人がそんなことを言われたら、「そんなこと言ってる場合か」と考えるのではないでしょうか。

繰り返しますが、自分たちだけ良ければという姿勢が正しいわけではないです。
でも、生きていく上ではまず自分たちのことを考えなきゃならない。その上で、全体解を探っていくというのが手順でしょう。

 
4 原子力にイノベーションが起きても建設を検討すること自体に反対する

 仮に例えばビルゲイツが投資しているという新しい技術の開発がうまく言ったとして安全性のきわめて高い原子力発電所を建てることが可能になったとします。
 それでも、私は導入を検討すること自体に反対します。
 
 今回のような事故が起きる前からも原発の反対運動は一定の力を持って起きていましたが、今後はもっと勢いを増すに違いありません。その状況下で建設を強行するというのはどういうことになるのでしょうか。

 原発を建てると見舞金のようなものが毎年電力会社から億の単位で払われるそうです。
ですから、推進派の多くは経済的なメリットを受ける人、という構造になるでしょう。
もちろん、例外もあるでしょうが、「反対意見を持つ大勢の集団をお金を使って静かにする」という構図になるのは間違いないでしょう。そして、それが今まで以上に過激にならざるを得ない。

 しかし、そんなことになれば、その地域はぼろぼろになってしまうでしょう。目的がどうであれ、「紛糾するとわかっている提案を投げかけて、住民の支持の小さい勢力を支援する」というのは、スパイの破壊工作そのものだと思います。しかも、その資金は電気代であり税金であったりするのです。そんなことはやめてもらいたい。

6.19)一部改変
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# by taiji_nakao | 2011-06-19 08:38 | 考え事
2011年 04月 16日
4/23(土)「クラシックが変わった?! 古典音楽に触れる10の常識」
イベント案内です。

私の関わっているOBIIのイベントです。
今回のテーマは「クラシック」。
担当をしているのですが、講師として呼ぶ川畑くんは音大の学生さんなのですが、とても熱く、面白い人です。この分野もとても変化しているようです。

とても、イチオシのイベントです。

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4/23(土) 京都:第16回OBIIミーティングin京都「クラシックが変わった?! 古典音楽に触れる10の常識」

大手町ビジネスイノベーションインスティテュート(OBII)は、4月23日(土)午後5時より、第16回OBIIミーティングin京都「クラシックが変わった?! 古典音楽に触れる10の常識」を開催します。

近年、古典演奏の分野でも歴史研究では毎日のように新しい史実が解明されています。今までクラシック演奏において当たり前とされていることも覆されているのです。

ヨーロッパではこのような歴史研究の成果が取り込まれ、クラシック音楽が日々進化しています。しかし残念なことに、日本ではこうした研究があまり知られていません。

今回のOBIIミーティングでは、新しい演奏方法を広める活動をしている、クラシカルオーケストラ京都代表の川畑氏を講師に招き、その背景をお聞きし、このようなクラシック演奏の変化をいかに日本で広めていくか、そのinnovativeな方策を参加者で考えます。

※当日は音源を準備していただき、変化した音を聴き比べる機会もあります。

参加費:500円(会場費など・学割あり)

名刺を1枚お持ちください。学生の方は学生証のコピーなどお名前が分かるものであればかまいません)

会場:「町家スタジオ」京都リサーチパーク

住所:〒602-8233 京都市上京区葭屋町通中立売上る福大明神町128

懇親会:ミーティング終了後、懇親会を予定しております。

申し込みの際に、懇親会参加の可否をお知らせください。

※懇親会参加費は1000円~2000円程度を予定。
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# by taiji_nakao | 2011-04-16 00:40 | イベント告知
2011年 03月 05日
「無縁社会」とコミュニティ(3)
■最小不幸社会
菅さんのいう、「最小不幸社会」は評判が悪い。
今の日本に求められているのは、その理想が云々より、その理想から演繹して短中期的にどのような施策を実行していくのか、ということであり、その答えが皆無のようにみえるからなのだけれど、しかし、「最小不幸社会」という考え方は国の基本姿勢として真っ当だと思う。

国は、国民から広く税金を集めて、いい国になるべく、様々な方針を打ち出す。
権力を持っているから、規制したり、強制したりすることができる。

1億人、という単位で考えても、誰もが考える不幸というのは、おおむね一致する。
誰も飢えに苦しみたくないし、暖かい布団で寝たい。それでも、そうでない人も一部にいるが。
しかし、誰もが感じる幸福、というのはかなり難しい。

だから、「不幸を取り除くことを強制する」ことに税金を使うのは大いに結構だが、
「幸福を強制する」ことはその行為自体が、一定の人にとって恐ろしいし、税金を使うことの正当性も疑わしい。
歴史的に観ても、「幸福を強制する」ことは悲劇を生んで来たようだ。
ナチスドイツがその極致だろう。

■「無縁社会」の不幸
それでは、「無縁社会」にとっての不幸とはなんだろうか。
流動性が高くなって地縁に縛られなくなって来たこと、科学技術が発展し、産業が発達したことで生活が便利になって、暮らしの中で人々が協力し合う必然性が薄れて来たこと。この2つが「無縁社会」の原因だとすれば、別にそれで、いいじゃないか、と言えるのではないか。

私は、この2つの変化の恩恵を受けているので、これらの傾向は悪くない、というより感謝しています。

しかし、それまでは何もなくても維持されていた(維持するほかなかったのだが)「縁」がなくなった「無縁社会」における、不幸はないのかというとそうではない。

最大の不幸は、承認欲求を満たしづらくなったということだと思う。

自分自身を承認することができないと、人間は不幸らしい。
これは真理のようです。

そして、自己を承認する為には、ほとんどの人は他者からの承認が必要なようです。

昔は田舎のムラ社会、高度成長期を通じて会社がムラ社会だったと、よく言われます。
その「ムラ社会」の流儀を守ることで、それなりに承認を得ることができたんだと思います。

いわゆる、一般的な「サラリーマン」をしたことがないですし、想像でしかないのですが、
流動性が高まり、競争も激しくなった結果、現在の職場では承認欲求を満たしづらくなったようです。
正社員であればまだ正社員同士、所属意識もあり、いいのかもしれませんが、派遣、契約社員、パートでしか働けない場合、人間関係が希薄になるのは想像されます。

■コミュニティの役割の一つ
市民活動を運営している人から聞いた話ですが、主婦の方で熱心に活動していく人の多くはやがて家庭へ戻っていくそうです。
(この辺りには、学生の時は活発に活動するが就職すると忘れたかのように何もしなくなる、ということに通じる点もありますが、これは別の論点)

私も学生のときに、サークルで環境啓発の勉強会などをやっていたとき、メンバーの一人に主婦の方がいたのでイメージができます。

熱心に、いわばちょっと「青い」と言われるほどの理想を主張して周囲に呼びかけて、自分の(しかしそれは家族にとって必要でもある)時間をたくさん投入して、活動していく。ある程度そうやっていくと、自分がまずすべきことはここじゃなくて、家庭だということに気づくというのです。
これは、いくつかの別々の団体の方から聞いた話です。

いわば、市民活動がカウンセリングのような役割を果たしたわけですが、そこでの重要な点は「承認」ではないかと思います。
ちょっと青臭くて、あんまり空気読めてないような発言もするし、テーマへの理解も怪しかったとしても、その問題に対する考えは純粋で、イベントだとか、運営会議に参加してくれたら、みんな喜んでくれるわけです。

そうやって他者から承認される機会があって初めて、自分に対する、「この時間までここにいていいいの?」という目線の意味を自分の問題として認識できる余裕が生まれるのだろうと思います。
(別に女性だから家庭、ということを主張するつもりはありません)

このようにコミュニティは、承認要求を満たす、という重要な機能があると思っています。
心に余裕のある人は、そういう場所をすでに確保しています。それがない人、を受け入れることができるのはそういう人です。
様々な人が集まれば、心に余裕のある人も中には出てきます。
外国のことはよくわかりませんが、日本には、心に余裕のある方が、近年減って来ているらしいとはいえ、たくさんいると思っています。

それは、元気なおばあちゃんかもしれないし、バリバリ働いているベンチャー社長かもしれないし、きちんと家事をこなしている主婦かもしれないし、長くサラリーマンをつとめたおじさんや、仕事は仕事でこなしてアフターファイブを楽しむパートのお姉さんかもしれない。
そういう人たちは、それぞれの表現で、悩める人を承認し、本人にとって大切なことに気づくきっかけを与えてくれる可能性があるでしょう。悩める人は、いくつかの場所を回ってそれが得られる場所にいけるようであればよい。

ちょっと抽象的ですが、「無縁社会」が生み出した「承認欲求を満たすことができない」という不幸を解消する、ということが、結果的にであれ、コミュニティの果たすべき重要な機能だと思います。
(づづく)
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# by taiji_nakao | 2011-03-05 01:26 | コミュニティ
2011年 02月 20日
「無縁社会」とコミュニティ(2)
■便利になったから助け合わなくても生きていける ーお金さえあれば

言うまでもなく、昔と比べて現在はものすごく便利になっています。
私なんかは「熾っている炭の色がすき」なんて言ったりするんですが、便利になってその恩恵を享受していることを棚上げして議論するのはいただけません。
(この便利の中には、望まない便利さもあるわけですが、それは今回の主題ではないので。)

昔、といっても地域差はあるにしても数十年前の話、生活する為に、まず食べるものからつくるわけで、その農作業も、化学肥料なんてものはないから、落ち葉かきであるとか、草刈りから始めてそうやって堆肥をつくるところから始まって畑仕事はもちろんすべて手作業で。
水は井戸まで汲みに行く、炊事は薪拾いから準備して、毎日火をおこして。洗濯は水洗い。洗い場は家の中になかったでしょう。
自分の家事だけでなくて、地域の道とか神社の草刈り、掃除も全部手作業でやらなきゃならない。

それが今は、食べ物はコンビニに行けば売っている。水は水道、洗濯は洗濯機すら使わず、コインランドリーとか、ドラム式洗濯機とかもある。地域の作業が何かあるわけでもない。

だから、助け合わなくても生きていけてしまうわけです。
必然性のないことは、人はしないもので、だから人とのつながりが薄くなっていきます。
これだと、仕事上での付き合いの他は、何人かの仲の良い友人くらい、ということになりがちです。

こうして、便利になることで、助け合う中での人とのつながりがなくなっていきます。

このことは、流動性が高まることによって地縁がなくなったことと現象的には同時進行なんでしょうけれど、理屈で言えば切り分けられます。

極端な例として、現代においても水を得る為に必ず個々人が井戸に行かなければならないとしたら、その井戸の運営と利用の過程において人との関係が必然的に生まれるはずです。
この例が好ましいかどうかはおいておき、この視点は重要です。

■お金の問題
ここ10年ほどの日本において問題が顕在化してきているのは、-お金があれば、という前提が成り立たなくなりつつあることです。助け合うシステムが消えてしまった後で、お金がない為に便利さを享受できないとなると、困ったことになります。

まだまだ日本は豊かですが、人口が減少することは確定している以上、経済の縮小を避けることは非常に困難な上に、現在の政治/経済を巡る状況をみれば、
「お金があるので、助け合わなくても生きていける」
といえる人がどんどん減っていくのはかなり確率の高い話だと思います。
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# by taiji_nakao | 2011-02-20 00:49 | コミュニティ
2011年 02月 18日
「無縁社会」とコミュニティ(1)
NHKで「無縁社会」の特集をやっているらしい。
テレビがないので、実際のところはわからないが、twitter上での評判は今一のようだ。

そこで話されていることと、ずれているかもしれないが、おそらくその根底にあると思われるテーマについて。

■人の流動性が高まった
ほとんどの人が田舎に住んでいたとき、それこそ、先祖代々その土地に住むということが当たり前だった。
親族の多く身近に住んでいるし、自分の子供も孫もその土地で生きる可能性が高い、という世界だった。
ところが、現代の都会人はどうか。私は、就職一年目は極端に引っ越しが多く5回も引っ越して、その後少し落ち着いていたけれど、2年半ほどでまた引っ越して今に至っている。

流動性が低い状況ならば、近所の人を大切にする動機が格段に高まる。
なぜなら、そこで評価が低くなれば、親族はもとより、自分の子供、下手をすれば孫にまで悪影響が出てしまうから。
それに対して、数ヶ月後は隣にいるかもわからず、おそらくその後は一生で会うこともないであろうアパートの隣人からの評価は、それほど高めようとは思わない。

人間はそれほど損得だけで生きているわけではないけれど、とはいってもこの差は大きい。
何も現代人という人間が親切心を失ったわけではなくて、そうなる状況にあるということだと思う.

思考実験をしてみる。
私は、栃木県の県立の男子校に通っていたのだが、高校が嫌いで早く卒業して大学へ行きたいとずっと思っていた。
もちろん、仲の良い友人はいたし、尊敬する先生もいたから、すべてが嫌いではなかったのだけれど、一番嫌だったのは、私の席の前にたむろすグループの会話だった。
内容の半分以上は、誰かの悪口だった。しかもたちの悪いことに、何人かで話した後、そのうちの一人が去ると、去った人の悪口を言い始めるのだ。
聞いているだけで嫌で、もう、こんなところは早く出て行きたい、と思っていた。

ここで、その高校がもっと田舎にあり、例えば、そのグループのメンバーの兄弟と私の兄弟が婚約している関係にあったとする。
私は、その会話をいつもムッスリした顔で、聞き流していることができただろうか。
仮に、学校では避けられたとしても、卒業後も、PTA、消防団、地域のお祭りで、常に「親戚候補」と会わなければならないとき、
その仲間と「何気ない会話」をすることは避けられないだろう。
そんな会話を、最初は苦笑いで聞きつつ、そのうち、一緒になって悪口を言っているのではないか。

例が良くないかもしれないが、私は栃木の高校から都会へ出て来れて、生活することができて、本当に良かったと思っているのです。これは正直な気持ち。

もちろん、良いことだってあるのは言うまでもないです。今私が熱を出して苦しんだら、twitterにつぶやけば、メッセージは貰えるかもしれないが、基本的には苦しみながら、一人で回復を待たなければならない。
が、上の思考実験のような田舎なら、きっと誰かが心配して来てくれるだろう。そして、それはとっても嬉しいはず。

いずれにしても、流動性が高まった、というのが背景のひとつ。
長くなってしまったので、今日はここまで。
以降、次のようなテーマを書きたいと思っています。

■便利になった

■最小不幸社会

■自己承認欲求

■コミュニティの役割

■コミュニティの運営
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# by taiji_nakao | 2011-02-18 00:34 | コミュニティ
2011年 02月 15日
いじめの話
なんだか、疲れてしまって、それでブログを書く。で、テーマがこれなのだけれど。

こないだ、こんな記事を読んだ。

小さい頃、いじめられたのだが、大人になってそのいじめた当人が共通の知人を通じて会って
謝りにきたのだが、途中で許せなくなって、それで怒りが込み上げてきて、
その場はそれで終わって、それ以後、向こうからは会いたいと連絡が来るが許せなくて
会っていないという話。
そして、本人がその話を友人にしたら、相手も悪いけど、あなたも悪い、と言ったらしい。
許すって何ですか、というテーマ。
http://anond.hatelabo.jp/20110203223019

とても難しくて、どうしたらいいのか、わからない。
それで、気になってしまってあれこれ考えた。

まず、思うのは、かなりひどいイジメだったのだろう。
何年もたっているのに、当人が怒りだすほどに。
いじめた本人も、その年月を経ても謝らずにいられないほどに。

でも一番気になるのは、どうしたって、この本人の友人氏は「あなたも悪い」などと言えるのだろうか。

この状況下の最もシンプルで最上のシナリオは、いじめられた本人が心から相手を許せたときだ。
その笑顔を見たとき、いじめた本人は良心の呵責から解放される。
その仲介をした友人も気が楽になる。その話を聞いた友人氏もいい話を聞いたと思える。

でもだ、悲惨な苛めを受けたの当人だ。
本人が本当に辛くて、今でも許せないほどの経験をした。
苛めの悲惨さは客観的なものでなく、本人の認識の問題であり、
その、本当のところは本人しかわからぬ。

許す、ということは、成長、ないし心の余裕を必要とする。
苛めの経験が当人にとって堪え難いほど、それを許すには、心の成長を要求する。
大変なことを許せないということ、もっと大きくなれないでいることを、当人でもないのに、
あるいはその成長に責任を負っている立場にあるわけでもないのに、
「そこまで大人になれないあんたが悪い」なんてどうして言えるのだろう?

私は、こんな発言が出てくるのは、予定調和の、空気を読ませる、ご都合主義の教育のせいだと思う。

自分の人生経験が乏しいのに、教えなければならない立場におかれていることに無自覚な教師は、
平気で予定調和な結論を暗黙に、しかし、強力な権威を駆使して強要する。

「許せないあなたが悪い」??
ここでいう「悪い」とは、周囲、つまりその友人、仲介した友人、虐めた本人、その関係者にとって、解決してくれないから「悪い」のだ。
てんで、おかしな話だ。辛い思いをした本人に想像がいっていない。
「早く面倒を解決しておくれ!」と言っているのだ。

本人に想いを寄せてみて。
辛かったんだ。
辛かったからこそ、今になって、本当は許すべき事態がやってきてもそれを素直に受け入れられない。
その虐められたいた日々の最良の結末、虐めた当人が心から悪いと思って、本当に二度としなくなる、という結末がやってきても受け入れられないという本人に。

その当人が隣にいるのに、どうしたって、
「もっと大きな心を持てないあなたが悪い」
なんていえるんだ。

そんなの、虐められた本人にとっての師匠、
ルークにとってのヨーダのような存在でない限り、
そんなことをいう立場にあるもんか。

>>>>

想像でしかないが、ブログで読む限り、この逸話のキーは、
今になって謝ろうとしている虐めた本人(と仲介役)が、
虐めた本人が自分自身の良心の呵責から逃れたくて謝ろうとしている、という構図に無自覚なところにあるように思われる。

そのことに自覚的であれば、面会の内容も変わっていた可能性が高いし、
失敗した場合、執拗に面会を求めたりしないだろう。

でも、どうしたらいいんだろう?

わからない。

いえることは、
時間が解決するだろうっていうことと、
虐めた彼は、かなり悩んでいるようだから、時間が必要なことを考慮にいれ、
良心の矛先を別のところに向けてみたらいいかもしれないということぐらい。

必要なら、「当時の状況がそういう向きにさせてしまったのだ」
という「麻薬」に多少手を出してもいいと思う。
良心の呵責に苦しむことは必ずしも幸せな状況を作り出さないのだから。
ただし、あくまでも「麻薬」、中毒になったらおしまいです。

もっと建設的な方がもちろん、望ましい。
夜回り先生にはなれないだろうから、せめて苛めの解決をはかる機関に寄付をしてみるとか。
できるなら、ボランティアもしてみる。
自己満足でないかって?
許すことができない本人に会おうとするより、ずっと生産的な自己満足だと思う。
虐められた当人も、何やってんだか、と思うだろうけど、悪い思いはしまい。
大切なことは、他人を軸にしないことだ。
「なんとしても彼に許してもらう」のは、「許してくれない彼」を受け入れていない。
人を変えることなんて、できないんだから。

虐めた側の友人なら、こんなことを言うしかないな。

虐められた側の友人なら、

「えらそうに、ヨーダを気取って言うなら、
虐めた人を許せた時、それは人として大きく成長できたってことだろうよ。
いつか、そんな日も来ると思う。」

というようなことが、精一杯の言えることだと思う。
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# by taiji_nakao | 2011-02-15 00:43
2011年 01月 16日
システム思考
システム指向に関する著書「なぜあの人の解決策はいつもうまくいくのか?―小さな力で大きく動かす!システム思考の上手な使い」を読了。

2年ほど前に、共著の小田 理一郎氏のセミナーを受講したことがあって、先日たまたま図書館でみつけた。なんとなく、システム指向の勉強がしたいなと思っていて、それほど所蔵が多いわけではない(失礼!)江坂図書館で見つけたのはそういうタイミングだと思った。

システム指向の考え方はその通りと思います。

自分を責めない、他人や状況を責めない。問題があるなら、その問題やパターンを生み出している構造を見つけること。構造に働きかけて、構造を変えることができれば、人格や性格を変えなくても問題は解決する。

システム指向の考え方は、組織やあるいは人を取り巻く環境を「システム」と捉える。
システムは、様々な要因が影響を与え合って成立していることをまず理解する。
そして、システムは動的であり時間軸をもっている。
もし、自分がその状態を変えたいと思うとき、望むシステムに変化していくために、重要な要素に働きかける。最も効果的なポイント=レバレッジ・ポイントを見いだすことが重要。

でも、私たちは直接的でわかりやすい因果関係に解決策を求めがちである。
これではかえって状況を悪化させてしまうことが多い。

副作用について
「私たちはよく『副作用』というものを社会の現実のように受けとめます。しかし、現実は、『副作用』があるのではなく、『作用』があるだけです。私たちが行動を起こすと、さまざまな作用が生じます。予測される作用や役に立つ作用を、主たる作用、意図する作用と呼びます。予測していなかった作用や、自分たちのねらいを弱めたり、システムそのものに悪影響を与える作用を、『副作用』と読んでいるだけなのです。『副作用』とは、私たちのシステムに関する理解の限界や結果を表しているにすぎません。」

システムには、「システム原型」と様々なシステムによく現れるパターンがある。
その中の、「エスカレート」についての例はわかりやすかった。
居酒屋のしゃべり声はなぜ大きいーものごとはエスカレートする

どこかのグループの声が大きくなると、まわりのグループもつい(競っているわけではないですが)声が大きくなってきます。そうしないと、自分たちの会話ができなくなるからです。
かくして、居酒屋を出るころにはなぜだかみんなしてのどがかれてしまった・・こんな経験をしたことがあったなら、「エスカレート」の原型を身をもって経験したことがあるといえるましょう。

レバレッジ・ポイントを意識することの効用
一見遠くにあるかもしれないけど、解決に繋がる働きかけはないか?と見方を広げて考えることができます。

働きかけ
望ましいループを作り出す
望ましいループを強める
望ましくないループを断つ
望ましくないループを弱める

自分自身を見つめる際にも有効。
システム思考は、「自分を責めない」アプローチですし、時系列変化パターングラフにしてもループ図にしても、自分の癖やパターンを自分から「取り出して」描くことができるため、感情的にならずに冷静に「なぜだろう?」と自分との対話を深めていくことができます。そのおため、新しい視点や洞察を生み出していくことができるのです。

よくなる前に悪くなる
「評価までの時間」が短いと 中略 「この取組みは成果を出すどころか、悪化しており、大失敗である」と判断され、切り捨てられてしまうことでしょう。

その他
システム思考のツールは、組織のコミュニケーションにとって有用であり、とりわけ能力の向上に大きな力を発揮します。そして、全体像を把握して複雑なシステムの構造を理解することは、組織の一人一人に大きな力を与えてくれるのです。

理性のループだけでなく、感情のループも考えてみる

リーダーは船長でなく設計者

仕事や人生に役立つ「システム思考七ヶ条」
1 人や状況を責めない、自分を責めない
2 できことでなく、パターンを見る
3 「このままパターン」と「望むパターン」のギャップを見る
4 パターンを引き起こしている構造(ループ)を見る
5 目の前だけではなく、全体像とつながりを見る
6 働きかけるポイントをいくつも考える
7 システムの力を利用する

システム思考は、「ちょっと待てよ」といってくれるアプローチです。目の前の問題や解決策くに飛びつくのではなく、「ちょっと待てよ。いま見えていないものも含め、全体の構造はどうなっているのだろう?」
「ちょっと待てよ。これをやると、こちらの想定している以外の影響が出てくる可能性はないだろうか?」
ーそんなことをシステマティックに考えさせてくれるアプローチなのです。

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# by taiji_nakao | 2011-01-16 00:20 | 学習する組織